kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「物語の段階」を遊ぶ!~『じっくりミレー』と鑑賞教育

大学院の授業では、『メディア・リテラシーの教育(ことばの授業づくりハンドブック)』(奥泉香編、2015、渓水社)をテキストにしながら、主に、中学校・高等学校の国語科でのメディアを用いた言葉の教育や、メディア・リテラシーの教育について議論しています。

本書の第2部には「国語科教育としてのメディア・リテラシー教育実践」と題して、絵図や写真、広告・CM、アニメーション…などの媒体(メディア)ごとに、実践が紹介されているので、受講生にそれぞれ、その中でひとつ取り上げてもらい、本書で紹介されている実践を批判的に紹介しつつ、自分自身で考えた教材提案を行ってもらうという内容です。

今週の授業では、たまたま発表にあたっている受講生がいなかったこともあり、

また、先週末に全国大学国語教育学会第136回大会に参加するために訪れた水戸で、水戸芸術館の方と、「対話型鑑賞」のありかたについてお話しする機会があって、わたしの中で、猛烈に「対話型鑑賞」「鑑賞教育」について考えたい、誰かと話したい時期でもあったので、受講生たちと、絵画作品の鑑賞による言葉の学びについて、体験を通じて議論をする会とすることにしました。

 

まずは、わたしの中で、アート作品を鑑賞しそれを言語化していくことの教育・学習的な意義についてかんがえるきっかけになった、森村泰昌(2011)『「美しい」ってなんだろう?:美術のすすめ』(よりみちパン!セ)の最終章の一節を共有したあと、

 

わたし自身が、水戸芸術館現代美術ギャラリーでの高校生との対話型鑑賞のフィールドワークに基づいて書いてきた論文をいくつか紹介したりしました。

-石田喜美(2009)「アート・リテラシ―教育における言語化の支援:現代美術館での鑑賞教育における高校生のグループ活動の分析から」(『学校教育学研究紀要』)

-石田喜美(2011)「国語科教育における「見ること」の学びに関する一考察:現代アートの鑑賞教育プログラムにおける学習者のテクスト生成過程の分析から」(『人文科教育研究』

 

わたし自身としても、自分自身の論考はともかくとして、2011年の論文に引用している松井みどりさんのテキスト「アートについて書くための5項目」(高校生アートライティング事務局『アートライティング』記録集に寄稿していただいたもの)は、これまでに価値が定まっていないアート作品の言語化をいかに考えていくか、を考えていくうえで、非常に本質的なことが書かれていると思っています。

『アートライティング』記録集が絶版になってしまった今、この引用部分だけでも読んでもらいたい!とすら思います。

松井みどりさんは、「アートについて書くための5項目」の論考の中で、高校生が「夏への扉マイクロポップの時代」展のなかで展示された半田真規作品のギャラリーガイドとして示したテキストを事例に、このような言葉を生むためには、以下の5項目のプロセスをたどってきたのではないか、そしてそれこそが、アートを書くために必要な5項目ではないか、と述べています。

①直感(先入観を持たずに今ここにある作品と対峠してそれが自分の感覚に及ぼす影響を感じ取る)

②作品の細部の観察

③直感と作品の細部をつなげる分析(直感をサポートする特徴を作品の細部から選び出す)

④文学や映画などの知識(ふだんから文学作品や哲学やエッセイを読んだり,映画や美術作品にふれる)

⑤現在の作品体験と文学などの場面の関係性についての類推(自の前の作品について感じているのと同じ感じをどこかで体験したことがないか思い出す)

(松井, 2008, p47)

 わたしは、もちろん、対話型鑑賞について書かれた書籍や論文などについてもいくつか読んできていて、アビゲイル・ハウゼンの「美的発達段階(Aesthetic Developmental Stage)」モデルについて、ハウゼン自身による論文も含めて、いくつか読んできたのだけど、なんだか、(そもそも、「発達段階(developmental stage)」という考え方に違和感があるからかもしれないけど)しっくりこないんです。

vtshome.org

そもそも、階段のようなかたちで記述しうる「発達段階」として、この5つが位置付けられるのかも謎だし、一般的な鑑賞者の多くは、はじめの2段階(「Accountive Stage(物語の段階)」と「Constructive Stage(構成の段階)」)にあるというよく言われる説明にも、反発を感じてしまう…。(結局、アートを創造的に見られるのは、一部の特権的な人たちってこと!?)

