kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

言語学TRPG「ダイアレクト(Dialect)」で遊んでみた

Thony Gameの『ダイアレクト(Dialect)』のプレイ体験会を開催しました。

「ダイアレクト(Dialect)」とは、「方言」「通語・隠語」という意味。

日本語だと「方言」といえば、ほぼ、関西弁や東北弁などの「地域方言」しかイメージされないことが多いのですが、このゲームで扱われているのは、どちらかというと、職業やサブカルチャー共同体で用いられるような「社会方言」の方ですね。

そういう意味で、日本で売り出すとしたらジャーゴン(jargon)」にしたほうがいいのかもしれない。「ジャーゴン」もそんなに知られている用語ではないとは思いますが、「ダイアレクト」よりは聞き覚えがある人が多い気がします。

 

さて、この『ダイアレクト』というゲームですが、公式サイトには、次のような説明が書かれています。

『ダイアレクト』は、孤立無援のコミュニティと、彼らの言語、そして言語が失われることの意味することについてのゲームである。このゲームであなたたちは、孤立体(Isolation)の言語(language)を構築することによって、その孤立体の物語を語っていく。新たな単語(words)は、コミュニティの基盤となる諸相(aspects)からもたらされる。基盤となる諸相とは、すなわち、彼らが何者であるのか、彼らが何を信じているのか、そして、彼らがいかに変わりゆく世界に応じるのか、である。(Dialect – Thorny Games)(訳は引用者)

ww.kickstarter.com

はじめに、どの世界観で遊ぶかを決めます。

ファシリテーターから5つの世界観が示されて、参加者5名の投票によって、どの世界観をプレイするかが決められます。

このとき、はじめに、「遊びたくない」世界観を全員に表明してもらったのち、それ以外のものから選ぶ…というやりかたは、ステキだなと思いました。「遊びたくない」もので遊んでいたって、楽しくないだけですからね!

今回プレイしたのは「わたしは歌う、電子の地球を(Sing the Earth Electrnic)」*1

人類をはじめ、あらゆる動植物が死滅したあとの地球で、残されてしまったたくさんのロボットたちのうちの一部が、自らの言語を話せるようになってしまった…という世界観ですね。

今回プレイしたようなSF的な世界以外では、歴史ファンタジー、エリート男子高(!)、オンライン家族、おもちゃ箱の住人といった世界観があるようです。

ちなみに、わたしがはじめにプレイしたのは「おもちゃ箱の住人」でした。

 

次に、コミュニティの基盤となる諸相(aspects)=「アスペクトを決めます。

今回は、(1) ロボットたちの職務、(2) 人間性の影と、あとは(3)フリーでなにか、という感じでした。

(1) ロボットたちの職務は、「自然環境の回復」

(2) 人間性の影としては、「死の恐怖」がある。

(3) フリーのアスペクトとしては、「(言語を話すロボットは)ロボット階級の最下層にいるため、反乱を企てている」というような内容でした。

すでに、なんか物語が始まっているようです。

 

アスペクト」が決まったら、次は、世界観に応じた設定について考えるための質問について、プレイヤー全員で考えていきます。

今回の世界観では、「現在の地球の姿は?なぜ生物が死滅したのか?」とか、「ロボットの動作不良が起きたらどうする?」とか、そんな感じの質問が5つあり、5名のプレイヤーで1人1問設定を考えていきました。

 

ここまで設定が決まってきたところで、この隔絶されたコミュニティの名称=「アイソレーションを決めます。

今回は、わたしが静岡土産の「オオグソクムシせんべい」を開きはじめてしまったせいで、「オオグソクムシに決まってしまいました。皆さん、ごめんなさい!

 

チーム名が決まったら、いよいよ、それぞれのキャラクターを決めるのですが、このときに、キャラクターの特性を決めるためのカードが配られます。1人3枚ずつカードが配られ、そのうちの1つを選び、自分のキャラクターの属性とするという感じです。

*1:「Sing the body electrnic」が「わたしは歌う、電子の躯を」と訳されることがあるようなのでそれに倣ってみました。

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トライアルワークショップ『パフォーマンスに基づく新しい教員研修の方法』

「パフォーマンス心理学研究会」による12月の研究会(ワークショップ)に参加してきました。

「トライアルワークショップ『パフォーマンスに基づく新しい教員研修の方法』」というタイトルで、講師は、宮本万里さん。

 

