kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

TRPGフェス2019企画②:ノルディックLARP(社会・芸術的な教育LARP)体験

9/6~9/8に開催される「TRPGフェス2019」 の中でのJARPS(日本RPG学研究会)企画情報、第2弾です。

 

昨年度の学術LARP企画「安心からの脱出:Village,Shelter, Comfort(芸術型教育LARP)」(togetterによるまとめは、こちら)に引き続き、今年度も、ノルディックLARP(社会・芸術的な教育LARP)*1のセッションを行います。

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NordicLARP体験2019

 

前回の「TRPGフェス2018」で行ったノルディックLARP「安心からの脱出」は、カム・ビョーン=オーレ先生 ゲームデザインした創作LARPでした。(Björn-Ole Kamm | LARP — 安心からの脱出)

9/6~9/8に開催される「TRPGフェス2019」 の中でのJARPS(日本RPG学研究会)企画情報、第2弾です。

 

昨年度の学術LARP企画「安心からの脱出:Village,Shelter, Comfort(芸術型教育LARP)」(togetterによるまとめは、こちら)に引き続き、今年度も、ノルディックLARP(社会・芸術的な教育LARP)のセッションを行います。

 

 

NordicLARP体験2019

 

前回の「TRPGフェス2018」で行ったノルディックLARP「安心からの脱出」は、カム・ビョーン=オーレ先生がゲームデザインした創作LARPでした。(Björn-Ole Kamm | LARP — 安心らの脱出)

…が、このLARPはむちゃくちゃ時間がかかる!

17時に集合してイントロダクションと事前ワークショップ、夕飯を食べて、実際のLARPが(休憩はさみつつですが)4時間強、事後ディブリーフィングを終えるとちょうど日付が変わるくらいの時間(!)という、そんな感じでした。(「TRPGフェス2018」のサイトでは、17:00~24:00と書かれていますが、この内訳はそんな感じです)

 

このLARP体験を経て「ノルディックLARPって面白そう!」って思ってくださった方もけっこういらっしゃる一方で、「LARPってものすごく時間がかかるのでは…」「実際に、教育活動やコミュニティワークで実施するには長すぎるのでは…」という思いを持たれた方がいらっしゃるのも事実。

そこで、今年度「TRPGフェス2019」で企画する「LARP体験」では、45分~2時間程度でゲームをプレイできるような「ミニLARP」を集めてご紹介することになりました。

もちろん、ノルディックLARPは、「勝敗よりも、芸術的な表現、政治的なメッセージや共同物語作りに焦点を起き、前後ワークショップを大切にするLARPスタイル」ですので、ゲームプレイの時間の前後に、事前ワークショップ・事後ブリーフィングの時間が必要になるので、実質的にかかる時間は、2~3時間になります。「ノルディックLARPをやってみよう!」と思われた方が、実際にやってみるためのハードルは、ぐんと下がるのではないか?と期待しております。

 

今回とりあげる、ノルディックLARP(ミニLARP)は、フェミニズムアイデンティティの問題に焦点を当てています。

今回は、3つのLARPをご紹介する予定ですが、そのうちの2つは、『#Feminism:A Nano-game Anthology』に掲載されているゲームです。『#Feminism』は、世界8か国のフェミニストたちが、自分たちを取り巻く現代的な問題をテーマに作成したLARPのゲーム集。「nano-game」とあるように、そこで紹介されているゲームは、30分~1時間程度の短いものばかりです。

About the Anthologyfeministnanogames.wordpress.com

前回よりも、気軽にご参加いただけると思いますので、ぜひ多くの方にご参加いただければと思います。

*1:ノルディックLARPとは、「ノルディク・ラープ」はもともと北欧(nordic)から始まったライブ・アクションRPGのスタイルです。現在は南アメリカからシリアまで、世界の広い範囲にこのLARPの考え方が広まり、多くの国や地域で実践されています。「勝敗よりも、芸術的な表現、政治的なメッセージや共同物語作りに焦点を起き、前後ワークショップを大切にするLARPスタイルです」。(カム・ビョーン=オーレ「LARP―安心からの脱出」より

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TRPGフェス2019企画①「RPG学研究への招待:アナログ・ロールプレイング・ゲーム・スタディーズ」

