kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

パフォーマンス学習の場としての模擬授業~渡辺貴裕『授業づくりの考え方』~

 前の記事でも書きましたが、体調が万全に回復しないのを良いことに、自分のインプットのための時間を作っています。

その中で、教職課程での授業との関わり方について、静かに考えなおすきっかけをもらえるような2冊の本と出会いました。

1つは、C. A. トムリンソン&T. R. ムーン『一人ひとりをいかす評価』。こちらについては、こちらにブログ記事にまとめました。 

kimilab.hateblo.jp

 

今回の記事では、渡辺貴裕(2019)『授業づくりの考え方―小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ』くろしお出版)について書きたいと思います。

 

 

 

本書の内容の充実度や構成の妙については、すでに、静岡大学の亘理先生による素晴らしいレビューがあるので、そちらをご覧ください。

www.watariyoichi.net

 

わたしにとってのこの本の大切さは、何よりも、その模擬授業の捉え方にあります。

本書では、本編に入るまえに「なぜ模擬授業なの?」というコラムが掲載されており、そこで、「本書で扱うのは、そうではなく、自由な挑戦の場としての模擬授業です」(pⅳ)という立場が、明確に示されています。

 

「自由な挑戦の場としての模擬授業」!

「失敗を恐れず大胆な挑戦ができる」場としての模擬授業!

 

模擬授業を、「品定め」のための場から、「挑戦」のための場へと変化させていくこと。このことの大切さは、何度言っても、言いすぎることはないと思います。そのくらい大切なことだし、そのくらい、何度言っても伝わりにくい、変えていくことの難しいものでもあります。

わたし自身も、教職課程の授業に関わるなかで、どのように模擬授業を「挑戦」のための場にしていけるのかを考えながら、毎年、トライ&エラーを繰り返しているような状況です。何度もトライ&エラーを繰り返しながら、教職課程の学生たちに、できる限り自由な発想での「挑戦」を促してみるけ、それでもうまくいかないことが多い。

学生たちにとっては、「国語」という教科名を聞いただけでまず思い出すのが、自分たちが受講してきた小学校から高校までの「国語」の授業。自分たちが授業を構想する段階になっても、自分たちが経験してきた「国語」の授業の記憶をなぞって、その真似事をしてみるというのが、もっとも、カンタンに、失敗のリスクを抱えずに、模擬授業課題をこなすための方法です。

そのような、真似することの安全圏から、どのように踏み出しうるのか。「挑戦」のための模擬授業へとジャンプしていくことができるのか。

それがわたし自身の目下の課題であり、悩みであります。

 

本書に示された8つのセッションでは、コルトハーヘン(2012)『教師教育学』学文社)にも示されている「ALACT」モデルにもとづいて作成された、「試みる」→「かえりみる」→「深める」→「広げる」(→さらなる「試みる」へ)というリフレクションのサイクルが繰り返されています。

コルトハーヘンの「ALACT」モデルは、「Action(行為)」→「Looking back on the action(行為の振り返り)」→「Awareness of essential aspects(本質的な諸相への気づき)」→「Creating alternative methods of action(行為の選択肢の拡大)」であることを思うと、「Action」に相当するプロセスとして「試みる」を当てている点は、とても大きい。

現実の学校や教室ではない場所で、現実の子どもたちを目の前にせず、あくまでフィクションとしての授業を行う、フィクションの世界で演ずることから学んでいくという意味で、この「試みる」は、ひとつのパフォーマンスと位置付けられると思います。

「パフォーマンスの学び」としての模擬授業。

あくまで、フィクションの世界でのパフォーマンスだから、わたしたちは、安全な場で、大胆な挑戦、自由な挑戦をすることができる。そこから学び、発達することができるのでしょう。

 

一方、だからといって、「パフォーマンスの学び」としての模擬授業の場を、すぐに成立させることは難しいのも事実です。

私たち教員のみならず、学生たち自身も、あまりにも「品定め」としての模擬授業に慣れ過ぎていて、「子ども役」を演ずることにバカバカしさを感じたり、「現実の子どもがいないのに、模擬授業をやっても意味がない!」と思ったり、そのような疑問や不満を感じないとしても、「子ども役」=学習者役として模擬授業に参加すること、そこで学習者として感じ、感じたことを率直に言葉にすることは、とても難しい。

教育実習の経験すらない、教職課程の学生たちであれば、なおさらです。

 

本書では、おそらく、そのような問題が生じるであろうことも視野に置かれていて、「本書の活用方法」として、「ひとりで読む」のほかに、「仲間で読む」という方法が提案されています。

 

仲間と読む

「試みる」「かえりみる」「広げる」について登場人物の役を割り振って、声に出して読み合わせをしてみましょう。「試みる」では授業が一挙に立体的に感じられるようになり、また「かえりみる」「広げる」では登場人物がそれぞれの立場から感じたり考えたりしたことがっよりいっそう肌身で感じられるようになると思います。(pⅵ)

