kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

プロパガンダ映画における美しさへの敬意~『人生はシネマティック!』

BBC(英国放送協会)フィルムズ他製作・ロネ・シェルフィグ監督の『人生はシネマティック(Their Finest)』のDVD&Blu-rayレンタルが開始したというニュースを聞きつけたので、さっそくレンタルしてみてみました。

 


映画『人生はシネマティック!』11.11(土)公開

 

執筆経験ゼロの女性が、「ダンケルクの戦い」で力を貸した双子の姉妹のエピソードをもとに、戦意高揚のためのプロパガンダ映画の脚本を執筆することになり、役者のワガママはもちろんのこと、政府によるプロパガンダ映画(!)なので、「これは戦意喪失につながるからダメ!」とか、「米国との関係を良好にするために戦地で活躍したイケメン兵士を役者で使え!」とか、戦時中ならではの無茶難題がいろいろ出てくる…というお話。

よく考えてみると、いずれの無理難題も、戦争やそのためのプロパガンダ、というバックグラウンドを考えると、笑えないものばかりなのだけれども、それをコメディ・タッチで描ききったところが、この作品が高く評価されている理由なのだと思う。

 

戦時下の言論統制の中で、脚本家が政府関係者からの無理難題を附きつけられ、それに知恵で対応していく姿をコメディ・タッチで描いた作品といえば、三谷幸喜の『笑の大学』を思い出す。


笑の大学 2004

笑の大学』の場合、書かれるべき脚本は、けして、戦意高揚のためのものではないし(検閲官から、そうなるよう求められる場面はあるけれど)、基本的には、検閲官との戦いが描かれている。

一方、『人生はシネマティック!』では、はじめから「プロパガンダ映画」を製作しようとしている点が異なっており、それが、本作のもっとも面白いところだと思う。

 

プロパガンダ映画」といえば、この映画の製作に関わっているBBCは、1992年12月に、3回シリーズのドキュメンタリー番組『We Have Ways of Making You Think』 (日本では、日本経済新聞社より「メディアと権力」シリーズとして発行)を制作していて、そのシリーズの第1回で、ドイツのプロパガンダ映画を取り上げていた。

その名も、『Goebbels, master of propaganda (邦題:大衆操作の天才・ゲッベルス)』。

 

私は、このドキュメンタリー番組は、収録されている当時の映像や、関係者へのインタビューが相当貴重なものだと思っていて、以前、「言語文化論:メディア・ことば・社会」という授業を担当していたときには、かならず、学生たちと一緒にこの映像を見ることにしていた。

このドキュメンタリー番組のすごいところは、プロパガンダ映画のために人々を楽しませるためのあらゆる技法が開発されてきたこと、そのため(映画そのものとしては)非常に精緻で完成度の高い、美しいものであるということが、ある意味での敬意をもって表現されているところだと思う。

まさに、「本当に恐ろしい大衆扇動は、娯楽の顔をしてやってくる」『たのしいプロパガンダ』)ということ。そのことを、当時の映像とインタビュー映像を通して、淡々と描きだしているところが、個人的には、とても好きだった。

 

 このドキュメンタリー番組を見た上で、『人生はシネマティック!』を見てみると、そこには、共通して、戦時中のプロパガンダ映像に対する敬意のようなものが見られるように思う。

事実、『人生はシネマティック!』のロネ監督は、映画に対するメッセージの中で、「…また映画産業の歴史的遺産も盛り込んでいる。敬意が伝わるといいなと思います。脚本を読んで魅了された点は登場人物やトーンだけではありません。戦争中の映画の重要性というテーマも気に入りました。映画史の中のこの短い期間には、多くの名作が撮られ、映画が大事な意義を担っていました。それがストーリーの元を流れるテーマになっています。…」(『人生はシネマティック!』監督メッセージ&メイキング写真 「映画への敬意が伝わるといい」|Real Sound|リアルサウンド 映画部)と述べている。