松井みどりさんの「アートについて書くための5項目」は、けして大規模調査に基づいた、科学的知識ではないけれど、松井みどりさんのようなプロの批評家と、現代アートに出会ったばかりの高校生とに共通する、「アート作品と出会い、それを言語化していくこと」のプロセスを描き出していて、とてもエキサイティング。

ハウゼンのいうところの第1段階「物語の段階」や第2段階「構成の段階」にあったとしても、幅広い文化的な経験と結びつくことで、それが他ならぬその人自身の言葉を、「批評」を紡ぎ出すことへとつながっていきうることをクリアに示してくれているように思います。

 

そんな話をしたあとに、アート作品の言語化にかかわる2つのカード型教材を体験してもらいました。

 

ひとつは、鑑賞教材「国立美術館アートカード・セット」

神奈川では、横須賀美術館アートカードや、岡本太郎アートカードゲーム(PDF)などもあり、アートカードを使った鑑賞教育はけっこう一般的に行われていたりします。

わたしが担当する教育実習生が、実習先の研究授業でアートカードを使った鑑賞教育をやったりするレベル。

そんなわけで、まずは現在かなり普及している「アートカード」を使ったアクティビティ「My美術館」と、「アートカード」を使ったあてっこゲームを体験してもらいました。

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art card

もうひとつは、かわぐち(@guchi_fukui)のご厚意でご提供いただいた、『じっくりミレー』というカードゲーム。

chaga2.jimdo.com

こちらについては、かわぐちさんご自身が、「[募集][サンプル提供]名画で遊ぶボードゲーム「じっくりミレー」を美術館、図書館、学校、施設などで遊んでみたいという方にサンプルを提供いたします。」という呼びかけをされているのを見て、「これは!」と思ってお願いしてみたところ、快く、2セットご提供いただきました。

 

『じっくりミレー』は、ミレー《刈入れ人たちの休息》や《鳥獣戯画》をはじめとした、名画の中に出てくる人物たちの「感情」を考えながら、その場にいる人たちが、その「感情」をどう読み取っているのかについてのおしゃべりを楽しむゲーム。

 

大学院の授業では、「アートカード」を使ったアクティビティのあとに、『じっくりミレー』のカードゲームに取り組んみたのですが、「アートカード」ではほとんど何も語れなかったような学生でも、『じっくりミレー』では自分がその絵画のなかに読み取っている物語を、(妄想も入りつつ)自由に語れていたのが印象的でした。

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ZikkuriMillet

もしかしたら、「アートカード」で、しかも「My美術館」をつくるという活動になると、抽象度を少し上げたかたちで作品の批評的な解釈をしなければならない、という制約がかかってしまうのかもしれません。

それに対して、『じっくりミレー』では、そもそもはじめに話し出すきっかけとなる「感情」はカードに書かれているし、お題を出す側(「芸術家」役)の人は、みんなが「その人はどう思っているのか」を考えてくれるので、「話さなければ」というプレッシャーもなく、逆に、「芸術家」役の気持ちを当てる側も、自分のことではないので、「自分ではそう思わないけど、〇〇さんなら…」と気軽に突飛な解釈を話せたりもするようです。

「芸術家役の人が考えていることを、あてっこする」というゲーム的な環境が、「自分だけが見えていることを語らなければ」というプレッシャーから、みんなを解放してくれる。でも、それによって、逆に、いろいろな人たちのいろいろな見方が、浮かび上がってくるというのが、とても面白いと思いました。

 

授業の最後に、もともと小学校で働いていた経験のある院生が、「こういうことを、小学校の図工の鑑賞でやったことがあります」とお話ししてくれたので、そのエピソードをもっと聞きたかったのですが、夜時間が遅かったこともあり、十分に聞けなかったのが残念。

これまで小学校・中学校で、図工・美術の鑑賞教育や、国語での鑑賞文教育のなかで行われてきたことをつないでいくことを、これからももっと考えていきたいですし、鑑賞だからこそできる、教育・学習の可能性をあらためて考えさせられた時間でした。

「リフレクション(省察)で教師は育つ!」@紀伊国屋書店新宿本店 イベント・レポート

紀伊国屋書店本店9階イベントスペースで開催された、リフレクション(省察)で教師は育つ!~『リフレクション大全』『リフレクション入門』『小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ 授業づくりの考え方』刊行記念セミナーに参加してきました。

www.kinokuniya.co.jp

 

 以前、このブログでもご紹介した、渡辺貴裕『小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ 授業づくりの考え方』、REFLECT(一般社団法人学び続ける教師のための協会)編『リフレクション入門』、ネットワーク編集委員会リフレクション大全(授業づくりネットワーク No.31)』の著者・編者が集まり、最近、教育界でますますホットになりつつある「リフレクション」についてトークする(!)という、トークイベントでした。

 

kimilab.hateblo.jp

 

 

わたし自身の問題意識としては、今、教育界のみならずいろいろな業界で、「リフレクション(reflection; 省察)」という用語が氾濫しすぎていて、それこそ、同じ「リフレクション」という言葉でも、ピンからキリまである状態…さらにいうと、リフレクト(省察)すべきだとされている内容や、その目指すべき状況も、バラバラだったりして…いったい、この先どうなっていくんだろう…?と思っていたことがあります。

そんな中、教育業界における「リフレクション(reflection)」という用語の氾濫、その雑多な感じをそのまま提示してきたような『 リフレクション大全(授業づくりネットワーク No.31』を見て、逆に、感動を覚えたり、

『リフレクション入門』を読んで、2012年に邦訳が出版された『教師教育学』以降のコルトハーヘンの理論が、ますます、個としての教師の実存に気づくことに向かっていることに、ハッとさせられたりしていたところだったので、この三者が、今、「リフレクション」について何を語るのか、果たして、そこにクロスポイントは見出せるのか?という点が、非常に気になっていたわけです。