今年も、「TPPGフェス2019」が開催されます。

trpgfes.jp

わたしは昨年度、「TRPGフェス」初参加!で、なぜか、口頭発表パネルの司会を務めたり、ノルディックLARP(政治・芸術的な教育LARP)「安心からの脱出」NPCを勤めたりしておりました。

kimilab.hateblo.jp

 

…が、なんだかんだで、今年も参加することになりました

 

昨年度、口頭発表パネルのセッションを行ったメンバー4名(Björn-Ole Kamm (@BeOhKay) 、コミュゲ研(コミュニケーションとゲーム研究会) (@comgame2014) | の中の人ⓔⓝⓘ (ツ) (@enicchi) 、そして、わたし)がセッション終了後にむちゃくちゃ盛り上がり、日本におけるアナログRPGに関する知見をグローバルな文脈で議論し交流することを目的とした日英バイリンガルの学術誌(オンライン・ジャーナル)を作ろうという話に。(昨年度の様子はこちら↓)

togetter.com

www.b-ok.de


 Björn-Ole Kamm 先生がリーダーシップをとるかたちでいろいろと手続きを進めてくださった結果、なんと今回の「TRPGフェス2019」で、そのオンライン・ジャーナル『RPG学研究』キックオフ・シンポジウムを開催することになりました!

 

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JARPS

RPG学研究: Japanese Journal of Analog Role-Playing Game Studies

 

『RPG学研究』のトップページにあるとおり、このジャーナルは「日本のTRPG(テーブルトップ・ロールプレイングゲーム)やLARP(ライブ・アクションRPG)の意義や可能性について、グローバルな文脈の中で、研究者や実践家がともに議論しあい、その知見を発信していくことを目的としています。」

そのキックオフシンポジウムとして位置付けられる今回の口頭パネルでは、アカデミックな文脈でTRPG/LARPにかかわる研究者のみならず、ゲームを用いた活動の普及や、ゲームデザインにかかわる実践家にも、ご登壇いただき、より幅広い文脈で、日本のTRPG/LARPについての知見を交流し、議論ができればと思っています。

以下、今回の口頭発表パネルの概要です。

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議論のバトルフィールドにのみこまれる~ミキ・デザキ『主戦場』

ミキ・デザキ監督・脚本・撮影・編集の映画『主戦場』を見てきました。

www.shusenjo.jp


映画『主戦場』予告編

 

この映画は、すでに各種メディアが報じているように、この映画にインタビュイーとして出演しているケント・ギルバート氏(米国弁護士・タレント)、トニー・マラーノ氏(「テキサス親父」)、藤岡信勝氏(「新しい歴史教科書とつくる会」)、藤木俊一氏(「テキサス親父」の日本マネージャー)、山本優美子氏(「なでしこアクション」)の5名が原告となり、上映差し止めと計1300万円の損害賠償を求める訴えを起こしている。

www.bengo4.com

 

こちらは、その記者会見の様子。


記者会見 - 映画「主戦場」の上映を差し止める

 

この訴えに対しては、監督のミキ・デザキ氏も記者会見を開き、「商業映画として公開する可能性については伝えた」などと反論をしている。


『主戦場』2019年5月30日

 

同意書・承諾書などの存在もあり、またインタビュー動画については事前に(その部分だけとはいえ)確認するチャンスもあったということなので、おそらく問題になってくるのは、原告側が言うように「一方的なプロパガンダの映画になっている」「(私たちが言いたいことを主張することは一切せず、糾弾するような映像構成になっている」のかどうか、というあたりになってくるのでしょう。

これに関しては、実際に映画を観なければわからない…ということで、観にいってみました。

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学校教科書で「音楽する(musicing)」~大谷能生『平成日本の音楽の教科書』

 大谷能生『平成日本の音楽の教科書』 (よりみちパン! セ)を読みました。

 

 

あの(!)大谷能生さんが、平成時代の小学校・中学校・高等学校の音楽教科書のみならず、なんと平成元年(1989年)、平成10年(1998年)、平成20年(2008年)に改定されてきた学習指導要領もあわせて、読み解く(!)というステキ企画!