 

日本では、「プロパガンダ映画」というと、それだけで忌避されたり、「当時はこんなヘンテコな映画が作られていたのかw」というような、嘲笑の対象として扱われることの方が多いような気がする。

そういう意味では、「プロパガンダ映画」そのものに対する距離感や価値づけといったものが、日本と欧米では、異なっているのかもしれない。

 

プロパガンダ映画」を制作した人びとの努力やその中で開発されてきた多くの重要な映像制作のための技法。そして一方で、それによって、大衆の心が動かされてきたという事実。

その両者を見ていこうとすることが、(クリティカルな)メディア・リテラシーの第一歩なのだとすれば、まさに、その第一歩としてみておくべき映画なのではないか。

 

日本のプロパガンダ映画に対しても、同様のアプローチの映画が見られると良いのだけれど。もしそのような作品があるのであれば、ぜひ観てみたい。

プログラミング学習と言葉(記号)の学び~「レッツ!ピクトグラミング」~

青山学院大学相模原キャンパスで開催された、「レッツ!ピクトグラミング第1回: プログラミングを学んでみよう」に、行ってきました。

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相模原市は、「ICT環境がなくてもできるプログラミング学習」を合言葉に、全国に先駆けて、小中学校でプログラミング教育を推進している自治体として知られていますが、学校外での取り組みも数多く行われているのですね!

ict-enews.net

 

ピクトグラミング(Pictogramming)」は、青山学院大学の伊藤一成先生が、昨年12月に公開したアプリケーション。

「ピクトグラミング」とは、「ピクトグラム(Pictogram)」と「プログラミング(programming)」を合わせた造語で、このツールを使うと、いろいろなピクトグラムのイラストが作成できたり、さらには、ピクトグラムをアニメーションで動かせたり(!)できるてしまうという、すてきアプリ

 

www.itmedia.co.jp


内海慶一(2007)『ピクトさんの本』を見て、「これは…!」となりそれ以来、「ピクトさん」との出会いを心のどこかで探し求めてきたわたしには、まるで夢のようなアプリです

 

「Pictogrammingとは?」の説明には、次のように書かれています。

Pictogrammingは,Pictogram(ピクトグラム)とProgramming(プログラミング)を合わせた造語です.

プログラミングを学び始めるためのツールとして作用するかもしれませんし,ピクトグラムをつくるためのツールとして作用するかもしれません.

社会の諸問題を知ったり,解決するためにピクトグラムを活用してみませんか?

人型ピクトグラムはあなたの分身にもなります.自分を振り返り,自分の内面にある何かを表出してみませんか?

 

プログラミングを学び始めるためのツール」であり、ピクトグラムをつくるためのツール」でもある「ピクトグラミング」。
単に、プログラミングを学ぶためのツールではなく、なにか新たな作品(デザイン、アート...etc.)や新たな記号としての意味を創造できるというところが面白いですよね。

 

言葉の学習に関心がある者としては、やっぱり、学習者とともに新たな言葉(記号)の意味を創造していくような学びの場をデザインすることに関心があり、そういう意味でも、「ピクトグラミング」というツールによって創り出される学習環境に、とても興味がありました。

 

そこでさっそく伊藤先生に(突然)コンタクトを取ってみたところ、なんと幸運なことに、「レッツ!プログラミング」第1回に、ファシリテーターとして参加させていただけることになりました!