 

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結果として、なにかわたしなりに、「これが答えだ!」と言えるようなクロスポイントが見いだせたわけではなかったけれど、それでも、これら、教師のリフレクションにかかわる書籍の編著にかかわった、三者の現在の問題意識についてかなりクリアにできたことで、わたしが、これから考えていくべきことも明確になった気がしています。

 

おそらく、今回のトークイベントは平日の午後開催でしたし、会場もほぼ満員でしたので、「行きたいけど、行けなかった」方が多くいらっしゃるのではないかと推測します。

そこで、わたしなりに、トークイベントの内容のメモをとりました。本イベントの司会でもある渡辺先生にご許可もいただきましたので、そのメモの内容をブログで公開します。

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【リレー企画】学生たちによる、ALPを用いた模擬授業の振り返り

【リレー企画】と題された、ロカルノさんのブログ記事ALP(アクティブ・ラーニング・パターン)で研修しよう」「【リレー企画】ALPで授業の考え方を共有しよう」と、

それに続く、Yacchaeさんのリレー記事、「【リレー記事】ALPを使ったブログでの授業振り返り①!〜続いてくれる先生を募集します!」に影響を受け、

「せっかく『リレー企画』なんだったら、集団競技っぽく参加しちゃおうじゃないの!」ということで、大学2年生を対象とした教職課程科目「初等国語科教育法」の模擬授業について、「アクティブ・ラーニング・パターン《教師編》」を用いた振り返りレポートを、5人の学生たちに書いてもらいました。

 

ロカルノさんによるこちらの記事には、自分の経験をうまく他人に手渡す、受け取るそんな方法」として、ALPでブログを書く(あるいは、ツイートする)という方法を提案されているようなので、まだ教師としての経験のない学生たち、(ましてや学部2年生!)による記事に、どのくらいの意味があるかはわかりません。

 

でも、今回5名の学生たちにレポートを書いてもらい、それをブログ記事にアップしてみて思ったのは、学生たちがここでピックアップしているパターンや、その解釈の仕方こそが、教育実習で現場の先生方が学生たちとコミュニケーションを始める際のスターティングポイントになりえるのではないか、ということ。

そして、逆にいえば、現場の先生方にこれらのブログ記事を見ていただくことで、「大学内の授業ではこのくらいのレベルまで、『観察』や『振り返り』の視点を持てるようにしておいてほしい」というディスカッションをはじめるためのスターティングポイントになりえるのではないか、ということでした。

 

もちろん、ここに挙げている5つのブログ記事を見比べてみれば、明らかなように、学生によって、引っかかりを見出せるポイントも、その深さもかなり異なっているので、これらを見比べたところで、どこに、大学と現場の学校とが、ともに教師教育に携わるためのポイントを見出したら良いのかは、まだ、定かではないのだけれど。

 

それでも、ここにこうして、大学2年生なりの授業の見え方、振り返り方がわかる記事を、比較可能なかたちで置いておくことには、意味があると思う。

ぜひ現場の先生方にごらんいただき、教師教育のために何ができるのかについて、考えたことを教えていただけたら、うれしい。

 

なお、以下にしめす第1番目の記事に書いていますが、わたしの担当する「初等国語科教育法」では、自分の好きな・得意な言語活動いもとづき、授業を一緒に受けている大学生たちに向けて、20分程度のみじかい模擬授業を計画し、実施してもらっています。

 

ynukokugo.blogspot.com

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パフォーマンス学習の場としての模擬授業~渡辺貴裕『授業づくりの考え方』~

 前の記事でも書きましたが、体調が万全に回復しないのを良いことに、自分のインプットのための時間を作っています。

その中で、教職課程での授業との関わり方について、静かに考えなおすきっかけをもらえるような2冊の本と出会いました。

1つは、C. A. トムリンソン&T. R. ムーン『一人ひとりをいかす評価』。こちらについては、こちらにブログ記事にまとめました。 

kimilab.hateblo.jp

 

今回の記事では、渡辺貴裕(2019)『授業づくりの考え方―小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ』くろしお出版)について書きたいと思います。

 

 

 

本書の内容の充実度や構成の妙については、すでに、静岡大学の亘理先生による素晴らしいレビューがあるので、そちらをご覧ください。

www.watariyoichi.net

 

わたしにとってのこの本の大切さは、何よりも、その模擬授業の捉え方にあります。

本書では、本編に入るまえに「なぜ模擬授業なの?」というコラムが掲載されており、そこで、「本書で扱うのは、そうではなく、自由な挑戦の場としての模擬授業です」(pⅳ)という立場が、明確に示されています。

 

「自由な挑戦の場としての模擬授業」!

「失敗を恐れず大胆な挑戦ができる」場としての模擬授業!