 

本書のなかに示されたセッションを、対話劇のようなかたちでパフォーマンスすることで、セッションの具体的なありようを体験してみることが、ここでは提案されています。

ここでは「試みる」「かえりみる」「広げる」だけが提案されているため、わたしのような教職課程の教員(学生や新人教師を育てる側の人間)が、パフォーマンスに参加できないのが残念なところです。

が、わたしはこれを読んで、ぜひ「深める」のパートを自分自身でパフォーマンスしてみたいと思わずにいられませんでした。

「ミニレクチャー2」によれば「…本書では、『深める』の部分を『わたあめ先生』が一人でしゃべる形式で書いています。けれども実際の模擬授業の検討会では、この部分が一方的な話であることはなく、参加者との対話によって進むものでしょう(本書でそうした形をとらなあったのは、もっぱら体裁上の理由、つまり書籍としての読みやすさを優先したためです)」(p43)とのこと!

だとしたら、私たち教師教育者としては、ぜひ「深める」の部分をパフォーマンスしてみてみるべきだと思うのです。

 

とはいえ、おそらく、この部分の台本が示されていないのは、この部分が「台本なしの学習(unscripted learning)」=即興的な学習として行われるべきだという、「わたあめ先生」からのメッセージかもしれません。

そうであるとすると、私たち、教師教育者は、そこからどのような「台本なしの」学習を、学習者たちとともに創造することができるのか、を考えていくべきでしょう。

 

「台本あり」のパフォーマンスと、それに続く「台本なし」の学び。

本書はそれ自体、非常にシンプルに大切なことがまとめられた本ですが、この本を使いパフォーマンスすることで、見えてくることの可能性もまたたくさんありそうです。

 

これについては、今度ぜひ、自分自身で機会をつかまえて「試して」みたいとおもいます。

ダークペダゴジーとしての評価を再考する~『一人ひとりをいかす評価』~

あまり体調が芳しくないことを良いことに、遠出するような予定はすべてあきらめて、家で、本を読んだり、映画を観たりしています。

おかげさまで、ようやく、インプットのための時間をとることができ、とてもありがたい。

もっともありがたかったのは、このタイミングで、自分自身の教職課程での授業との関わりのありかたを、落ち着いた静かな心で、じっくり考えなおすきっかけになるような出会えたことです。

 

ひとつは、C. A. トムリンソン & J. A.ムーン(2018)『一人ひとりをいかす評価:学び方・教え方を問い直す』北大路書房)。

 

 

もうひとつは、渡辺貴裕(2019)『授業づくりの考え方:小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ』くろしお出版

 

 

授業づくりの考え方』については、1/17発売予定とのこと。著者の渡辺貴裕先生から、わざわざお送りいただいていただいたおかげでこのタイミングで読むことができたのだと思うと、本当に、ありがたい。

 

まずは、『一人ひとりを生かす評価』について。

この本は、C. A. トムリンソン『ようこそ、一人ひとりを生かす教室へ』(北大路書房)の姉妹編ともいえる書籍で、1年くらい前に、訳者のひとりである山元隆春先生から、「一人ひとりを生かす教え方(diffrentiated instruction)」の評価編が出版予定であると聞いていて、とても楽しみにしていたのですが、期待していたとおりの本でした。

 

この本の大切さを説明するためには、次のエピソードを引用するだけで、十分でしょう。

 

このように一人ひとりをいかす教え方の「常識的な定義」を提供してくれた大学院生が、自分で説明を書き出したのにはわけがあります。彼は自分が一人ひとりをいかす教え方の理解を深めているときに何か大事な要素を抜かしてしまっているのではないかと不安になったからです。そして、一人ひとりをいかす教え方の枠組みをより理解していて、とてもわかりやすい説明もできていたというフィードバックを受け取ったとき、彼は当惑した表情を浮かべました。不機嫌な表情とさえ言えました。そして、こう言ったのです。「これが一人ひとりをいかす教え方のすべてなら、なぜみんんなやっていないのですか?」と。

…(中略)…

答えを必要としない彼の問いかけに対する正解は、ほとんど教師はすべての要素は道理にかなっていると思うことでしょう。常識と捉えるかもしれません。しかしながら、これらの常識は、古い習慣や世の中への対応を求められたりすることによって見えなくなっているのです。…

(C. A. トムリンソン『一人ひとりをいかす評価』, p205)(太字は引用者)

 

はじめに、今回出会った2冊の本が、「落ち着いた静かな心で、じっくり考えなおすきっかけ」になったと書きましたが、その理由がここにあります。

今回わたしが出会った2冊の本は、どちらも非常に「常識」的なことを書いているのです。だけれども、日々のように発されてくるさまざまな要請――それは古くから続く慣習によるものもありますし、変化し続ける世の中の動向に関わるものもあります――への対応を考えていくなかで、いつの間にか、それを見失いがちになってしまいます。――とても悲しいことですが。