プログラミング教育は、まったく専門ではないうえに、「ピクトグラミング」では、2次元イラストを作成するところだけで満足してしまって(←「ピクトさん」ファンの限界)、アニメーション作成で遊び慣れているような段階ではなかったので、不安でいっぱいでした。

が、「プログラミング学習では、『先生』なんていない!みんなが、『学習者』だ!ピア・ラーニングだ!」と、自分が以前どこかで言ったようなことを、自らに言い聞かせて、ファシリテーターとして参加してみることに。

とはいえ、実際参加してみると、当たり前ですが、子どもたちはひとつ何かが達成できると、「あれも」「これも」といろいろ「やりたいこと」の妄想が広がっていくので、ファシリテーターとしては子どもたちの「やりたいこと」を一緒に実現したり、さらに遊び方の可能性を広げられるくらいには、遊び慣れていないとダメだったな…と反省。

次の機会までには、もっとアニメーションで遊んでおきたいと思います。

 

 

ファシリテーターとしては、自分の無能さをただただ実感するだけの時間でした。

が、そのようなかたちで関わらせていただいたおかげで、十分すぎるほどに、「ピクトグラミング」というツールによってひらかれる学習の姿を見ることができました。

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「Yes, and」と「Creative Disagreement」とネガティブな感情と~「ワタリーショップ×学びのリフレクション」

2018年3月30日に、横浜国立大学にて、教育×即興×省察 春の体験会「ワタリーショップ×学びのリフレクション」が開催されました。

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watari-bouya.com

 

6dim+(ロクディム)渡猛さんによるワークショップ(「ワタリーショップ」)と、上條晴夫先生(東北福祉大学)井谷信彦先生(武庫川女子大学)による「協働的な授業リフレクション」のコラボレーション企画。

 上條先生によるリフレクションについては、以前、上條先生のご著書『実践・教育技術リフレクション あすの授業が上手くいく〈ふり返り〉の技術(1) 身体スキル』のレビューも書きましたので、そちらも御覧いただけるとうれしいです。


kimilab.hateblo.jp

 

「ワタリーショップ×学びのリフレクション」は、定員を超える方々に参加申込をいただき、当日のワークショップおよびリフレクションも大変盛り上がりました!

ワークショップ後、SNSのグループなどで盛んにコメントのやりとりがなされ、参加者の方々の興奮冷めやらぬまま、新年度へと突入した感じがしています。

 

私自身、ちょうど、諏訪正樹(2018)『身体が生み出すクリエイティブ』(ちくま新書)を読んだばかりだったこともあり、本書に記載されている「からだメタ認知に関する議論、クリエイティブになるための道筋などが、まさに、このイベントの中の、「ワークショップ(ワタリーショップ)」→「学びのリフレクション」の往還のなかで、ぎゅぎゅっと凝縮して体現されいる気がして、あらゆる瞬間が「ああ!これこれ!」という感じで、とてもエキサイティングでした。

 

一方、そんな中、ある参加者の方から、個人的に、ワークショップやリフレクションの中で生じる、ネガティブな感情の行く末、それとの接し方についてお問合せをいただきました。

わたし自身、今回のイベントの中で、そのことに少し違和感を感じていたこともあり、あらためて、インプロ・ワークショップやそれをめぐるリフレクションでの、ネガティブな感情の扱い方について、考えさせられてしまいました。

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性とか愛とかのカテゴリーと、それに戸惑うわたしたち―『恋とボルバキア』

お題「最近見た映画」

本日、横浜にあるシネマジャック&ベティで公開中の、小野さやか監督『恋とボルバキア』を見てきました。

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映画『恋とボルバキア』公式サイト


恋とボルバキア 公開記念動画

この映画、昨年12/9から公開されているのですが、ドキュメンタリ―映画であることもあって公開されている映画館が少ない。今回(たった1週間とはいえ)シネマジャック&ベティで上映され、それを観ることができたのは本当にラッキーでした。

 

恋とボルバキア』には、「カラフルにトランスする恋とか愛とかのドキュメンタリー」というキャッチコピーが付けられているけれども、まさに、「カラフルにトランスする」とか「恋とか愛とか」としか言いようがないような…そんな、「何ものか」に括りきれない、わたしたちの性や恋や愛…そしてその遠くに見え隠れする家族のかたちを、ぎこちないままに見せてくれる映画だったと思いました。

 