 

模擬授業を、「品定め」のための場から、「挑戦」のための場へと変化させていくこと。このことの大切さは、何度言っても、言いすぎることはないと思います。そのくらい大切なことだし、そのくらい、何度言っても伝わりにくい、変えていくことの難しいものでもあります。

わたし自身も、教職課程の授業に関わるなかで、どのように模擬授業を「挑戦」のための場にしていけるのかを考えながら、毎年、トライ&エラーを繰り返しているような状況です。何度もトライ&エラーを繰り返しながら、教職課程の学生たちに、できる限り自由な発想での「挑戦」を促してみるけ、それでもうまくいかないことが多い。

学生たちにとっては、「国語」という教科名を聞いただけでまず思い出すのが、自分たちが受講してきた小学校から高校までの「国語」の授業。自分たちが授業を構想する段階になっても、自分たちが経験してきた「国語」の授業の記憶をなぞって、その真似事をしてみるというのが、もっとも、カンタンに、失敗のリスクを抱えずに、模擬授業課題をこなすための方法です。

そのような、真似することの安全圏から、どのように踏み出しうるのか。「挑戦」のための模擬授業へとジャンプしていくことができるのか。

それがわたし自身の目下の課題であり、悩みであります。

 

本書に示された8つのセッションでは、コルトハーヘン(2012)『教師教育学』学文社)にも示されている「ALACT」モデルにもとづいて作成された、「試みる」→「かえりみる」→「深める」→「広げる」(→さらなる「試みる」へ)というリフレクションのサイクルが繰り返されています。

コルトハーヘンの「ALACT」モデルは、「Action(行為)」→「Looking back on the action(行為の振り返り)」→「Awareness of essential aspects(本質的な諸相への気づき)」→「Creating alternative methods of action(行為の選択肢の拡大)」であることを思うと、「Action」に相当するプロセスとして「試みる」を当てている点は、とても大きい。

現実の学校や教室ではない場所で、現実の子どもたちを目の前にせず、あくまでフィクションとしての授業を行う、フィクションの世界で演ずることから学んでいくという意味で、この「試みる」は、ひとつのパフォーマンスと位置付けられると思います。

「パフォーマンスの学び」としての模擬授業。

あくまで、フィクションの世界でのパフォーマンスだから、わたしたちは、安全な場で、大胆な挑戦、自由な挑戦をすることができる。そこから学び、発達することができるのでしょう。

 

一方、だからといって、「パフォーマンスの学び」としての模擬授業の場を、すぐに成立させることは難しいのも事実です。

私たち教員のみならず、学生たち自身も、あまりにも「品定め」としての模擬授業に慣れ過ぎていて、「子ども役」を演ずることにバカバカしさを感じたり、「現実の子どもがいないのに、模擬授業をやっても意味がない!」と思ったり、そのような疑問や不満を感じないとしても、「子ども役」=学習者役として模擬授業に参加すること、そこで学習者として感じ、感じたことを率直に言葉にすることは、とても難しい。

教育実習の経験すらない、教職課程の学生たちであれば、なおさらです。

 

本書では、おそらく、そのような問題が生じるであろうことも視野に置かれていて、「本書の活用方法」として、「ひとりで読む」のほかに、「仲間で読む」という方法が提案されています。

 

仲間と読む

「試みる」「かえりみる」「広げる」について登場人物の役を割り振って、声に出して読み合わせをしてみましょう。「試みる」では授業が一挙に立体的に感じられるようになり、また「かえりみる」「広げる」では登場人物がそれぞれの立場から感じたり考えたりしたことがっよりいっそう肌身で感じられるようになると思います。(pⅵ)

 

本書のなかに示されたセッションを、対話劇のようなかたちでパフォーマンスすることで、セッションの具体的なありようを体験してみることが、ここでは提案されています。

ここでは「試みる」「かえりみる」「広げる」だけが提案されているため、わたしのような教職課程の教員(学生や新人教師を育てる側の人間)が、パフォーマンスに参加できないのが残念なところです。

が、わたしはこれを読んで、ぜひ「深める」のパートを自分自身でパフォーマンスしてみたいと思わずにいられませんでした。

「ミニレクチャー2」によれば「…本書では、『深める』の部分を『わたあめ先生』が一人でしゃべる形式で書いています。けれども実際の模擬授業の検討会では、この部分が一方的な話であることはなく、参加者との対話によって進むものでしょう(本書でそうした形をとらなあったのは、もっぱら体裁上の理由、つまり書籍としての読みやすさを優先したためです)」(p43)とのこと!