だからこそ、こういったかたちで、あらためて「常識」ともいえるような、シンプルな考え方を見直させてくれる本は、とても貴重で、大切な存在だと感じています。

 

今回、わたしが特に感銘を受けたのは、「効果的な成績」の原則です。*1

 

  1. はっきり特定した学習目標を元に成績をつける
  2. 比較や相対評価ではなく、規準をベースにした(絶対評価の)成績を使う
  3. 何でもかんでも成績の対象にはしない
  4. 効果的な評価法のみを使う
  5. 「不透明な成績」をできるだけ減らす
  6. 「数学的な不透明な成績」を排除する
  7.  成績のサイクルの前よりは後の方で成績をつける
  8. 通知表の段階では「三つのP(パフォーマンス・プロセス・成長)」を使う
  9. 評価と成績のプロセスをオープンにする(以上、『一人ひとりをいかす評価』、p199)

 

このうちのいくつかについては、たしかに「一人ひとりをいかす教え方」に特有なもの、今の日本での評価のありかたを考えると、「常識」的であるようには見えづらいこともあるように思います。

もちろん、本書を読んでいただければそれらも非常に「常識」的でシンプルな原則のひとつであることがわかると思うのですが、わたしが特に「ハッ」とさせられたのは、もっともっとより「当たり前」な原則ともいえる、「5. 『不透明な成績』をできるだけ減らす」「6. 数学的な不透明な成績」を排除する」でした。

 

ここで「不透明な成績」の例として挙げられているのは、「例えば、提出がきれいでない、提出が遅かった、生徒が自分の名前を書かなったなどの理由で、教師が評価から点数を差し引いたとき」です。

「数学的に不透明な成績」の例として挙げられているのは、「生徒の成果物が行方不明だったり、生徒がテストでカンニングしたりしたときに、ゼロが与えられること」や、「成績を平均化」し、「平均」の得点をもとに成績をつけることです。

 

わたしが、これらの「不透明な成績」に関する議論から思い出したのは、「ダークペダゴジーに対する議論でした。www.kyobun.co.jp

ダークペダゴジーは、他者の成長や価値観、知識獲得に介入するための後ろ暗い方法論を指すもので、ドイツの評論家K・ルチュキーによって1977年に命名された。具体的には、▽暴力▽強制▽うそ・ごまかし▽賞罰▽欲求充足の禁止▽条件付き愛情▽心理操作▽監視▽無視▽屈辱――などを用いたしつけや指導が当たる。(

ダークペダゴジー ― 教師をむしばむ負の指導法(1)ダークペダゴジーとは | 教育新聞 電子版

 

つまり、これら「不透明な成績」は、ダークペダゴジーとして行われているのではないか、具体的には、「賞罰」「条件付き愛情」などによる知識獲得への介入行為として行われているのではないか、ということでした。

 

「ダークペダゴジー」というと、日本では、「悪質タックル事件」を契機にこの言葉が話題となったこともあり、体罰をはじめとした暴力行為が取り上げられることが多く、多くの先生方や教師を目指す学生たちの中には、どこか、自分とは遠い話だと思っているところがあるのではないか、と思いますが、「そうではないのだ」とあらためて思わされました。

 

 

わたし自身もそうですが、提出物がきちんと整えられていなかったり、遅延して提出されたことによって、減点をした経験のある教員は少なくないと思います。

「やる気がない」ように見える学習者、グループワークに消極的にしか参加できない学習者に対し、「積極的な参加が見られない」という理由で、評価点を減点したほうが良いのではないかと、考えたことのある人たちも少なくないと思います。

 

だけど、本来、「常識」的に、シンプルに考えれば、評価とは、成績とはそもそもそういうものではない。成績点によって、学習者を罰しようとしたり、逆に、動機づけたりすることは、成績の意味をにごらせるだけです。

 

「ダークペダゴジー」としての成績や評価を脱するために、成績について、今後、どのように考えていけば良いのか。

「ホワイトペダゴジー」としての成績のありかた、評価のありかたをあらためて、考えてみようと思います。

*1:本書のなかでは、「一人ひとりをいかす教室での効果的な成績」の原則として書かれています

言語学TRPG「ダイアレクト(Dialect)」で遊んでみた

Thony Gameの『ダイアレクト(Dialect)』のプレイ体験会を開催しました。

「ダイアレクト(Dialect)」とは、「方言」「通語・隠語」という意味。

日本語だと「方言」といえば、ほぼ、関西弁や東北弁などの「地域方言」しかイメージされないことが多いのですが、このゲームで扱われているのは、どちらかというと、職業やサブカルチャー共同体で用いられるような「社会方言」の方ですね。