2017年は映画レビュー記事の中でも、「2017年はLGBT映画が興隆」であることが話題になったり、日本でも、いわゆる「LGBT」「性的マイノリティ」が登場する映画をいくつも見た実感があります。
しかし、その一方で、いわゆる「LGBT」「性的マイノリティ」という言葉から零れ落ちてしまう生き方やアイデンティティ、関係性のありようから、かえって目がそらされていくような、そんな印象をありました。

政治的なカテゴリーとしての「LGBT」「性的マイノリティ」が着目されていく中で、その人自身の「こうありたい自分」の表現や権利の問題がクローズアップされている感じがあったのも事実だと思います。

 

もちろん、「こうありたい自分」を表現していくことも、自分が「こうありたい」と願うライフスタイルを実現するために権利を主張していくことは、とても重要なこと。

すべての人たちが、自分らしく生きていくためのエンパワーメントを、できるだけサポートしていきたい、とわたしも思う。

でもその一方で、「こうありたい」という願いばかりがクローズアップされたときに、その人をとりまく他の人たちとの関係性や、その人自身が他の人との関わりで変わっていくことのできる可能性を閉じてしまったりはしないのだろうか…という点が気にかかっていて、そのことが、自分のなかに、違和感として存在していました。

 

恋とボルバキア』は、そんな違和感をそのまま、掬い取ってくれた映画だったように思います。

 

本映画の監督である小野さやかさんは、『i-D』のインタビューに次のように答えています。

——トランスジェンダーは、性別規範・役割を押しつけられたり、男性あるいは女性としての身体的特徴に違和感を持ち、服装や生活に切り替えたり、身体レベルで性別を移行する人もいる。しかし、そういう在り方が受け入れられる土壌は、例えば(男性から女性に性別を移行する)トランス女性なら「ニューハーフ」として水商売・風俗の世界が主だったりしますよね。だからこそ、「プロパガンダ」のような空間では、見られる自分を消費される代わりに華やかな自分こそを見てほしい、という意識に傾きがちなのかなとも考えました。そのあたりの強い自意識はアイドルの在り方に通じるとおもいます。

まさにその通りだとおもいます。ですが、私が撮りたいと依頼した出演者のみんなは、他者への関心がちゃんとあった人たちなんですね。撮られることはもちろん、他人との関わりで化学反応が起きることを引き受ける気概が感じられた。本人たちとちゃんと話したわけじゃないんですけど、「こう見せたい自分」という自意識から一旦離れて、やりとりができる人たちでしたね。映画っていう枠の中で、こちらがこんなふうに撮りたいって言うと、もっとおもしろい代案が出てきたり。( 恋と性の振る舞い:『恋とボルバキア』 小野さやか監督インタビュー - i-D)(太字は引用者)

 

映画鑑賞後、この記事を読んで、「ああ、なるほど。そういうことだったのか」と、納得してしまいました。

このドキュメンタリ―映画に出てくる人たち―その人たちの生きる性や愛のスタイル、性や愛の問題との関わりかたは、実にさまざまだけれども―、あの人たちに共有していたのは、「他人との関わりで化学反応が起きることを引き受ける」ことができるという…そういうことだったのだな、と。

 

「愛」も「性」も、そして「家族」も、誰かとの関係なしには成り立たないし、そうであるとすれば、そこに、他人との関わりが生じないはずがない。

だけれども、「LGBT映画」といったときに登場する他者のありかたは、どこか固定されていて、極端な言い方をしてしまえば、「アライ」か「非-アライ」かの二分法でくくられてしまっているように見えるときすらある。

「当事者以外」(と括られてしまっている人たち)にできることは、「当事者」の要求や表現を「受け入れるか」「受け入れないか」のどちらかで、当事者はほとんど変わることがない。

もしかしたら、わたしが感じていた違和感は、その「変わらなさ」なのかもしれない…とあらためて思いました。

 

もちろん、マイノリティに対して、マジョリティが「お前が変われ」と要求することは暴力でしかない。でもだからといって、「変わらない」ことを要求するのも、同じように暴力なのだと思う。