だとしたら、私たち教師教育者としては、ぜひ「深める」の部分をパフォーマンスしてみてみるべきだと思うのです。

 

とはいえ、おそらく、この部分の台本が示されていないのは、この部分が「台本なしの学習(unscripted learning)」=即興的な学習として行われるべきだという、「わたあめ先生」からのメッセージかもしれません。

そうであるとすると、私たち、教師教育者は、そこからどのような「台本なしの」学習を、学習者たちとともに創造することができるのか、を考えていくべきでしょう。

 

「台本あり」のパフォーマンスと、それに続く「台本なし」の学び。

本書はそれ自体、非常にシンプルに大切なことがまとめられた本ですが、この本を使いパフォーマンスすることで、見えてくることの可能性もまたたくさんありそうです。

 

これについては、今度ぜひ、自分自身で機会をつかまえて「試して」みたいとおもいます。

ダークペダゴジーとしての評価を再考する~『一人ひとりをいかす評価』~

あまり体調が芳しくないことを良いことに、遠出するような予定はすべてあきらめて、家で、本を読んだり、映画を観たりしています。

おかげさまで、ようやく、インプットのための時間をとることができ、とてもありがたい。

もっともありがたかったのは、このタイミングで、自分自身の教職課程での授業との関わりのありかたを、落ち着いた静かな心で、じっくり考えなおすきっかけになるような出会えたことです。

 

ひとつは、C. A. トムリンソン & J. A.ムーン(2018)『一人ひとりをいかす評価:学び方・教え方を問い直す』北大路書房)。

 

 

もうひとつは、渡辺貴裕(2019)『授業づくりの考え方:小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ』くろしお出版

 

 

授業づくりの考え方』については、1/17発売予定とのこと。著者の渡辺貴裕先生から、わざわざお送りいただいていただいたおかげでこのタイミングで読むことができたのだと思うと、本当に、ありがたい。

 

まずは、『一人ひとりを生かす評価』について。

この本は、C. A. トムリンソン『ようこそ、一人ひとりを生かす教室へ』(北大路書房)の姉妹編ともいえる書籍で、1年くらい前に、訳者のひとりである山元隆春先生から、「一人ひとりを生かす教え方(diffrentiated instruction)」の評価編が出版予定であると聞いていて、とても楽しみにしていたのですが、期待していたとおりの本でした。

 

この本の大切さを説明するためには、次のエピソードを引用するだけで、十分でしょう。

 

このように一人ひとりをいかす教え方の「常識的な定義」を提供してくれた大学院生が、自分で説明を書き出したのにはわけがあります。彼は自分が一人ひとりをいかす教え方の理解を深めているときに何か大事な要素を抜かしてしまっているのではないかと不安になったからです。そして、一人ひとりをいかす教え方の枠組みをより理解していて、とてもわかりやすい説明もできていたというフィードバックを受け取ったとき、彼は当惑した表情を浮かべました。不機嫌な表情とさえ言えました。そして、こう言ったのです。「これが一人ひとりをいかす教え方のすべてなら、なぜみんんなやっていないのですか?」と。

…(中略)…

答えを必要としない彼の問いかけに対する正解は、ほとんど教師はすべての要素は道理にかなっていると思うことでしょう。常識と捉えるかもしれません。しかしながら、これらの常識は、古い習慣や世の中への対応を求められたりすることによって見えなくなっているのです。…

(C. A. トムリンソン『一人ひとりをいかす評価』, p205)(太字は引用者)

 

はじめに、今回出会った2冊の本が、「落ち着いた静かな心で、じっくり考えなおすきっかけ」になったと書きましたが、その理由がここにあります。

今回わたしが出会った2冊の本は、どちらも非常に「常識」的なことを書いているのです。だけれども、日々のように発されてくるさまざまな要請――それは古くから続く慣習によるものもありますし、変化し続ける世の中の動向に関わるものもあります――への対応を考えていくなかで、いつの間にか、それを見失いがちになってしまいます。――とても悲しいことですが。

だからこそ、こういったかたちで、あらためて「常識」ともいえるような、シンプルな考え方を見直させてくれる本は、とても貴重で、大切な存在だと感じています。

 

今回、わたしが特に感銘を受けたのは、「効果的な成績」の原則です。*1

 

  1. はっきり特定した学習目標を元に成績をつける
  2. 比較や相対評価ではなく、規準をベースにした(絶対評価の)成績を使う
  3. 何でもかんでも成績の対象にはしない
  4. 効果的な評価法のみを使う
  5. 「不透明な成績」をできるだけ減らす
  6. 「数学的な不透明な成績」を排除する
  7.  成績のサイクルの前よりは後の方で成績をつける
  8. 通知表の段階では「三つのP(パフォーマンス・プロセス・成長)」を使う
  9. 評価と成績のプロセスをオープンにする(以上、『一人ひとりをいかす評価』、p199)

 

このうちのいくつかについては、たしかに「一人ひとりをいかす教え方」に特有なもの、今の日本での評価のありかたを考えると、「常識」的であるようには見えづらいこともあるように思います。

もちろん、本書を読んでいただければそれらも非常に「常識」的でシンプルな原則のひとつであることがわかると思うのですが、わたしが特に「ハッ」とさせられたのは、もっともっとより「当たり前」な原則ともいえる、「5. 『不透明な成績』をできるだけ減らす」「6. 数学的な不透明な成績」を排除する」でした。

 

ここで「不透明な成績」の例として挙げられているのは、「例えば、提出がきれいでない、提出が遅かった、生徒が自分の名前を書かなったなどの理由で、教師が評価から点数を差し引いたとき」です。

「数学的に不透明な成績」の例として挙げられているのは、「生徒の成果物が行方不明だったり、生徒がテストでカンニングしたりしたときに、ゼロが与えられること」や、「成績を平均化」し、「平均」の得点をもとに成績をつけることです。