3時間のワークショップでしたが、あっという間に終了時間になってしまいました。

「パフォーマンスに基づく新しい教員研修の方法」というタイトルで、しかも、下記のような紹介で集まってきた方々だったせいか、パフォーマンスへの意欲がかなり高い状態で、始まったワークショップだったなぁ、という印象です。

 

トライアルワークショップ
『パフォーマンスに基づく新しい教員研修の方法』
日時:2018年12月16日(日曜日)
   14時から17時まで。
会場:筑波大学東京キャンパス


講師:宮本万里さん(Creative Communication Company, New York)


内容:プロジェクト研究3『演劇的表現やパフォーマンスを通した学習と学習環境の共創』の3つのミッション(①附属学校群の教育方法の革新、②教員のマインドの改革、③危機管理に関する新しい研修方法の開発)のうちの②のためのトライアルワークショップを試みる。


 プロジェクト3の内のミッション③について:教員のバーンアウトや新しいことにチャレンジできない固定化したマインド等の問題が指摘されて久しい。本プロジェクトでは、教員、とくにベテランといわゆる年齢となり、これまでのやり方から抜け出すことのできず、相変わらず体罰や暴力的な指導を繰り返す教員が少なくない。

インプロパフォーマンスの経験を通して、このような固定化してしまった教員に対して、新しいことに向かって再イニシエーションの支援を行うような、新しい研修プログラムを開拓する。

 

 

今回行ったアクティビティは、下記のとおり:

 

  1.  ポーズで自己紹介
  2.  相手の名前を呼ぶ
  3.  「GO!」
  4.  赤いボール
  5.  「何してるの?」
  6.  単語あてゲーム①(名詞)
  7.  単語あてゲーム②(名詞+形容詞)
  8.  2人組でフリーシーン
  9.  「あけて/あけたくない」のスキットに基づくシーンづくり

 

ワークショップでは、受付時に、「自分の呼ばれたい名前」をテープに書いて、わかりやすい位置に貼るように求められます。

「1 ポーズで自己紹介」では、その名札テープにかかれた名前を言いながら、「自分がどこから来たのか?」にまつわるポーズをとりました。

わたしは、その日、某オリンピック・サーフィン会場予定地から上京して、ワークショップに参加していたので、サーフィンのポーズを取ったつもりだったのですが、まったく伝わらなくて残念でした(^^;)

 

次に、1 で示された名前とポーズを使って、「2 相手の名前を呼ぶ」アクティビティ。

自分のポーズを取りながら自分の名前を言い、次に、ターンを受け渡したい相手のポーズを取りながら、相手の名前を呼びます。

1 で、印象的なポーズを取られていた方がやたらとターンを回される羽目になります。……仕方ない(笑)

 

「3 『GO!』」は、「GO!」と言って相手に近づきながら、相手をその場所から移動させ、自分がその相手のいた場所に入るというゲーム。

相手の名前を呼んだりするわけではないので、相手に向けて「GO!」を届けること、相手との間のテンションを保ちつつ近づいていくことがポイントとなります。

 

「4 赤いボール」は、参加者全員で輪になって、イメージの「赤いボール」を渡していくゲーム。渡す人は、「赤いボール」といって、イメージのボールを手渡し、それを受け取った人は、イメージ上のボールを受け取ったあと、「赤いボール。ありがとう」と言います。

今回のワークショップでは、「緑のボール(Green ball)」「緑のボール。ありがとう(Green ball. Thank you!」と受け渡すアクティビティーから始まり、「大きなスイカ(Big Water mellon)」「眠っている赤ちゃん(Sleeping baby)」など、さまざまなものが受け渡されていきました。

 

「5  何してるの?」は、『インプロをすべての教室へ』にも掲載されているアクティビティー

2人組でペアになって、1人が何かのアクション(例:料理をする)をしているところに、もう1人が「何してるの?」と声をかけ、アクションをしていた人は、自分がしているのとはまったく異なるアクションを言います(例: 「水泳してるの!」)。言われた方のペアは、相手が言った内容のアクション(この例でいえば、水泳)をはじめ、それを交互に行っていくというゲームです。

インプロをすべての教室へ 学びを革新する即興ゲーム・ガイド

インプロをすべての教室へ 学びを革新する即興ゲーム・ガイド

 