私たち皆の中に「変わりたい」と思える部分、「変わりたくない」と思える部分が存在していて、そしてそれは私たちの生活や人生の流れのなかで、流動的に変わっていきつつあるものでもあって…そういうなかで、愛や性の問題が出てきたり、消えていったりする。

そんな、考えてみれば、私たちすべてにとって当たり前に存在しているような世界。そんな世界を『恋とボルバキア』はそのまま、提示してくれている。

 

この映画は、シネマジャック&ベティでも、たった3/30までしか上映せず、その後も(地方映画館ではいくつか上映が予定されているところもあるようだが)あまり観られるところは多くないようで、とても、もったいないと思う。

この映画、これからどうなっていくんだろう…。

もっともっとたくさんの人たちに観てもらいたいし、その観た人たちといろいろな話がしてみたい。…そんなことを思わせる映画だった。

ネットワークを遊ぶ/ネットワークで遊ぶ―「39アート in 向島2018」

2018年3月1日~3月31日まで開催している「39アートin向島2018」に行ってきました。

「39アートin向島」とは、「サンキューアートの日」に地域で参加しているプログラムのひとつ。「39アートin向島」が始まったのが、2010年3月ですので、今年でもう9回目を迎えることになります。

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墨田区押上に、東京スカイツリーがグランドオープンしたのが、2012年5月。

「39アートin向島」は、東京スカイツリー建設中から、そのオープン、そしてその後の展開を見守りながら、地域の人たちとともに展開してきたプロジェクトということになります。

その間、この地域のもつ意味も、そこに住んだり働いたりする人たちの層も大きく変化してきました。

新たな観光客や住民に向けたカフェなどがオープンし、「39アートin向島」にもたくさんのカフェが参加しています

 

そのような中、墨田区京島エリアにあった長屋の取り壊しが決定し、その立ち退き期限である3月31日までの間に、取り壊しの決まった長屋を使用した展示や、そこでの様々なプロジェクトが展開されていたり(京島長屋82日プロジェクト)、

hyperconcreteness.tumblr.com

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一方で、そのような街の変化のなかで残された活気ある商店街の中で、商店街とコラボレーションした展示があったり、

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時代や社会の変化、都市構造の変化によって変わりゆく街と人々との関わりを、様々なプロジェクトが、それぞれに異なった切り口で、見せてくれる様が面白い、とあらためて思います。
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そんな中、今回は幸運なことに、関わってきた期間は異なれど、このエリアでさまざまなプロジェクトを展開してきたお二人とガッツリお話する機会を持つことができました。

その中で、現在このエリアに新たに登場しつつあるキーワードとして、「遊び(play)」というキーワードが挙げられたのが、非常に面白かったです。

 

実際、お二人とのディスカッションのあと、「39アートin向島2018」を見てみると、社会や文化に対する「抵抗」「批判」というよりは、「支配/従属」「マジョリティ/マイノリティ」「ハイカルチャーサブカルチャー」という二項対立そのものを無効化したり、転覆・融解させていくような「遊び」的なアプローチに立つ人たちや、プロジェクトの存在が印象に残りました。

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変わりゆく街の風景に対しても、「対抗」「批判」的な姿勢でそれらを守ろうとしたり、もの申していくのではなく、

「なくなっていく」「捨てられる」という状況そのものを、クリエイティブの契機として捉えなおしていくアーティストがいたり、

これまでこのエリアで培われてきた人・モノ・コトの関係性をあえて「組み替えていく」ことで、新たな可能性を生み出せるのではないかと考える人たちがいたり、

これまでにあったさまざまな地域の資源に対する見方、培われてきたネットワークに対する発想のありかたが、これまでとは異なるかたちで展開していくような予感を、そこかしこに見ることができました。

 