そういう意味で、日本で売り出すとしたらジャーゴン(jargon)」にしたほうがいいのかもしれない。「ジャーゴン」もそんなに知られている用語ではないとは思いますが、「ダイアレクト」よりは聞き覚えがある人が多い気がします。

 

さて、この『ダイアレクト』というゲームですが、公式サイトには、次のような説明が書かれています。

『ダイアレクト』は、孤立無援のコミュニティと、彼らの言語、そして言語が失われることの意味することについてのゲームである。このゲームであなたたちは、孤立体(Isolation)の言語(language)を構築することによって、その孤立体の物語を語っていく。新たな単語(words)は、コミュニティの基盤となる諸相(aspects)からもたらされる。基盤となる諸相とは、すなわち、彼らが何者であるのか、彼らが何を信じているのか、そして、彼らがいかに変わりゆく世界に応じるのか、である。(Dialect – Thorny Games)(訳は引用者)

ww.kickstarter.com

はじめに、どの世界観で遊ぶかを決めます。

ファシリテーターから5つの世界観が示されて、参加者5名の投票によって、どの世界観をプレイするかが決められます。

このとき、はじめに、「遊びたくない」世界観を全員に表明してもらったのち、それ以外のものから選ぶ…というやりかたは、ステキだなと思いました。「遊びたくない」もので遊んでいたって、楽しくないだけですからね!

今回プレイしたのは「わたしは歌う、電子の地球を(Sing the Earth Electrnic)」*1

人類をはじめ、あらゆる動植物が死滅したあとの地球で、残されてしまったたくさんのロボットたちのうちの一部が、自らの言語を話せるようになってしまった…という世界観ですね。

今回プレイしたようなSF的な世界以外では、歴史ファンタジー、エリート男子高(!)、オンライン家族、おもちゃ箱の住人といった世界観があるようです。

ちなみに、わたしがはじめにプレイしたのは「おもちゃ箱の住人」でした。

 

次に、コミュニティの基盤となる諸相(aspects)=「アスペクトを決めます。

今回は、(1) ロボットたちの職務、(2) 人間性の影と、あとは(3)フリーでなにか、という感じでした。

(1) ロボットたちの職務は、「自然環境の回復」

(2) 人間性の影としては、「死の恐怖」がある。

(3) フリーのアスペクトとしては、「(言語を話すロボットは)ロボット階級の最下層にいるため、反乱を企てている」というような内容でした。

すでに、なんか物語が始まっているようです。

 

アスペクト」が決まったら、次は、世界観に応じた設定について考えるための質問について、プレイヤー全員で考えていきます。

今回の世界観では、「現在の地球の姿は?なぜ生物が死滅したのか?」とか、「ロボットの動作不良が起きたらどうする?」とか、そんな感じの質問が5つあり、5名のプレイヤーで1人1問設定を考えていきました。

 

ここまで設定が決まってきたところで、この隔絶されたコミュニティの名称=「アイソレーションを決めます。

今回は、わたしが静岡土産の「オオグソクムシせんべい」を開きはじめてしまったせいで、「オオグソクムシに決まってしまいました。皆さん、ごめんなさい!

 

チーム名が決まったら、いよいよ、それぞれのキャラクターを決めるのですが、このときに、キャラクターの特性を決めるためのカードが配られます。1人3枚ずつカードが配られ、そのうちの1つを選び、自分のキャラクターの属性とするという感じです。

*1:「Sing the body electrnic」が「わたしは歌う、電子の躯を」と訳されることがあるようなのでそれに倣ってみました。

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トライアルワークショップ『パフォーマンスに基づく新しい教員研修の方法』

「パフォーマンス心理学研究会」による12月の研究会(ワークショップ)に参加してきました。

「トライアルワークショップ『パフォーマンスに基づく新しい教員研修の方法』」というタイトルで、講師は、宮本万里さん。

 

3時間のワークショップでしたが、あっという間に終了時間になってしまいました。

「パフォーマンスに基づく新しい教員研修の方法」というタイトルで、しかも、下記のような紹介で集まってきた方々だったせいか、パフォーマンスへの意欲がかなり高い状態で、始まったワークショップだったなぁ、という印象です。

 

トライアルワークショップ
『パフォーマンスに基づく新しい教員研修の方法』
日時:2018年12月16日(日曜日)
   14時から17時まで。
会場:筑波大学東京キャンパス


講師:宮本万里さん(Creative Communication Company, New York)


内容:プロジェクト研究3『演劇的表現やパフォーマンスを通した学習と学習環境の共創』の3つのミッション(①附属学校群の教育方法の革新、②教員のマインドの改革、③危機管理に関する新しい研修方法の開発)のうちの②のためのトライアルワークショップを試みる。