「学習指導要領」という存在がどうにもよくわからないのか、「簡単に言えば国が先生用に制作した、実際の授業のためのガイドブック」(p50)とか説明されていたり、「教育指導要領」と誤記されていたりするのなんて、もはや気にしない。

教科書不要論や、ほとんど何の根拠もないような「理想の教科書」論が巷に出回るなか、「『理想の教科書』のありかたではなく、現状の教科書の『理想的な使い方』を探ってみたいと思います」(p55)という企画のコンセプトそのものに、いたく感動してしまいます。

 

なぜそんな発想に至ったのか?

なぜ教科書を読もうと思ったのか?

その経緯については、本書の中でも十分に書かれていますし、本書の発行後、Zakzak大谷さんの連載記事「ニッポンの音楽教育150年のナゾ」が始まり、その記事の中でもけっこう述べられているので、ここでは割愛します。

www.zakzak.co.jp

 

本書のポイントは、クリストファー・スモールによって提案された音楽を<行為>として捉える視点=「音楽する(musicing)」という視点から、現在の音楽教科書でもっともっと実現しうる「音楽する」ための可能性を明らかにしていることでしょう。

 

さらに言えば、言葉の教育にかかわる仕事をしている者としては、大谷さんが、この「音楽する(musicing)」という視点からの提言のなかに、音楽を分析すること、言語化することを位置付けてくれていることに、感銘を受けました。

 

 「J-POP」という言葉は、90年代に登場した、比較的あたらしいそのような「ジャンル」のひとつです。そのような「ジャンル」による分別を、たとえば、共通事項に示された「音色、リズム、速度、旋律、テクスチャ、強弱、形式、構成」といった要素でもって、ジャンルを横断するようなかたちで分析してみるという授業はどうでしょうか。

 そして、また、その音楽の本質が、「共通事項」とは別の要素、つまり、それがやりとりされる現場にあらわれる「現象」とどれくらいかかわっているのか。音楽の本質が、譜面の読み書きによる「再現」に重きをおいたものか、それとも、それを演奏する人の個性によるのか、アレンジの変化にあるのか、それとも録音という行為にあるのか、はたまたネットの上の像が大事なのか……といったことを考え、さらに、教科書に載っているものとそれらがどのように異なっているのか、ということを確かめてみること。(大谷能生『平成日本の音楽の教科書』、p269)

 

本書の中には、東京学芸大学世田谷中学校で、平成30(2018)年6月16日(土)に行われた公開研究会(研究主題:「 世田谷中学校で育てる「21世紀型能力」―各教科が目指す深い学びを通して」)(2次案内PDF)での原口直教諭による授業「音楽の嗜好に気づく「聴き取る力」」が紹介されるとともに、このような授業での学習活動が「『言葉』でもって音楽に触れるためのとてもよいきっかけになるはずだと、筆者は思います」と書かれていて、……なんというか、しびれました。

 

学校の授業でできること、まだまだあるじゃん!もっと面白いこと、できるじゃん!

…って思ったし、事実、中学校国語科でやってみたいことのアイデアがあふれてとまらなくなりました。

 

…というのも、今年、神奈川県内のある自治体で中学校国語科の先生方の研究会に講師としてお呼びいただいた際に、東京書籍の中学校国語教科書『新編 新しい国語1』に掲載されている「書くこと」教材「作品のよさを表現しようー歌の鑑賞文」(p203)の実践報告をお聞きする機会があり、そのときに見せていただいた生徒のワークシート記入例にいろいろ考えさせられたからだと思います。

ten.tokyo-shoseki.co.jp

 

たしかその生徒は、米津玄師の《LOSER》(だったと思うが記憶が曖昧)か何かで、「歌の鑑賞文」を書くために、歌の分析をしていたのだと思う。


米津玄師 MV「LOSER」

だけど(国語科だから?)ワークシートは、歌詞について分析することを求めていたのに、その生徒がワークシートに書く内容は、ほとんど、《LOSER》のミュージック・ビデオに見られる映像的な表現に関するものがほとんどで、歌詞の言語的表現に関する内容がほとんどない。

そのせいかどうかわからないけれど、そのワークシートの記入例は、教員からあまり高く評価されていなかった。そのことがとても記憶に残りました。

 