これまでこのエリアでは、クリエイティブな活動のための「ポイント」が作られ、それらが相互に影響しあがら、新たな「ポイント」が生み出され、さらに「39アートin向島」を含むアートプロジェクトの中で、それらの「ネットワーク」を構築されてきました。

もしかしたら、今後は、さらにその創り上げられてきた「ネットワーク」をもとに、さらにそれらをプレイし、新たなネットワークの可能性を見出したり、ネットワーキングすることそのものを遊びながら、これまでとは異なるアプローチで創造的な活動が行われていく段階へと発展していくのかもしれません。

「書く。部」によるギャラリーガイド~『チュートリアル:ポスト・ヒューマン時代の歩き方』と『GAME 超人類転生』

水戸芸術館現代美術センター「高校生ウィーク」の一環として開催した連続ワークショップ「書く。部」が、昨日、無事に終了いたしました。

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イベントの詳細については、こちらをご覧ください。

書く。部第1回 対話型鑑賞「ハロー・ワールド」展

書く。部第2回 編集会議「夢のギャラリーガイドを妄想する」

書く。部第3回 ギャラリーガイド公開制作

 

第1回対話型鑑賞「ハロー・『ハロー・ワールド』」では、チームごとにわかれて、現代美術ギャラリーで開催されている「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」を、みんなで自由におしゃべりしながら鑑賞。

おしゃべりする中で、出てきたキーワードを、カードにどんどん書いていきました。

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「高校生ウィーク」とはいえ、参加者は、中学生から社会人さまざま。

「ハロー・ワールド」展でテーマになっているような、「科学技術やコミュニケション・テクノロジーと人類との関係」についても、世代によって、その人が生きてきた文化によって、さまざまなイメージがあります。

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展示作品から、「昭和」的なサイエンス・フィクション(SF)の世界を感じたり、1990年代のテクノ・ミュージックにありそうなサイケデリック感を想起したり…「科学技術と人類」と一言で言っても、そこには、さまざまな意味がたちあがってきます

 

第2回目の編集会議「夢のギャラリーガイドを妄想する」では、第1回目のワークショップで立ち上がってきたキーワードをもとに、「ハロー・ワールド」展を、より面白く見るために、どんなギャラリーガイドがあったら面白いだろうか?と妄想を膨らませます。

 

個別の作品から、ギャラリーガイドのためのヒントを得てみたり、あるいは展覧会全体のイメージから、ギャラリーガイドのヒントを得てみたり、発想の仕方はさまざま。

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 参加者たちから出てきたアイディアを、ホワイトボードにまとめていきます。

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話し合いの結果、今回の「書く。部」では、2つのギャラリーガイドを作成することになりました。

 

ひとつは、展覧会会場に入る前に、誰もが手にとることができる①配布用ギャラリーガイド。

もうひとつは、展覧会途中に立ち寄れる高校生ウィークカフェ「YAP!」内で遊ぶことのできる②ゲーム型のギャラリーガイド。

 

第3回目のワークショップでは、具体的に、自分たちで妄想したギャラリーガイドをかたちにしていきました。

こちらは、①配布型ギャラリーガイドを作成するチーム!真剣です!

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②ゲーム型ギャラリーガイドを作成するチームは、ゲームをプレイしながら、ガイドのあり方を考えていくので、もうちょっとゆるやかな感じ。…楽しそう。

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テストプレイを終えて、カードに清書をして…
…ついに完成です!できた!

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こうして、ようやくギャラリーガイドが完成しました。

 

できあがったギャラリーガイドは、水戸芸術館現代美術ギャラリー内カフェ

YAP!」の「書く。部」ブースにて配布&設置中です!