 プロジェクト3の内のミッション③について:教員のバーンアウトや新しいことにチャレンジできない固定化したマインド等の問題が指摘されて久しい。本プロジェクトでは、教員、とくにベテランといわゆる年齢となり、これまでのやり方から抜け出すことのできず、相変わらず体罰や暴力的な指導を繰り返す教員が少なくない。

インプロパフォーマンスの経験を通して、このような固定化してしまった教員に対して、新しいことに向かって再イニシエーションの支援を行うような、新しい研修プログラムを開拓する。

 

 

今回行ったアクティビティは、下記のとおり:

 

  1.  ポーズで自己紹介
  2.  相手の名前を呼ぶ
  3.  「GO!」
  4.  赤いボール
  5.  「何してるの?」
  6.  単語あてゲーム①(名詞)
  7.  単語あてゲーム②(名詞+形容詞)
  8.  2人組でフリーシーン
  9.  「あけて/あけたくない」のスキットに基づくシーンづくり

 

ワークショップでは、受付時に、「自分の呼ばれたい名前」をテープに書いて、わかりやすい位置に貼るように求められます。

「1 ポーズで自己紹介」では、その名札テープにかかれた名前を言いながら、「自分がどこから来たのか?」にまつわるポーズをとりました。

わたしは、その日、某オリンピック・サーフィン会場予定地から上京して、ワークショップに参加していたので、サーフィンのポーズを取ったつもりだったのですが、まったく伝わらなくて残念でした(^^;)

 

次に、1 で示された名前とポーズを使って、「2 相手の名前を呼ぶ」アクティビティ。

自分のポーズを取りながら自分の名前を言い、次に、ターンを受け渡したい相手のポーズを取りながら、相手の名前を呼びます。

1 で、印象的なポーズを取られていた方がやたらとターンを回される羽目になります。……仕方ない(笑)

 

「3 『GO!』」は、「GO!」と言って相手に近づきながら、相手をその場所から移動させ、自分がその相手のいた場所に入るというゲーム。

相手の名前を呼んだりするわけではないので、相手に向けて「GO!」を届けること、相手との間のテンションを保ちつつ近づいていくことがポイントとなります。

 

「4 赤いボール」は、参加者全員で輪になって、イメージの「赤いボール」を渡していくゲーム。渡す人は、「赤いボール」といって、イメージのボールを手渡し、それを受け取った人は、イメージ上のボールを受け取ったあと、「赤いボール。ありがとう」と言います。

今回のワークショップでは、「緑のボール(Green ball)」「緑のボール。ありがとう(Green ball. Thank you!」と受け渡すアクティビティーから始まり、「大きなスイカ(Big Water mellon)」「眠っている赤ちゃん(Sleeping baby)」など、さまざまなものが受け渡されていきました。

 

「5  何してるの?」は、『インプロをすべての教室へ』にも掲載されているアクティビティー

2人組でペアになって、1人が何かのアクション(例:料理をする)をしているところに、もう1人が「何してるの?」と声をかけ、アクションをしていた人は、自分がしているのとはまったく異なるアクションを言います(例: 「水泳してるの!」)。言われた方のペアは、相手が言った内容のアクション(この例でいえば、水泳)をはじめ、それを交互に行っていくというゲームです。

インプロをすべての教室へ 学びを革新する即興ゲーム・ガイド

インプロをすべての教室へ 学びを革新する即興ゲーム・ガイド

 

今回のワークショップでは、宮本さんから、「自分が言ったことに対して、相手がどんなアクションをするのか。自分のイメージとの違いを感じてみて!」という声かけがありました。

確かに、「掃除をする」でも、雑巾がけあり、窓拭きあり、掃除機あり…とそのイメージはさまざまですよね。

個人的には、たまたま、その声かけがあったあとにペアになった方が、「焼酎飲んでるの!」「日本酒飲んでるの!」とおっしゃって、わたしなりの焼酎飲んでる像と、日本酒飲んでる像を演じわけてみたのですが、自分がそんなことができることにビックリでした。

 

次の「 言葉あて」(6~7)では、1人ひとつずつ、名詞のみのカードと、形容詞+名詞のカードが配られます。その言葉そのものを言わずに、相手になんもか、自分の持っているカードの言葉を当てさせるゲームです。

 

これらのゲームを経て、後半は、ペアによるシーンづくり。

ひとつ目の「8 フリーシーン」は、脚本なし。もうひとつ最後に行われたシーンづくりでは、「開けてほしい/開けたくない」の対立がある短いスキットが示され、それに基づくシーンづくりを行いました。

 

終了後の交流会で、宮本さんにお伺いしたところ、今回のワークショップでは、「自分が用いている、この言葉のイメージは、相手に伝わるのだろうか?」ということについて振り返り、考えていくための時間を創りだすことをねらっていたとのこと。