今回のワークショップでは、宮本さんから、「自分が言ったことに対して、相手がどんなアクションをするのか。自分のイメージとの違いを感じてみて!」という声かけがありました。

確かに、「掃除をする」でも、雑巾がけあり、窓拭きあり、掃除機あり…とそのイメージはさまざまですよね。

個人的には、たまたま、その声かけがあったあとにペアになった方が、「焼酎飲んでるの!」「日本酒飲んでるの!」とおっしゃって、わたしなりの焼酎飲んでる像と、日本酒飲んでる像を演じわけてみたのですが、自分がそんなことができることにビックリでした。

 

次の「 言葉あて」(6~7)では、1人ひとつずつ、名詞のみのカードと、形容詞+名詞のカードが配られます。その言葉そのものを言わずに、相手になんもか、自分の持っているカードの言葉を当てさせるゲームです。

 

これらのゲームを経て、後半は、ペアによるシーンづくり。

ひとつ目の「8 フリーシーン」は、脚本なし。もうひとつ最後に行われたシーンづくりでは、「開けてほしい/開けたくない」の対立がある短いスキットが示され、それに基づくシーンづくりを行いました。

 

終了後の交流会で、宮本さんにお伺いしたところ、今回のワークショップでは、「自分が用いている、この言葉のイメージは、相手に伝わるのだろうか?」ということについて振り返り、考えていくための時間を創りだすことをねらっていたとのこと。

 

ニューヨークで日本語学習のためのインプロ&パフォーマンスによる学びの場を展開して、日本で英語教育のためのインプロ&パフォーマンスによる学びの場を展開してきた宮本さんが、「言葉のイメージ」に対してそのようなかたちでインプロ・ゲームやパフォーマンスを用いられていることが、興味深かったです。

 

留学生対象の日本語教育を担当されている先生とともに、日本語初級クラス受講生と教員養成課程の学生との共同ワークショップを行って2年目になりますが、そのワークショップでは、むしろ、「言葉がなくても通じちゃった!」とか「ミス・コミュニケーションって面白い!」みたいな感覚を創出するこもをねらいにしてきました。

そういう意味では、言葉やコミュニケーションの学びと、インプロやパフォーマンスとの関係について、また違ったアプローチを見せていただいた感じがします。

ロイス・ホルツマン『太りすぎの脳(Overweight Brain)』第1回研究会

2018年12月27日(木曜日)13:00より、明治大学中野キャンパス(JR中野駅から徒歩5分)にて、ロイス・ホルツマン『太りすぎの脳(Overweight Brain)』の第1回研究会(翻訳検討会)を開催いたします。

 

 

本書『太りすぎの脳~知ることへの脅迫観によって、私たちはいかに良い世界を創るのに十分賢くなれずにいるか~(Overweight Brain: How our obsession with knowing keeps us from getting smart enough to make a better world)』は、今年7月に出版されたばかりの書籍です。

著者のロイス・ホルツマン(Louis Holtzman)は、「ソーシャルセラピー(social therapy)と呼ばれる、グループ・短期心理療法のための機関「イーストサイド・インスティチュート(East Side Institute)の所長を務め、ヴィゴツキーやソーシャルセラピーについての多くの著書を執筆しています。

2014年には、ホルツマンの著書『Vygotsky at Work and Play』の邦訳書『遊ぶヴィゴツキー』が日本でも出版されました。  

 イーストサイド・インスティチュートに関連する書籍としては、2016年に翻訳出版された、キャリー・ロブマン&マシュー・ルンドゥクゥイスト『インプロをすべての教室へ:学びを確信する即興ゲームガイド』(新曜社)や、同じく2016年に翻訳されたキャシー・サリット『パフォーマンス・ブレークスルー:壁を破る力』(徳間書店)があります。

パフォーマンスによる学習・発達を基軸にして、あらゆる人々が、日常のさまざまな場面のなかで、他者と協働しながら、集合的に発達していくような実践を創り上げ、それを理論化し、発信してきています。

 

そのロイス・ホルツマンの新著が発行されたということで、これまで、ロイス・ホルツマンや、イースト・サイド・インスティチュートが展開してきた理論や実践になんらかのかたちで関心のある方の中から、ボランティアで、翻訳をしてくださる方を募り、章ごとに分担して、こちらの書籍を読んでいこうということになりました。

 