 

わたしが、これらの「不透明な成績」に関する議論から思い出したのは、「ダークペダゴジーに対する議論でした。www.kyobun.co.jp

ダークペダゴジーは、他者の成長や価値観、知識獲得に介入するための後ろ暗い方法論を指すもので、ドイツの評論家K・ルチュキーによって1977年に命名された。具体的には、▽暴力▽強制▽うそ・ごまかし▽賞罰▽欲求充足の禁止▽条件付き愛情▽心理操作▽監視▽無視▽屈辱――などを用いたしつけや指導が当たる。(

ダークペダゴジー ― 教師をむしばむ負の指導法(1)ダークペダゴジーとは | 教育新聞 電子版

 

つまり、これら「不透明な成績」は、ダークペダゴジーとして行われているのではないか、具体的には、「賞罰」「条件付き愛情」などによる知識獲得への介入行為として行われているのではないか、ということでした。

 

「ダークペダゴジー」というと、日本では、「悪質タックル事件」を契機にこの言葉が話題となったこともあり、体罰をはじめとした暴力行為が取り上げられることが多く、多くの先生方や教師を目指す学生たちの中には、どこか、自分とは遠い話だと思っているところがあるのではないか、と思いますが、「そうではないのだ」とあらためて思わされました。

 

 

わたし自身もそうですが、提出物がきちんと整えられていなかったり、遅延して提出されたことによって、減点をした経験のある教員は少なくないと思います。

「やる気がない」ように見える学習者、グループワークに消極的にしか参加できない学習者に対し、「積極的な参加が見られない」という理由で、評価点を減点したほうが良いのではないかと、考えたことのある人たちも少なくないと思います。

 

だけど、本来、「常識」的に、シンプルに考えれば、評価とは、成績とはそもそもそういうものではない。成績点によって、学習者を罰しようとしたり、逆に、動機づけたりすることは、成績の意味をにごらせるだけです。

 

「ダークペダゴジー」としての成績や評価を脱するために、成績について、今後、どのように考えていけば良いのか。

「ホワイトペダゴジー」としての成績のありかた、評価のありかたをあらためて、考えてみようと思います。

*1:本書のなかでは、「一人ひとりをいかす教室での効果的な成績」の原則として書かれています

トライアルワークショップ『パフォーマンスに基づく新しい教員研修の方法』

「パフォーマンス心理学研究会」による12月の研究会(ワークショップ)に参加してきました。

「トライアルワークショップ『パフォーマンスに基づく新しい教員研修の方法』」というタイトルで、講師は、宮本万里さん。

 

3時間のワークショップでしたが、あっという間に終了時間になってしまいました。

「パフォーマンスに基づく新しい教員研修の方法」というタイトルで、しかも、下記のような紹介で集まってきた方々だったせいか、パフォーマンスへの意欲がかなり高い状態で、始まったワークショップだったなぁ、という印象です。

 

トライアルワークショップ
『パフォーマンスに基づく新しい教員研修の方法』
日時:2018年12月16日(日曜日)
   14時から17時まで。
会場:筑波大学東京キャンパス


講師:宮本万里さん(Creative Communication Company, New York)


内容:プロジェクト研究3『演劇的表現やパフォーマンスを通した学習と学習環境の共創』の3つのミッション(①附属学校群の教育方法の革新、②教員のマインドの改革、③危機管理に関する新しい研修方法の開発)のうちの②のためのトライアルワークショップを試みる。


 プロジェクト3の内のミッション③について:教員のバーンアウトや新しいことにチャレンジできない固定化したマインド等の問題が指摘されて久しい。本プロジェクトでは、教員、とくにベテランといわゆる年齢となり、これまでのやり方から抜け出すことのできず、相変わらず体罰や暴力的な指導を繰り返す教員が少なくない。

インプロパフォーマンスの経験を通して、このような固定化してしまった教員に対して、新しいことに向かって再イニシエーションの支援を行うような、新しい研修プログラムを開拓する。

 

 

今回行ったアクティビティは、下記のとおり:

 

  1.  ポーズで自己紹介
  2.  相手の名前を呼ぶ
  3.  「GO!」
  4.  赤いボール
  5.  「何してるの?」
  6.  単語あてゲーム①(名詞)
  7.  単語あてゲーム②(名詞+形容詞)
  8.  2人組でフリーシーン
  9.  「あけて/あけたくない」のスキットに基づくシーンづくり

 

ワークショップでは、受付時に、「自分の呼ばれたい名前」をテープに書いて、わかりやすい位置に貼るように求められます。

「1 ポーズで自己紹介」では、その名札テープにかかれた名前を言いながら、「自分がどこから来たのか?」にまつわるポーズをとりました。

わたしは、その日、某オリンピック・サーフィン会場予定地から上京して、ワークショップに参加していたので、サーフィンのポーズを取ったつもりだったのですが、まったく伝わらなくて残念でした(^^;)

 