 

ニューヨークで日本語学習のためのインプロ&パフォーマンスによる学びの場を展開して、日本で英語教育のためのインプロ&パフォーマンスによる学びの場を展開してきた宮本さんが、「言葉のイメージ」に対してそのようなかたちでインプロ・ゲームやパフォーマンスを用いられていることが、興味深かったです。

 

留学生対象の日本語教育を担当されている先生とともに、日本語初級クラス受講生と教員養成課程の学生との共同ワークショップを行って2年目になりますが、そのワークショップでは、むしろ、「言葉がなくても通じちゃった!」とか「ミス・コミュニケーションって面白い!」みたいな感覚を創出するこもをねらいにしてきました。

そういう意味では、言葉やコミュニケーションの学びと、インプロやパフォーマンスとの関係について、また違ったアプローチを見せていただいた感じがします。

ロイス・ホルツマン『太りすぎの脳(Overweight Brain)』第1回研究会

2018年12月27日(木曜日)13:00より、明治大学中野キャンパス(JR中野駅から徒歩5分)にて、ロイス・ホルツマン『太りすぎの脳(Overweight Brain)』の第1回研究会(翻訳検討会)を開催いたします。

 

 

本書『太りすぎの脳~知ることへの脅迫観によって、私たちはいかに良い世界を創るのに十分賢くなれずにいるか~(Overweight Brain: How our obsession with knowing keeps us from getting smart enough to make a better world)』は、今年7月に出版されたばかりの書籍です。

著者のロイス・ホルツマン(Louis Holtzman)は、「ソーシャルセラピー(social therapy)と呼ばれる、グループ・短期心理療法のための機関「イーストサイド・インスティチュート(East Side Institute)の所長を務め、ヴィゴツキーやソーシャルセラピーについての多くの著書を執筆しています。

2014年には、ホルツマンの著書『Vygotsky at Work and Play』の邦訳書『遊ぶヴィゴツキー』が日本でも出版されました。  

 イーストサイド・インスティチュートに関連する書籍としては、2016年に翻訳出版された、キャリー・ロブマン&マシュー・ルンドゥクゥイスト『インプロをすべての教室へ:学びを確信する即興ゲームガイド』(新曜社)や、同じく2016年に翻訳されたキャシー・サリット『パフォーマンス・ブレークスルー:壁を破る力』(徳間書店)があります。

パフォーマンスによる学習・発達を基軸にして、あらゆる人々が、日常のさまざまな場面のなかで、他者と協働しながら、集合的に発達していくような実践を創り上げ、それを理論化し、発信してきています。

 

そのロイス・ホルツマンの新著が発行されたということで、これまで、ロイス・ホルツマンや、イースト・サイド・インスティチュートが展開してきた理論や実践になんらかのかたちで関心のある方の中から、ボランティアで、翻訳をしてくださる方を募り、章ごとに分担して、こちらの書籍を読んでいこうということになりました。

 

今回の第1回研究会では、本書のなかでも特に、思想的なバックグラウンドに関わりそうな部分(言語論、科学論)と、教育にかかわる提言(学校論)の部分を共有し、翻訳者チームおよび参加者の皆さんと、本書で語られていることの可能性をディスカッションしたいと思います。

本書は、一般の人々が読んでもわかりやすいように(何度も読み直さなくても理解できるように!)、やさしい口語で書かれている書籍ですので、研究者のみならず、興味・関心のあるかたであれば、どなたでも、さまざまな方にご参加いただけると思っています。

 

開催まで、あと2週間と、あまり日がないですが、よろしければ、冬休みのこの機会に、ぜひご参加いただければ幸いです。 

 

ロイス・ホルツマン『太りすぎの脳(Overweight Brain)』第1回研究会

★参加申込フォームはこちら

1.日程:2018年12月27日(木)

2.会場:明治大学中野キャンパス 高層階14F 1403教室 

JR中野駅から徒歩5分
https://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/nakano/access.html

3.スケジュール:13:00~16:00

13:00 開始
13:00~13:20 本研究会の趣旨/石田喜美
13:20~14:00 〔概要〕はじめに(Introduction)/前川久男
14;00~14:40 〔言語論〕ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン~悩めるうぬぼれ人~

知ることの危うさを語る世界的思想家(Ludwig Wittgenstein, The Tortured Smarty
Pants? A World Class Thinker Who Taught Us the Dangers of  Knowing)(Chapter 3)/大塚翔
14:40~15:20 〔科学論〕科学の(カルト)文化とその可能な終焉(The Cult(ure) of Science and It's Possible Demise)(Chapter 7) /新原将義
15:20~16:00 〔学校論〕子どもではなく、学校が愚かなのだ ( Schools Not Children, Are Stupid)(Chapter 5)/渡辺貴裕