このとき、わたしは講演をする機会をいただいていたので、講演の最後にも、この生徒の作品に触れて、「生徒たちが接する音楽の世界の中には、ヴィジュアルな表現というのが不可分に入ってきている。米津玄師の音楽表現と、Youtube動画におけるヴィジュアルな表現は一体のもので、生徒たちもそのようなものとして『音楽』を享受しているという現実を、鑑賞文指導においても踏まえる必要があるのではないか」というようなことを言ったりしました。

 

だから、大谷さんがここで指摘していることは、まったく、他人事ではない、音楽科に限定された話ではないと思っています。

国語科では、教科書に掲載されるレベルで(!)、歌の鑑賞文指導が一般的に行われている。

J-POPをはじめとした自分たちの身の周りにある音楽を分析する、ということが、もっともポピュラーに行われているのは国語科である、といっても過言じゃないと思う。(東京書籍の教科書のシェア率は、光村図書に次いで多かったはずです)

 

もちろん「音楽する(musicing)」という行為そのものにかかわる音楽科と、言葉を使用し創造する行為にかかわろうとする国語科では、そのアプローチの仕方は異なるべきでしょう。

では、音楽する(musiging)音楽科ではどんなことができて、言葉する(languaging)国語科ではいったいどんなことができるのか?

そして、それらがコラボレーションしたら…!?

 

そんなことを考えはじめると、たくさんの妄想が浮かんでは消え、浮かんでは消えしていきます。

 

ちょうど今、わたしが担当してる授業「初等教科教育法(国語)」では、ある学生たちのチームが、「歌詞を分析する」授業の構想に取り組んでいます。

歌詞を読んだり分析することが大好きな人たちが集まるそのチームの学生たちが、どんな授業を提案してくれるのか、ますます楽しみになる1冊でした。

 

(7/24追記)

このブログ記事のレビューを読んでくださった方から、本書の誤植の多さについて指摘をうけました。本書の誤植の多さについては、私自身も読みながら気づいておりましたので、そのことについてなんの注意書きもせずに、レビューを書いてしまったことは、本ブログの読者に対して誠実でなかったと思います。ここにお詫び申し上げます。

誤植が多いという問題については、すでに、本書の出版社である新曜社にお伝えしてあります。また、新曜社から、至急訂正版を出してくださるとの回答もいただいております。

 

 

 

「物語の段階」を遊ぶ!~『じっくりミレー』と鑑賞教育

大学院の授業では、『メディア・リテラシーの教育(ことばの授業づくりハンドブック)』(奥泉香編、2015、渓水社)をテキストにしながら、主に、中学校・高等学校の国語科でのメディアを用いた言葉の教育や、メディア・リテラシーの教育について議論しています。

本書の第2部には「国語科教育としてのメディア・リテラシー教育実践」と題して、絵図や写真、広告・CM、アニメーション…などの媒体(メディア)ごとに、実践が紹介されているので、受講生にそれぞれ、その中でひとつ取り上げてもらい、本書で紹介されている実践を批判的に紹介しつつ、自分自身で考えた教材提案を行ってもらうという内容です。

今週の授業では、たまたま発表にあたっている受講生がいなかったこともあり、

また、先週末に全国大学国語教育学会第136回大会に参加するために訪れた水戸で、水戸芸術館の方と、「対話型鑑賞」のありかたについてお話しする機会があって、わたしの中で、猛烈に「対話型鑑賞」「鑑賞教育」について考えたい、誰かと話したい時期でもあったので、受講生たちと、絵画作品の鑑賞による言葉の学びについて、体験を通じて議論をする会とすることにしました。

 

まずは、わたしの中で、アート作品を鑑賞しそれを言語化していくことの教育・学習的な意義についてかんがえるきっかけになった、森村泰昌(2011)『「美しい」ってなんだろう?:美術のすすめ』(よりみちパン!セ)の最終章の一節を共有したあと、

 

わたし自身が、水戸芸術館現代美術ギャラリーでの高校生との対話型鑑賞のフィールドワークに基づいて書いてきた論文をいくつか紹介したりしました。

-石田喜美(2009)「アート・リテラシ―教育における言語化の支援:現代美術館での鑑賞教育における高校生のグループ活動の分析から」(『学校教育学研究紀要』)

-石田喜美(2011)「国語科教育における「見ること」の学びに関する一考察:現代アートの鑑賞教育プログラムにおける学習者のテクスト生成過程の分析から」(『人文科教育研究』