次に、1 で示された名前とポーズを使って、「2 相手の名前を呼ぶ」アクティビティ。

自分のポーズを取りながら自分の名前を言い、次に、ターンを受け渡したい相手のポーズを取りながら、相手の名前を呼びます。

1 で、印象的なポーズを取られていた方がやたらとターンを回される羽目になります。……仕方ない(笑)

 

「3 『GO!』」は、「GO!」と言って相手に近づきながら、相手をその場所から移動させ、自分がその相手のいた場所に入るというゲーム。

相手の名前を呼んだりするわけではないので、相手に向けて「GO!」を届けること、相手との間のテンションを保ちつつ近づいていくことがポイントとなります。

 

「4 赤いボール」は、参加者全員で輪になって、イメージの「赤いボール」を渡していくゲーム。渡す人は、「赤いボール」といって、イメージのボールを手渡し、それを受け取った人は、イメージ上のボールを受け取ったあと、「赤いボール。ありがとう」と言います。

今回のワークショップでは、「緑のボール(Green ball)」「緑のボール。ありがとう(Green ball. Thank you!」と受け渡すアクティビティーから始まり、「大きなスイカ(Big Water mellon)」「眠っている赤ちゃん(Sleeping baby)」など、さまざまなものが受け渡されていきました。

 

「5  何してるの?」は、『インプロをすべての教室へ』にも掲載されているアクティビティー

2人組でペアになって、1人が何かのアクション(例:料理をする)をしているところに、もう1人が「何してるの?」と声をかけ、アクションをしていた人は、自分がしているのとはまったく異なるアクションを言います(例: 「水泳してるの!」)。言われた方のペアは、相手が言った内容のアクション(この例でいえば、水泳)をはじめ、それを交互に行っていくというゲームです。

インプロをすべての教室へ 学びを革新する即興ゲーム・ガイド

インプロをすべての教室へ 学びを革新する即興ゲーム・ガイド

 

今回のワークショップでは、宮本さんから、「自分が言ったことに対して、相手がどんなアクションをするのか。自分のイメージとの違いを感じてみて!」という声かけがありました。

確かに、「掃除をする」でも、雑巾がけあり、窓拭きあり、掃除機あり…とそのイメージはさまざまですよね。

個人的には、たまたま、その声かけがあったあとにペアになった方が、「焼酎飲んでるの!」「日本酒飲んでるの!」とおっしゃって、わたしなりの焼酎飲んでる像と、日本酒飲んでる像を演じわけてみたのですが、自分がそんなことができることにビックリでした。

 

次の「 言葉あて」(6~7)では、1人ひとつずつ、名詞のみのカードと、形容詞+名詞のカードが配られます。その言葉そのものを言わずに、相手になんもか、自分の持っているカードの言葉を当てさせるゲームです。

 

これらのゲームを経て、後半は、ペアによるシーンづくり。

ひとつ目の「8 フリーシーン」は、脚本なし。もうひとつ最後に行われたシーンづくりでは、「開けてほしい/開けたくない」の対立がある短いスキットが示され、それに基づくシーンづくりを行いました。

 

終了後の交流会で、宮本さんにお伺いしたところ、今回のワークショップでは、「自分が用いている、この言葉のイメージは、相手に伝わるのだろうか?」ということについて振り返り、考えていくための時間を創りだすことをねらっていたとのこと。

 

ニューヨークで日本語学習のためのインプロ&パフォーマンスによる学びの場を展開して、日本で英語教育のためのインプロ&パフォーマンスによる学びの場を展開してきた宮本さんが、「言葉のイメージ」に対してそのようなかたちでインプロ・ゲームやパフォーマンスを用いられていることが、興味深かったです。

 

留学生対象の日本語教育を担当されている先生とともに、日本語初級クラス受講生と教員養成課程の学生との共同ワークショップを行って2年目になりますが、そのワークショップでは、むしろ、「言葉がなくても通じちゃった!」とか「ミス・コミュニケーションって面白い!」みたいな感覚を創出するこもをねらいにしてきました。

そういう意味では、言葉やコミュニケーションの学びと、インプロやパフォーマンスとの関係について、また違ったアプローチを見せていただいた感じがします。

絶望的な社会と、ロバストなわたしたち~「マイ・チャイルド: レーベンスボルン」

東京ゲームショウ2018のインディーズ・ゲーム・コーナーで出会った、「マイ・チャイルド: レーベンスボルン」をついにクリアしました。

 

kimilab.hateblo.jp

 

このゲームについては、すでにいろいろなところで、レビューも出ているようなので、どのようなゲーム・アプリなのかについては、そちらをご参照ください。

マイ・チャイルド・レーベンスボルンのレビューと序盤攻略 - アプリゲット

 

この作品、「東京ゲームショウ2018」で公開された当初やそれ以前は、「ノルウェー現代史の闇」を扱った作品であることがクローズアップされていたように記憶しています。

たとえば、この記事だと、「レーベンスボルン」についての詳しい解説とともに、このゲームが「ノルウェー現代史の闇」を扱っており、それを後世に伝えるために開発されたゲーム・アプリであることが紹介されています。

www.4gamer.net

 

しかし、東京ゲームショウ2018にあわせた日本語版リリースのあと、実際にこのゲームを日本語でプレイする人々も多くなり、日本のゲーム・カルチャーのなかで紹介されていくなかで、かなりこのゲームの紹介のされ方が変わってきたなぁ…という印象を持っています。

こちらは、上と同じ、4game.netの記事のはずなのですが、「ほぼ(日刊)スマホゲーム通信」として掲載される記事だけあって、「スマホゲーム・レビュー」の語り口や用語法にあわせて、このゲームが語られているのが、面白いです。

www.4gamer.net

 

「シリアスなアドベンチャー…!