 

goo.gl

 

絶望的な社会と、ロバストなわたしたち~「マイ・チャイルド: レーベンスボルン」

東京ゲームショウ2018のインディーズ・ゲーム・コーナーで出会った、「マイ・チャイルド: レーベンスボルン」をついにクリアしました。

 

kimilab.hateblo.jp

 

このゲームについては、すでにいろいろなところで、レビューも出ているようなので、どのようなゲーム・アプリなのかについては、そちらをご参照ください。

マイ・チャイルド・レーベンスボルンのレビューと序盤攻略 - アプリゲット

 

この作品、「東京ゲームショウ2018」で公開された当初やそれ以前は、「ノルウェー現代史の闇」を扱った作品であることがクローズアップされていたように記憶しています。

たとえば、この記事だと、「レーベンスボルン」についての詳しい解説とともに、このゲームが「ノルウェー現代史の闇」を扱っており、それを後世に伝えるために開発されたゲーム・アプリであることが紹介されています。

www.4gamer.net

 

しかし、東京ゲームショウ2018にあわせた日本語版リリースのあと、実際にこのゲームを日本語でプレイする人々も多くなり、日本のゲーム・カルチャーのなかで紹介されていくなかで、かなりこのゲームの紹介のされ方が変わってきたなぁ…という印象を持っています。

こちらは、上と同じ、4game.netの記事のはずなのですが、「ほぼ(日刊)スマホゲーム通信」として掲載される記事だけあって、「スマホゲーム・レビュー」の語り口や用語法にあわせて、このゲームが語られているのが、面白いです。

www.4gamer.net

 

「シリアスなアドベンチャー…!

なるほど、ゲーム・ジャンルとしていえばそうだよね、と言わざるを得ない、シンプルな紹介。これを見て、「そ…そうか」となってしまうのは、わたしだけなのでしょうか。

しかし逆に、「スマホ・ゲーム」という語り口から見えてくること、考えさせられることもあります。わたしが考えさせられたのは、この記事の最後にある、シリアスな作品だが,ゲームバランスは比較的マイルドなので,当時の歴史などに興味を持ったらぜひプレイしてほしい」という一文。

 

「ゲームバランスは比較的マイルド」

「ゲームバランスは比較的マイルド」

「ゲームバランスは比較的マイルド」


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こちらは、各章をクリアしたあとに出てくる画面のひとつなのですが、さすがに「『マイルド』とはなにか」と言いたくなってしまいます。

 たしかに、わたしはその章をクリアしたわけですし、この記事を書いている時点では、全章をクリアして、とりあえず、バッド・エンドにはならなかった(とてもじゃないけど、ハッピー・エンドとはいえない…というか、ハッピー・エンドになんてなれないのではないかと思います)わけですが、いくら章をクリアしても、全章クリアしてエンディングにたどり着いても、自分が「できなかったこと」「やるべきでなかったこと」はいつまで経っても残り続けます

 

たとえば、上の画面で示した章をクリアしたとき、わたしは、「あなたを含む55.5%の人が、ドイツ語について注意しませんでした」というメッセージを見て、かなりのショックを受けました。

いくら腐っても、端くれでも国語教育研究者ですので、「クラウス」(ゲームに出てくるわたしの子ども(=マイ・チャイルド))の母語であるドイツ語を「使わないほうが良い」と注意しなかったことについて、わたしは、後悔していません。

でも、(おそらく)そのせいで、彼は、その後、学校でいじめに遭ったし、唯一の友達も彼をいじめる側にまわってしまいました。

多くの人たちはそれがわかっていて、そしてゲームプレイヤーとして「正しい」選択をして、彼のドイツ語を注意したんだと思います。

でも、いくら腐っても端くれでも…以下、略!

いくらゲームでも、フィクションでも、自分の子どもに、「母語を使うな」とは言えないです。それがいくら、ゲーム上「正しい」戦略でも。

でも、ゲーム上、有利な戦略をしなかったせいで、きっと、「バッド・シナリオ」には近づいてしまったんだ…と、この画面を見て気付き、ショックを受けたわけです。

 

そんな葛藤を抱えつつ、なんとかゲームを全章クリアしたタイミングで、上記の記事に出会い、この記事のなかで、「ゲームバランスは比較的マイルド」という言葉で、このゲームが紹介されていることを知りました。

 

たしかに「マイルド」なんでしょう。…このゲームが、「マイルド」でなかったら、わたしのような人間は、バッド・エンドめがけてまっしぐらだったと思います。きっと。

 

そして、レーベンスボルンの子どもたちの実話に基づいて作られたこのゲームの、ゲームバランスが「マイルド」であることは、もうひとつ、重要なことを教えてくれている気がします。