 

わたし自身としても、自分自身の論考はともかくとして、2011年の論文に引用している松井みどりさんのテキスト「アートについて書くための5項目」(高校生アートライティング事務局『アートライティング』記録集に寄稿していただいたもの)は、これまでに価値が定まっていないアート作品の言語化をいかに考えていくか、を考えていくうえで、非常に本質的なことが書かれていると思っています。

『アートライティング』記録集が絶版になってしまった今、この引用部分だけでも読んでもらいたい!とすら思います。

松井みどりさんは、「アートについて書くための5項目」の論考の中で、高校生が「夏への扉マイクロポップの時代」展のなかで展示された半田真規作品のギャラリーガイドとして示したテキストを事例に、このような言葉を生むためには、以下の5項目のプロセスをたどってきたのではないか、そしてそれこそが、アートを書くために必要な5項目ではないか、と述べています。

①直感(先入観を持たずに今ここにある作品と対峠してそれが自分の感覚に及ぼす影響を感じ取る)

②作品の細部の観察

③直感と作品の細部をつなげる分析(直感をサポートする特徴を作品の細部から選び出す)

④文学や映画などの知識(ふだんから文学作品や哲学やエッセイを読んだり,映画や美術作品にふれる)

⑤現在の作品体験と文学などの場面の関係性についての類推(自の前の作品について感じているのと同じ感じをどこかで体験したことがないか思い出す)

(松井, 2008, p47)

 わたしは、もちろん、対話型鑑賞について書かれた書籍や論文などについてもいくつか読んできていて、アビゲイル・ハウゼンの「美的発達段階(Aesthetic Developmental Stage)」モデルについて、ハウゼン自身による論文も含めて、いくつか読んできたのだけど、なんだか、(そもそも、「発達段階(developmental stage)」という考え方に違和感があるからかもしれないけど)しっくりこないんです。

vtshome.org

そもそも、階段のようなかたちで記述しうる「発達段階」として、この5つが位置付けられるのかも謎だし、一般的な鑑賞者の多くは、はじめの2段階(「Accountive Stage(物語の段階)」と「Constructive Stage(構成の段階)」)にあるというよく言われる説明にも、反発を感じてしまう…。(結局、アートを創造的に見られるのは、一部の特権的な人たちってこと!?)

松井みどりさんの「アートについて書くための5項目」は、けして大規模調査に基づいた、科学的知識ではないけれど、松井みどりさんのようなプロの批評家と、現代アートに出会ったばかりの高校生とに共通する、「アート作品と出会い、それを言語化していくこと」のプロセスを描き出していて、とてもエキサイティング。

ハウゼンのいうところの第1段階「物語の段階」や第2段階「構成の段階」にあったとしても、幅広い文化的な経験と結びつくことで、それが他ならぬその人自身の言葉を、「批評」を紡ぎ出すことへとつながっていきうることをクリアに示してくれているように思います。

 

そんな話をしたあとに、アート作品の言語化にかかわる2つのカード型教材を体験してもらいました。

 

ひとつは、鑑賞教材「国立美術館アートカード・セット」

神奈川では、横須賀美術館アートカードや、岡本太郎アートカードゲーム(PDF)などもあり、アートカードを使った鑑賞教育はけっこう一般的に行われていたりします。

わたしが担当する教育実習生が、実習先の研究授業でアートカードを使った鑑賞教育をやったりするレベル。

そんなわけで、まずは現在かなり普及している「アートカード」を使ったアクティビティ「My美術館」と、「アートカード」を使ったあてっこゲームを体験してもらいました。

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art card

もうひとつは、かわぐち(@guchi_fukui)のご厚意でご提供いただいた、『じっくりミレー』というカードゲーム。

chaga2.jimdo.com

こちらについては、かわぐちさんご自身が、「[募集][サンプル提供]名画で遊ぶボードゲーム「じっくりミレー」を美術館、図書館、学校、施設などで遊んでみたいという方にサンプルを提供いたします。」という呼びかけをされているのを見て、「これは!」と思ってお願いしてみたところ、快く、2セットご提供いただきました。

 

『じっくりミレー』は、ミレー《刈入れ人たちの休息》や《鳥獣戯画》をはじめとした、名画の中に出てくる人物たちの「感情」を考えながら、その場にいる人たちが、その「感情」をどう読み取っているのかについてのおしゃべりを楽しむゲーム。