今回の第1回研究会では、本書のなかでも特に、思想的なバックグラウンドに関わりそうな部分(言語論、科学論)と、教育にかかわる提言(学校論)の部分を共有し、翻訳者チームおよび参加者の皆さんと、本書で語られていることの可能性をディスカッションしたいと思います。

本書は、一般の人々が読んでもわかりやすいように(何度も読み直さなくても理解できるように!)、やさしい口語で書かれている書籍ですので、研究者のみならず、興味・関心のあるかたであれば、どなたでも、さまざまな方にご参加いただけると思っています。

 

開催まで、あと2週間と、あまり日がないですが、よろしければ、冬休みのこの機会に、ぜひご参加いただければ幸いです。 

 

ロイス・ホルツマン『太りすぎの脳(Overweight Brain)』第1回研究会

★参加申込フォームはこちら

1.日程:2018年12月27日(木)

2.会場:明治大学中野キャンパス 高層階14F 1403教室 

JR中野駅から徒歩5分
https://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/nakano/access.html

3.スケジュール:13:00~16:00

13:00 開始
13:00~13:20 本研究会の趣旨/石田喜美
13:20~14:00 〔概要〕はじめに(Introduction)/前川久男
14;00~14:40 〔言語論〕ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン~悩めるうぬぼれ人~

知ることの危うさを語る世界的思想家(Ludwig Wittgenstein, The Tortured Smarty
Pants? A World Class Thinker Who Taught Us the Dangers of  Knowing)(Chapter 3)/大塚翔
14:40~15:20 〔科学論〕科学の(カルト)文化とその可能な終焉(The Cult(ure) of Science and It's Possible Demise)(Chapter 7) /新原将義
15:20~16:00 〔学校論〕子どもではなく、学校が愚かなのだ ( Schools Not Children, Are Stupid)(Chapter 5)/渡辺貴裕

 

goo.gl

 

絶望的な社会と、ロバストなわたしたち~「マイ・チャイルド: レーベンスボルン」

東京ゲームショウ2018のインディーズ・ゲーム・コーナーで出会った、「マイ・チャイルド: レーベンスボルン」をついにクリアしました。

 

kimilab.hateblo.jp

 

このゲームについては、すでにいろいろなところで、レビューも出ているようなので、どのようなゲーム・アプリなのかについては、そちらをご参照ください。

マイ・チャイルド・レーベンスボルンのレビューと序盤攻略 - アプリゲット

 

この作品、「東京ゲームショウ2018」で公開された当初やそれ以前は、「ノルウェー現代史の闇」を扱った作品であることがクローズアップされていたように記憶しています。

たとえば、この記事だと、「レーベンスボルン」についての詳しい解説とともに、このゲームが「ノルウェー現代史の闇」を扱っており、それを後世に伝えるために開発されたゲーム・アプリであることが紹介されています。

www.4gamer.net

 

しかし、東京ゲームショウ2018にあわせた日本語版リリースのあと、実際にこのゲームを日本語でプレイする人々も多くなり、日本のゲーム・カルチャーのなかで紹介されていくなかで、かなりこのゲームの紹介のされ方が変わってきたなぁ…という印象を持っています。

こちらは、上と同じ、4game.netの記事のはずなのですが、「ほぼ(日刊)スマホゲーム通信」として掲載される記事だけあって、「スマホゲーム・レビュー」の語り口や用語法にあわせて、このゲームが語られているのが、面白いです。

www.4gamer.net

 

「シリアスなアドベンチャー…!

なるほど、ゲーム・ジャンルとしていえばそうだよね、と言わざるを得ない、シンプルな紹介。これを見て、「そ…そうか」となってしまうのは、わたしだけなのでしょうか。

しかし逆に、「スマホ・ゲーム」という語り口から見えてくること、考えさせられることもあります。わたしが考えさせられたのは、この記事の最後にある、シリアスな作品だが,ゲームバランスは比較的マイルドなので,当時の歴史などに興味を持ったらぜひプレイしてほしい」という一文。

 

「ゲームバランスは比較的マイルド」

「ゲームバランスは比較的マイルド」

「ゲームバランスは比較的マイルド」


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こちらは、各章をクリアしたあとに出てくる画面のひとつなのですが、さすがに「『マイルド』とはなにか」と言いたくなってしまいます。