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4月8日(日)までの「高校生ウィーク」期間中に皆さんに見ていただいたり、体験していただいたりできるようにしたいと思っています。

ぜひ、皆さま、水戸芸術館現代美術ギャラリー内カフェ「YAP!」までお越しくださいませ。

プレイフルな芸術と、遊びのアート化―「みっける365日展:アーティスと探す人生の1%」

本日、2018年2月24日、世田谷生活情報センター・生活工房にて、「みっける365日」展が始まりました。

www.setagaya-ldc.net

「みっける」は、現代美術作家の北川貴好さんが、2011年1月に、「朝から夜まで一日千枚を目標にデジタルカメラで写真を撮り、それを一コマ0.2秒の高速のスライドショーにして約4分の映像を遊びで作ったところから始まった」プロジェクト(「history」-30秒に一回みっける写真道場

www.mikkedojo.com

こちらの動画を見ていただくと、理解しやすいかもしれません。


30秒に一回見っける写真道場!

「みっける365日」展のホームページには、次のように説明されています。

切り取りたいものごととの関係性をつくろうとする、能動的な行為のこと。

これまで各地で展開してきた「みっける写真道場」は、1日に1,000枚写真を撮り高速スライドショーを作るプロジェクトです。

能動的に何かを「みっける」ことで現れた、あなたの思考や意思を映す写真――。

そんな写真の連なりを映像作品にして発表してきました。

この度の「みっける365日」は1日ではなく、1年。

つまり人生の1%以上を能動的に動き、おもしろくみっけるアクション! を積み重ねていくプロジェクトです。

 

「みっける」は、2015年頃から、それまでの「地域再発見」的な1day ワークショップの範疇を越えて、さまざまなアーティストたちとのコラボレーション・ワークを展開してきています。

「みっける365日」は、その中でも、市井の人たちが1年間撮りためた写真を使って、それを高速スライドショーなどのかたちで見せていくプロジェクト。今回は、世田谷という地域になんらかのかたちでかかわる人たちが、1年間、なんらかのかたちで撮りためた作品をもとに、アーティストたちのもと作品を制作するというプロジェクトになています。

わたしは、2016年に行われた「みっける日常ヨコハマ|だれかの365日とアーティスト」での試み―だれかが1年間スマホで撮りためた写真を素材にして、アーティストが「みっける」作品を制作するという試み―に、ある種の暴力性を感じていて、それを北川さんご本人に伝えていたこともあり、今回のプロジェクトがどのような展開になるのか、非常に楽しみにしていました。

 

…そんなこともあってか、今回、オープニング・イベント「『みっける』って、なんなん?」にゲストとしてお呼びいただきました。ありがとうございます。

 

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本日、展示会場では、まだ何人かの参加者の方々が、公開制作を続けられているような状況ではございましたが、そのような中、オープニング・トークイベントが開催されました。

わたしにとって、今回の大きな関心事は、「みっける365日」展で採用された、「ゼミ」システムが、アーティストと参加者とのどのようなコラボレーションを生み出すのか?ということ。そして、そのなかで「みっける」という仕組みがどのように意味づけられ、それが最終的に、どのような作品群に結実するのか?ということでした。

 

そんなわけで、トークイベントへの出演をご依頼いただいたことをきっかけに、森田幸江さんによる「みっける探偵FILE」のブログを熟読し、下記の記事を中心に、それぞれの「ゼミ」の特徴(?)として読み取れるものをスライド資料にしながら、トークを進めていくことにしました。

www.setagaya-ldc.net

上記ブログ記事のなかでは、各ゼミのその日の様子が、次のようなキーワードでまとめられています。

  • 北川貴好ゼミ──追加的
  • 青山悟ゼミ──魔法的
  • キュンチョメゼミ──二次元的
  • タノタイガゼミ──求心的

実際に、展示室に行って作品を見てみると、ここで書かれているような関係性がこう結実するのか…!と得心すもあり、逆に、疑問に思うこともあり…、トークイベントでは、そのあたりのことを、参加者の皆さんに、直接お伺いすることができました。

おかげで、今回の「みっける365日:アーティストと探す人生の1%」において見られた展開をもとに、あらためて、芸術でもあり遊びでもあるものとしての「みっける」のレンジが浮かびあがってきたように思います。

 

以下、展示について。

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