それは、どんなに絶望的な社会のなかに置かれていたとしても、わたしたち人間は、そのなかをたくましく生き抜いていくことができるということ。

少なくとも、ゲームバランスが「マイルド」になるくらいには、わたしたち人間って、絶望的な社会を生き抜くロバスト(頑健)な生き物なのではないか。

…そんなことを思いました。

 

各章をクリアするごとに出てくる上記のような画面は、プレイヤーであるわたし自身の価値観を映し出す「鏡」にもなっていて、それが、大きく心を揺さぶられるところでもあります。

ちなみに上の画像だと、わたしは「楽観的」46%、「寛容」46%ということになってます。「厳しい」は7%。

この結果が、自分自身の教育者としての信念や価値観すらも映し出している気がして…、なんだかそのことにも考えさせられました。

 

『マイ・チャイルド:レーベンスボルン』は、300円~400円くらいで購入できるのですが、この金額でこの体験ができるのであれば、ぜひ体験してみたほうが良いのでは、と思います。

ただし、本当に、感情を大きく揺さぶられますし、わたしの知り合いの中にも、わたしがプレイしているのを見て「これは絶対無理!」と言った人もいるので、Android端末をお持ちのかたは、まずはお試し版をプレイしてみてから考えたほうが良いかもしれません。

 

 

 

ホモフォビアとの向き合いかた~『カランコエの花』

渋谷アップリンクで上映されていた映画『カランコエの花』。

上映最終日に駆け込み、最終日の舞台挨拶も観てきました。

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舞台挨拶で印象に残った発言は、いくつもあるのだけれど、その中でも特に、中川駿監督が最後に(時間のない中で)紹介されていた、本作品への反応についての話が、印象的でした。

カランコエの花』は、保健室の養護教諭による「配慮に欠けた」LGBTの授業から、物語が展開していくのですが、映画全体としては、「バッドエンド」ともいえるような終わり方をするので、「やはり、(授業などで)LGBTについては触れない方が良いのではないか」というような反応があったとのこと。

このような反応に対して、監督自身が、キッパリと「自分としては、そのような意図はない」とおっしゃっていたことが印象に残っています。

 

たしかに、自分自身の問題に向き合おうとしていた生徒に対し、周囲の生徒たちはその問題に真っ向から向き合えなかった。

向き合えずに、茶化したり、見ないことにして逃げようとしたり、向き合わざるを得ない状況に陥る前にそれを回避しようとする行動を取ったり、あるいは、向き合おうとして何かをしようとしても何もできずにいたり……そんなことを繰り返すうちに、生徒たちが、お互いにお互いを傷つけあうような状況が生まれてしまう。(以上、舞台挨拶での監督コメントのわたしなりの要約)

 

「だけど」、と監督は言います。

「傷つけたり、傷つけあったりしてしまうのが、人間の本質なのではないか」、と。

 

「傷つけたり、傷つけあったりしてしまうけれど、だからといって、何もしないというのは違うのではないか。

傷つけてしまったら、謝ればいい。

うまくいかないかもしれないけれど、それでも、トライ&エラーを繰り返して、コミュニケーションをとろうとしていくこと」…それが、大切なのでは、ないかと。

 

この言葉は、ちょうど数日前、大学院のゼミナールでの議論したに、呼応していたように思います。

 

大学院のゼミナールでは、性的マイノリティの登場する文学教材の授業実践についての報告があり、それを巡って、「ホモフォビックな価値観が前提化された教室のなかで、いかに、心理的な安全な場を作ることができるのか」「そもそも、生徒たちのホモフォビアを明るみに出すことをねらう、今回のような教育的試みは、学校でやるべきではないのか」という点が、議論になりました。

 

そのくらい、その文学作品における性的マイノリティとの出会いは、生徒たちにとって、ある種「ショッキング」であったようで、そのために、あまりにもたくさんのホモフォビックな発言が教室内に溢れてしまったのです。

まるで『カランコエの花』の前半シーンのように。

 

生徒たちから出されるホモフォビックな発言の数々から生み出されるリスクと、それだからこそ可能になる学びの可能性の両方が、そこにはありました。

 

カランコエの花』と、その舞台挨拶での監督や、キャストの皆さんの発言は、そういう

「どうしようもなく溢れ出るホモフォビア」に対して、少し距離を置いて考えるきっかけをくれたように思います。

 

性的マイノリティと出会ったショックから生み出されるホモフォビックな発言は、あまりにも辛辣で攻撃的ですらあります。が、だからといって、それを、見なかったことにしても、何の解決にもならない。

それこそ、この問題に向き合えずに、知らず知らずのうち、「バッドエンド」へと導きあってしまった生徒たちと同じです。

そうであるとしたら、どのように、その問題に、向き合うことができるのか。

 

この映画は、自分が見ないようにしていること、知らずにどこかで逃げてしまっていることへの向き合いかたを考えさせてくれるように思います。