 たしかに、わたしはその章をクリアしたわけですし、この記事を書いている時点では、全章をクリアして、とりあえず、バッド・エンドにはならなかった(とてもじゃないけど、ハッピー・エンドとはいえない…というか、ハッピー・エンドになんてなれないのではないかと思います)わけですが、いくら章をクリアしても、全章クリアしてエンディングにたどり着いても、自分が「できなかったこと」「やるべきでなかったこと」はいつまで経っても残り続けます

 

たとえば、上の画面で示した章をクリアしたとき、わたしは、「あなたを含む55.5%の人が、ドイツ語について注意しませんでした」というメッセージを見て、かなりのショックを受けました。

いくら腐っても、端くれでも国語教育研究者ですので、「クラウス」(ゲームに出てくるわたしの子ども(=マイ・チャイルド))の母語であるドイツ語を「使わないほうが良い」と注意しなかったことについて、わたしは、後悔していません。

でも、(おそらく)そのせいで、彼は、その後、学校でいじめに遭ったし、唯一の友達も彼をいじめる側にまわってしまいました。

多くの人たちはそれがわかっていて、そしてゲームプレイヤーとして「正しい」選択をして、彼のドイツ語を注意したんだと思います。

でも、いくら腐っても端くれでも…以下、略!

いくらゲームでも、フィクションでも、自分の子どもに、「母語を使うな」とは言えないです。それがいくら、ゲーム上「正しい」戦略でも。

でも、ゲーム上、有利な戦略をしなかったせいで、きっと、「バッド・シナリオ」には近づいてしまったんだ…と、この画面を見て気付き、ショックを受けたわけです。

 

そんな葛藤を抱えつつ、なんとかゲームを全章クリアしたタイミングで、上記の記事に出会い、この記事のなかで、「ゲームバランスは比較的マイルド」という言葉で、このゲームが紹介されていることを知りました。

 

たしかに「マイルド」なんでしょう。…このゲームが、「マイルド」でなかったら、わたしのような人間は、バッド・エンドめがけてまっしぐらだったと思います。きっと。

 

そして、レーベンスボルンの子どもたちの実話に基づいて作られたこのゲームの、ゲームバランスが「マイルド」であることは、もうひとつ、重要なことを教えてくれている気がします。

それは、どんなに絶望的な社会のなかに置かれていたとしても、わたしたち人間は、そのなかをたくましく生き抜いていくことができるということ。

少なくとも、ゲームバランスが「マイルド」になるくらいには、わたしたち人間って、絶望的な社会を生き抜くロバスト(頑健)な生き物なのではないか。

…そんなことを思いました。

 

各章をクリアするごとに出てくる上記のような画面は、プレイヤーであるわたし自身の価値観を映し出す「鏡」にもなっていて、それが、大きく心を揺さぶられるところでもあります。

ちなみに上の画像だと、わたしは「楽観的」46%、「寛容」46%ということになってます。「厳しい」は7%。

この結果が、自分自身の教育者としての信念や価値観すらも映し出している気がして…、なんだかそのことにも考えさせられました。

 

『マイ・チャイルド:レーベンスボルン』は、300円~400円くらいで購入できるのですが、この金額でこの体験ができるのであれば、ぜひ体験してみたほうが良いのでは、と思います。

ただし、本当に、感情を大きく揺さぶられますし、わたしの知り合いの中にも、わたしがプレイしているのを見て「これは絶対無理!」と言った人もいるので、Android端末をお持ちのかたは、まずはお試し版をプレイしてみてから考えたほうが良いかもしれません。

 

 

 

ホモフォビアとの向き合いかた~『カランコエの花』

渋谷アップリンクで上映されていた映画『カランコエの花』。

上映最終日に駆け込み、最終日の舞台挨拶も観てきました。

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舞台挨拶で印象に残った発言は、いくつもあるのだけれど、その中でも特に、中川駿監督が最後に(時間のない中で)紹介されていた、本作品への反応についての話が、印象的でした。

カランコエの花』は、保健室の養護教諭による「配慮に欠けた」LGBTの授業から、物語が展開していくのですが、映画全体としては、「バッドエンド」ともいえるような終わり方をするので、「やはり、(授業などで)LGBTについては触れない方が良いのではないか」というような反応があったとのこと。

このような反応に対して、監督自身が、キッパリと「自分としては、そのような意図はない」とおっしゃっていたことが印象に残っています。

 