 

大学院の授業では、「アートカード」を使ったアクティビティのあとに、『じっくりミレー』のカードゲームに取り組んみたのですが、「アートカード」ではほとんど何も語れなかったような学生でも、『じっくりミレー』では自分がその絵画のなかに読み取っている物語を、(妄想も入りつつ)自由に語れていたのが印象的でした。

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ZikkuriMillet

もしかしたら、「アートカード」で、しかも「My美術館」をつくるという活動になると、抽象度を少し上げたかたちで作品の批評的な解釈をしなければならない、という制約がかかってしまうのかもしれません。

それに対して、『じっくりミレー』では、そもそもはじめに話し出すきっかけとなる「感情」はカードに書かれているし、お題を出す側(「芸術家」役)の人は、みんなが「その人はどう思っているのか」を考えてくれるので、「話さなければ」というプレッシャーもなく、逆に、「芸術家」役の気持ちを当てる側も、自分のことではないので、「自分ではそう思わないけど、〇〇さんなら…」と気軽に突飛な解釈を話せたりもするようです。

「芸術家役の人が考えていることを、あてっこする」というゲーム的な環境が、「自分だけが見えていることを語らなければ」というプレッシャーから、みんなを解放してくれる。でも、それによって、逆に、いろいろな人たちのいろいろな見方が、浮かび上がってくるというのが、とても面白いと思いました。

 

授業の最後に、もともと小学校で働いていた経験のある院生が、「こういうことを、小学校の図工の鑑賞でやったことがあります」とお話ししてくれたので、そのエピソードをもっと聞きたかったのですが、夜時間が遅かったこともあり、十分に聞けなかったのが残念。

これまで小学校・中学校で、図工・美術の鑑賞教育や、国語での鑑賞文教育のなかで行われてきたことをつないでいくことを、これからももっと考えていきたいですし、鑑賞だからこそできる、教育・学習の可能性をあらためて考えさせられた時間でした。

必要とすること/ギブを願うこと

以前、こちらのブログで、ニューヨークのカスティロ劇場で行われているプログラム「若者のための発達支援学校(Development School for Youth)」について、ご紹介しました。

わたしたちは、今回のイマージョン・プログラムの中で、カスティロ劇場での公演も観劇したのですが、わたしにとっては公演そのものと同じくらい、その前に行われていたレセプション・パーティでの会話が印象深いものでした。

 

わたしがレセプション・パーティーでたまたま出会った女性に、「あなたは、どのようにカスティロ劇場と関わっているの?」と尋ねると、彼女はとても自信に満ち溢れた様子で、「わたしは、ファンド・レイザーよ!」と答えてくれました。

 

彼女によると、ビジネスなどでの経験から、いろいろな方々に一人一人電話をかけて、寄付を願い出て、資金集め(ファンド・レイジング)をすることに自信もあるし、そのことでカスティロ劇場に参加していることに、喜びを感じている様子。

自分の今のおすすめは、大人のための発達・学習の場である「UX」で、「UX」の開講講座リストをもとに、電話をかけて、それについて人々と話しをし、寄付を願いでているのだとのことでした。

 

事実、カスティロ劇場の地下にある一室には、彼女のようなファンドレイザーたちが、ボランティアで活動するための部屋があり、3~4つの丸テーブルにそれぞれ、5台くらいの電話が置かれていました。

部屋の中のホワイトボードには、こんな感じで、ファンドレイジング目標(?)が示されていたりして……資本主義のシステムがビッチリと張り巡らせたその根の中に寄生するかのように存在する贈与経済システムに、クラクラと目眩がするような感覚になりました。


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自信たっぷりに「わたしは、ファンドレイザーよ!」と答えてくれた彼女との会話のあと、日本に帰ってからずっと、「必要とすること」「欲すること」と、(彼女が誇りを持って行っている)「願うこと」との違いについて考えていました。

 

フレド・ニューマン『みんなの発達!』の中に、次のような文章があります。

望むことと必要とすることについて、少し追加しましょう。ソーシャルセラピーの視点に立てば、望むことは大いにギブに関連しています。必要はよりゲットに関連します。誰かに望むのは、その人が誰なのかに関連します。誰かに望まれるというのは、知られていて、そしてギブされることです。必要とするのは、通常、必要とするのは誰なのか、必要とされる、ギブしなければならないのは誰なのかに関係します。(『みんなの発達!』, p44)