なるほど、ゲーム・ジャンルとしていえばそうだよね、と言わざるを得ない、シンプルな紹介。これを見て、「そ…そうか」となってしまうのは、わたしだけなのでしょうか。

しかし逆に、「スマホ・ゲーム」という語り口から見えてくること、考えさせられることもあります。わたしが考えさせられたのは、この記事の最後にある、シリアスな作品だが,ゲームバランスは比較的マイルドなので,当時の歴史などに興味を持ったらぜひプレイしてほしい」という一文。

 

「ゲームバランスは比較的マイルド」

「ゲームバランスは比較的マイルド」

「ゲームバランスは比較的マイルド」


f:id:kimisteva:20181128143004j:image

 

こちらは、各章をクリアしたあとに出てくる画面のひとつなのですが、さすがに「『マイルド』とはなにか」と言いたくなってしまいます。

 たしかに、わたしはその章をクリアしたわけですし、この記事を書いている時点では、全章をクリアして、とりあえず、バッド・エンドにはならなかった(とてもじゃないけど、ハッピー・エンドとはいえない…というか、ハッピー・エンドになんてなれないのではないかと思います)わけですが、いくら章をクリアしても、全章クリアしてエンディングにたどり着いても、自分が「できなかったこと」「やるべきでなかったこと」はいつまで経っても残り続けます

 

たとえば、上の画面で示した章をクリアしたとき、わたしは、「あなたを含む55.5%の人が、ドイツ語について注意しませんでした」というメッセージを見て、かなりのショックを受けました。

いくら腐っても、端くれでも国語教育研究者ですので、「クラウス」(ゲームに出てくるわたしの子ども(=マイ・チャイルド))の母語であるドイツ語を「使わないほうが良い」と注意しなかったことについて、わたしは、後悔していません。

でも、(おそらく)そのせいで、彼は、その後、学校でいじめに遭ったし、唯一の友達も彼をいじめる側にまわってしまいました。

多くの人たちはそれがわかっていて、そしてゲームプレイヤーとして「正しい」選択をして、彼のドイツ語を注意したんだと思います。

でも、いくら腐っても端くれでも…以下、略!

いくらゲームでも、フィクションでも、自分の子どもに、「母語を使うな」とは言えないです。それがいくら、ゲーム上「正しい」戦略でも。

でも、ゲーム上、有利な戦略をしなかったせいで、きっと、「バッド・シナリオ」には近づいてしまったんだ…と、この画面を見て気付き、ショックを受けたわけです。

 

そんな葛藤を抱えつつ、なんとかゲームを全章クリアしたタイミングで、上記の記事に出会い、この記事のなかで、「ゲームバランスは比較的マイルド」という言葉で、このゲームが紹介されていることを知りました。

 

たしかに「マイルド」なんでしょう。…このゲームが、「マイルド」でなかったら、わたしのような人間は、バッド・エンドめがけてまっしぐらだったと思います。きっと。

 

そして、レーベンスボルンの子どもたちの実話に基づいて作られたこのゲームの、ゲームバランスが「マイルド」であることは、もうひとつ、重要なことを教えてくれている気がします。

それは、どんなに絶望的な社会のなかに置かれていたとしても、わたしたち人間は、そのなかをたくましく生き抜いていくことができるということ。

少なくとも、ゲームバランスが「マイルド」になるくらいには、わたしたち人間って、絶望的な社会を生き抜くロバスト(頑健)な生き物なのではないか。

…そんなことを思いました。

 

各章をクリアするごとに出てくる上記のような画面は、プレイヤーであるわたし自身の価値観を映し出す「鏡」にもなっていて、それが、大きく心を揺さぶられるところでもあります。

ちなみに上の画像だと、わたしは「楽観的」46%、「寛容」46%ということになってます。「厳しい」は7%。

この結果が、自分自身の教育者としての信念や価値観すらも映し出している気がして…、なんだかそのことにも考えさせられました。

 

『マイ・チャイルド:レーベンスボルン』は、300円~400円くらいで購入できるのですが、この金額でこの体験ができるのであれば、ぜひ体験してみたほうが良いのでは、と思います。

ただし、本当に、感情を大きく揺さぶられますし、わたしの知り合いの中にも、わたしがプレイしているのを見て「これは絶対無理!」と言った人もいるので、Android端末をお持ちのかたは、まずはお試し版をプレイしてみてから考えたほうが良いかもしれません。