たしかに、自分自身の問題に向き合おうとしていた生徒に対し、周囲の生徒たちはその問題に真っ向から向き合えなかった。

向き合えずに、茶化したり、見ないことにして逃げようとしたり、向き合わざるを得ない状況に陥る前にそれを回避しようとする行動を取ったり、あるいは、向き合おうとして何かをしようとしても何もできずにいたり……そんなことを繰り返すうちに、生徒たちが、お互いにお互いを傷つけあうような状況が生まれてしまう。(以上、舞台挨拶での監督コメントのわたしなりの要約)

 

「だけど」、と監督は言います。

「傷つけたり、傷つけあったりしてしまうのが、人間の本質なのではないか」、と。

 

「傷つけたり、傷つけあったりしてしまうけれど、だからといって、何もしないというのは違うのではないか。

傷つけてしまったら、謝ればいい。

うまくいかないかもしれないけれど、それでも、トライ&エラーを繰り返して、コミュニケーションをとろうとしていくこと」…それが、大切なのでは、ないかと。

 

この言葉は、ちょうど数日前、大学院のゼミナールでの議論したに、呼応していたように思います。

 

大学院のゼミナールでは、性的マイノリティの登場する文学教材の授業実践についての報告があり、それを巡って、「ホモフォビックな価値観が前提化された教室のなかで、いかに、心理的な安全な場を作ることができるのか」「そもそも、生徒たちのホモフォビアを明るみに出すことをねらう、今回のような教育的試みは、学校でやるべきではないのか」という点が、議論になりました。

 

そのくらい、その文学作品における性的マイノリティとの出会いは、生徒たちにとって、ある種「ショッキング」であったようで、そのために、あまりにもたくさんのホモフォビックな発言が教室内に溢れてしまったのです。

まるで『カランコエの花』の前半シーンのように。

 

生徒たちから出されるホモフォビックな発言の数々から生み出されるリスクと、それだからこそ可能になる学びの可能性の両方が、そこにはありました。

 

カランコエの花』と、その舞台挨拶での監督や、キャストの皆さんの発言は、そういう

「どうしようもなく溢れ出るホモフォビア」に対して、少し距離を置いて考えるきっかけをくれたように思います。

 

性的マイノリティと出会ったショックから生み出されるホモフォビックな発言は、あまりにも辛辣で攻撃的ですらあります。が、だからといって、それを、見なかったことにしても、何の解決にもならない。

それこそ、この問題に向き合えずに、知らず知らずのうち、「バッドエンド」へと導きあってしまった生徒たちと同じです。

そうであるとしたら、どのように、その問題に、向き合うことができるのか。

 

この映画は、自分が見ないようにしていること、知らずにどこかで逃げてしまっていることへの向き合いかたを考えさせてくれるように思います。

 

 

岡本太郎「太陽の塔」の著作権~こだま芸術祭「太陽の塔プロジェクト」~

埼玉県本庄市児玉郡エリアで開催されていた「こだま芸術祭」に行ってきました。

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kodama-art-festival.info

「こだま芸術祭」は、1969年に設立されたこだま青年会議所の50周年記念事業ということで、公益社団法人こだま青年会議所による主催。

 

これまでも、多くの地方自治体が主催となって、地方の芸術祭やアートプロジェクトが行われることは多々あったし、後援、協力のなどのかたちで、青年会議所などが名を連ねることもあったとは思うのですが、ついに、青年会議所の単独主催で芸術祭やアートプロジェクトが行われる時代になったのですね…!

 

そんな「こだま芸術祭」の中で、戸矢大輔「太陽の塔プロジェクト」と名付けられたプロジェクトが展開され(戸矢 大輔 | こだま芸術祭)、11/5より、本庄市にある上里建設駐車場敷地内にて、「太陽の塔」の模索が展示されるいういうことで、話題になっていたようです。

地元の新聞(上毛新聞)でも記事として取り上げられていました

www.jomo-news.co.jp

 

この記事によると、本作の制作者である戸矢大輔社長(上里建設の社長をなさっている方なんですね!)は、「大阪万博が開かれた1970年ごろの熱はすごい。美術には空間を変える力があり、この街の雰囲気を変えられればいい」という熱い思いで、本作の制作に着手されているようで、きっと、本作は、岡本太郎太陽の塔》へのオマージュという意味合いもあったのではないか、と思います。

 