みんなの発達! ?ニューマン博士の成長と発達のガイドブック

 

すでに知っている人に対して何かを望むことは、ひとつのギブ(贈与)であり、誰かの何らかのニーズに基づいて「これが必要なので、提供してほしい」と訴えることは、ゲット(獲得)の文化に関連づいている。

 

こう考えてみると、その提供を求めたり、求められたりするものがどんなものであったとしても、そこに基づくものが、ゲット(獲得)の原理である限り、結局は何も変わらず、自分や他人を苦しめるだけなのではないか、コミュニティをより貧しいものにするだけなのではないか、と思えてきます。

 

このような考えがあり、しばらく、自分がこれまで「何かの役に立てれば」とか「恩返し」とかの気持ちで関わってきたコミュニティと距離を置かなければという気持ちが強くなりました。

特に、アートや地域コミュニティに関する活動対しては、そもそもわたしからギブできるものが何なのか、いろいろ考えてみてもよくわからないので、しばらく意図的に関わらないようと、なんとなく距離を置いてきました。

 

そうして、しばらく時間がたって、ゴールデンウイーク。このまま、水戸芸術館現代美術センターの「アートセンターをひらく」にも行かないまま、そっと時間が過ぎさっていくのかな…と思っていたところ、いろいろあって、5月5日に、水戸に行くことになりました。

 

自分のなかで何かが変わるのか、変わらないのかはわからないのですが、それを含めて、わたしにとってはひとつのチャレンジの機会なので、まずは、逃げずに行ってみようと思います。

文学×ゲーム×プログラミング!『ミッションメーカー:マクベス』パイロット調査版【終了しました】

3月下旬に、NPO法人ratikより、アンドリュー・バーン『19歳までのメディア・リテラシー:国語科ではぐくむ読む・書く・創る』を無料公開しました

ratik.org

本書のまえがきにも書きましたが、著者のアンドリュー・バーン先生は、国語教育(English)、メディア教育、ドラマ教育を横断的にとらえた理論や実践を展開されているかたで、「映画も!演劇も!アニメも!マンガも!ゲームも!小説も!みーんな大好き!」という、わたしのような人間にとっては、大変ありがたい存在なのです。

 

そんなバーン先生が、現在どんなプロジェクトをなさっているかというと…これ!

マクベス』をデジタル・ゲーム化するソフト開発!

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Missionmaker Macbeth

 『マクベス』といえば、あれですよ!ウィリアム・シェイクスピアの四大悲劇のひとつ!念のため、解説を加えると、こんなあらすじです。

スコットランドの武将であるマクベスが凱旋の途中3人の魔女と出会い、魔女から自分が王になると告げられる。この魔女の予言と男勝りの夫人の教唆によって野心をつのらせたマクベスは、王ダンカンを暗殺して王位を奪うものの、その後、王の遺児による討伐軍によって討たれる。

 

日本だと、黒澤明監督の映画『蜘蛛巣城』(1957年、東宝.主演:三船敏郎)が、『マクベス』を日本の戦国時代に置き換えた作品ということで、有名だったりもしますよね。


Kurosawa's "Throne of Blood "(1957) 蜘蛛巣城

 

しかも、このプロジェクト、単に、研究者やゲーム開発者がかってにやっているだけではなくて、大英図書館British Library)の協力を得て進められていて…であるがゆえに、なんとゲーム中に、大英図書館所蔵のシェイクスピア初期作品集(First Folio)の画像が入れられちゃう!という…なにそれすごい!みたいな仕様なのです。

 

そんな『ミッションメーカー:マクベスですが、現在、このゲーム制作ソフトのパイロット調査版を試してみてくださる、教育者(小学校~大学で教師をしてくださる方はもちろん、図書館や博物館・美術館、地域のスペースなどでワークショップを開催してくださる方でもかまいません)を、2019年9月まで、募集し、パイロット的な実施を行っておりました。

現在、すでにこのプロジェクトは終了しておりますが、どのようなプロジェクトであったのかをご紹介しておきます。

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