その上で…、ほぼ職業病的に心配になってしまったのが、この作品の著作権処理に関してです。

新聞記事にも掲載されて話題になっているくらいの作品ですしきっとなんらかの対応はなさっているはず…だとしたら、どのようにしたらこのような作品の展示がOKになるのかしら、と思い、岡本太郎作品に関する著作権管理を行っている現代芸術アトリエに問い合わせてみたところ、次のようなご回答をいただきました。

 

弊社には主催者や製作者から相談や通知などは一切なく、本日お知らせをいただき初めて知りました。(2018/11/19 現代芸術アトリエからの回答)

 

…特に、許諾がとられていたわけではなかったんですね…。

 

そうだとすると、これは「著作物が自由に使える場合」に当てはまるということなんでしょうか。

www.bunka.go.jp

 

文化庁ホームページ内「著作物が自由に使える場合」を見てみると、著作権法第46条に「公開の美術の著作物等の利用」というのがあり、「屋外に設置された美術の著作物又は建築の著作物は,方法を問わず利用できる」とあります。

 

…おっ!

太陽の塔》が、美術作品か建築物かという議論はさておき、「方法を問わず利用できる」のであれば、やっぱりこれは、「自由に使える場合」に当たるのか?

 

と思って、最後までこの項目を読んでみると、「(若干の例外あり(注6))」という文字が目に入ります。

では、「若干の例外」とはいったいなんでしょうか?

 

(注6)公開の美術の著作物等の利用の例外
(1)彫刻を彫刻として増製し,又はそれを公衆に譲渡すること。
(2)建築の著作物を建築として複製し,又はそれを公衆に譲渡すること。
(3)屋外に恒常的に設置するために複製すること。
(4)もっぱら販売目的で美術の著作物を複製し,又はそれを販売すること。 

 

太陽の塔》が「彫刻」にあたるのか「建築」にあたるのかという議論はさておき(しつこくて、すみません)、「彫刻」であっても「建築」であっても、それを増製・複製することは、やはり、「自由に使える場合」には当てはまらない(=利用の例外) ようです。

 

そうだとすると、この「太陽の塔プロジェクト」は、どのようにして、著作権法上、展示可能になっているのか、がますます気になります。

著作権管理者の許可も得ておらず、著作権法上の自由利用の範囲外(少なくとも、文化庁のホームページなどで、少し調べただけなので、もっと他にも著作権に関する細かな自由利用可能条件があり、それが適用されるということなのかもしれませんが)にあるとしたら、この展示は、著作権法上、問題があると言わざるを得なくなってしまうのではないか、と思ってしまいます。

 

わたしは、この芸術祭の運営について詳しいことを知っているわけではないので、これ以上、何かをいうことはできないのですが。

アーティストをはじめとした人々の表現をあつかう「芸術祭」であればこそ、人々の表現を守る権利である著作権についても、大切に扱われているはずであってほしい…と祈らずにいられません。

図書館総合展ゲーム部フォーラム「図書館サービスとしての『ゲーム』活用」レポート

2018年10月30日~11月2日にかけて開催された「図書館総合展」の初日に、図書館総合展ゲーム部フォーラム「図書館サービスとしての『ゲーム』活用」が開催されるということで、フォーラムに参加してきました。

 

図書館における所蔵資料としてのゲームや、利用者サービスとしてのゲーム活用については、本フォーラムの翌日(11月1日)にJLA(日本図書館協会)から『図書館とゲーム:イベントから収集へ(JLA図書館実践シリーズ)』も発売され、いよいよ、図書館とゲームとの関係について、本格的な議論がはじまる土台が整ってきたな!という印象を持っています。

 

図書館総合展ゲーム部フォーラム「図書館サービスとしての『ゲーム』活用」については、すでにフォーラム参加者の方々が、その内容をツダってくださっていて、Togetter上でのまとめ(「図書館総合展フォーラム 図書館サービスとしての「ゲーム」活用(速報版)」)もすぐに公開され、どんなことが提案・議論されたのかについては、ある程度知ることができます。

 

また、11月14日は、公式サイトで、フォーラム当日の動画が公開されましたので、そちらを見れば、さらに詳しく議論の様子を見ることができます。


図書館サービスとしての「ゲーム」活用/第20回図書館総合展(2018)

 

ですので、いまさら、フォーラムの内容を報告するまでもないのですが、せっかくフォーラムに参加し、その場で自分なりに提案や議論の内容をまとめましたので、こちらのブログでも、当日の議論のメモをアップしておきたいと思います。

 

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