kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

ホモフォビアとの向き合いかた~『カランコエの花』

渋谷アップリンクで上映されていた映画『カランコエの花』。

上映最終日に駆け込み、最終日の舞台挨拶も観てきました。

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舞台挨拶で印象に残った発言は、いくつもあるのだけれど、その中でも特に、中川駿監督が最後に(時間のない中で)紹介されていた、本作品への反応についての話が、印象的でした。

カランコエの花』は、保健室の養護教諭による「配慮に欠けた」LGBTの授業から、物語が展開していくのですが、映画全体としては、「バッドエンド」ともいえるような終わり方をするので、「やはり、(授業などで)LGBTについては触れない方が良いのではないか」というような反応があったとのこと。

このような反応に対して、監督自身が、キッパリと「自分としては、そのような意図はない」とおっしゃっていたことが印象に残っています。

 

たしかに、自分自身の問題に向き合おうとしていた生徒に対し、周囲の生徒たちはその問題に真っ向から向き合えなかった。

向き合えずに、茶化したり、見ないことにして逃げようとしたり、向き合わざるを得ない状況に陥る前にそれを回避しようとする行動を取ったり、あるいは、向き合おうとして何かをしようとしても何もできずにいたり……そんなことを繰り返すうちに、生徒たちが、お互いにお互いを傷つけあうような状況が生まれてしまう。(以上、舞台挨拶での監督コメントのわたしなりの要約)

 

「だけど」、と監督は言います。

「傷つけたり、傷つけあったりしてしまうのが、人間の本質なのではないか」、と。

 

「傷つけたり、傷つけあったりしてしまうけれど、だからといって、何もしないというのは違うのではないか。

傷つけてしまったら、謝ればいい。

うまくいかないかもしれないけれど、それでも、トライ&エラーを繰り返して、コミュニケーションをとろうとしていくこと」…それが、大切なのでは、ないかと。

 

この言葉は、ちょうど数日前、大学院のゼミナールでの議論したに、呼応していたように思います。

 

大学院のゼミナールでは、性的マイノリティの登場する文学教材の授業実践についての報告があり、それを巡って、「ホモフォビックな価値観が前提化された教室のなかで、いかに、心理的な安全な場を作ることができるのか」「そもそも、生徒たちのホモフォビアを明るみに出すことをねらう、今回のような教育的試みは、学校でやるべきではないのか」という点が、議論になりました。

 

そのくらい、その文学作品における性的マイノリティとの出会いは、生徒たちにとって、ある種「ショッキング」であったようで、そのために、あまりにもたくさんのホモフォビックな発言が教室内に溢れてしまったのです。

まるで『カランコエの花』の前半シーンのように。

 

生徒たちから出されるホモフォビックな発言の数々から生み出されるリスクと、それだからこそ可能になる学びの可能性の両方が、そこにはありました。

 

カランコエの花』と、その舞台挨拶での監督や、キャストの皆さんの発言は、そういう

「どうしようもなく溢れ出るホモフォビア」に対して、少し距離を置いて考えるきっかけをくれたように思います。

 

性的マイノリティと出会ったショックから生み出されるホモフォビックな発言は、あまりにも辛辣で攻撃的ですらあります。が、だからといって、それを、見なかったことにしても、何の解決にもならない。

それこそ、この問題に向き合えずに、知らず知らずのうち、「バッドエンド」へと導きあってしまった生徒たちと同じです。

そうであるとしたら、どのように、その問題に、向き合うことができるのか。

 

この映画は、自分が見ないようにしていること、知らずにどこかで逃げてしまっていることへの向き合いかたを考えさせてくれるように思います。

 

 

アライでない(かもしれない)人たちとのLGBTセミナーの作り方

2018年11月14日に、わたしの勤務先の大学で、男女共同参画センター×障がい学生支援室主催「ワークライフバランスセミナー LGBT」という企画が開催されました。
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このタイトルを見ただけで、察しの良いかたは、「『ワークライフバランス』と『LGBT』???」「これは誰がどういう目的でやろうとしているものなの??」など、ある種の「違和感」や「うさんくささ」を感じられることと思います。

このバラバラな感じの意味するところは、非常に明確です。
単刀直入に言ってしまえば、「今まで、そんなこと考えたことがなかった」人たちが、これまでの枠組み(「男女共同参画」!「ワークライフバランス」!)を使って、なんとか、今、必要とされている課題に取り組もうとした結果、こんなことになってしまった、ということ。
わたしは、とにもかくにも、何か自分たちにできることを始めてみよう!と、このような「無理やり感」あふれる企画を考え実現した方々に、大いなる敬意を評します。
ゼロからパーフェクトなものを創ることを望んで、いつまでも「何もできないよね」と、外から言い続けているよりは、はるかにましだと思います。

わたしは、横浜国立大学LGBTQサークル「クーピー」の顧問をしていたこともあり、この企画が立ち上がった段階で、お声がけをいただき、セミナー当日まで、企画運営面でのご協力をしてまいりました。
twitter.com

企画が立ち上がり、お声がけいただいたのが、7月。
それから企画実施までに、4ヵ月近くの期間があったわけですが、ある日突然、「LGBTに関する啓発セミナーを開催してほしい」という話があり、何がなんだかわからぬまま、セミナーを企画運営することになってしまった(!)という担当者の方をサポートする中で、いろいろ気づいたことがありました。

このような事態は、これから先、様々な場所で起こっていくだろう、と思います。

LGBTに関する啓発セミナーをやろう」と、学校や企業などの組織が決定し、なんとなく担当すべき部署を割り当て、その担当者に、セミナーの企画を命じる。
担当者が、たまたま、LGBT-Allyであるという場合もあるかもしれませんが、おそらく、そうでないことも多いでしょう。

セクシュアル・マイノリティの当事者と”出会った”経験もなく、自分が実際に会ったときにどういう感情を抱くのかわからない…。
自分が「アライ(Ally)」(=「alliance(同盟)」を表すことばで、セクシュアル・マイノリティの人たちを支え、応援する人たち)であるかどうかわからないし、そんなこと考えたこともない。実際に当事者と会ってみたら、ホモフォビア(同性愛嫌悪)の感情が起きてしまい、アライになろうという気持ちを起こせないかもしれない…。
www.nhk.or.jp

そういう人たちが、「LGBTに関する啓発セミナー」を開催しなければならない事態が、ますます増えていくということです。

世間になんとなく蔓延するホモフォビアが、見て見ぬふりをされながら放置されたまま、社会の要請として、具体的にいえば行政的・経済的な要請として、「LGBTインクルーシブな環境」づくりが求められた結果が、こういうことなのだろう、と思います。

そのような、アライでない(かもしれない)担当者がつくることになったセミナーの企画運営をサポートすることになったわけですが、結果的に、今回のセミナーの内容な次のようなかたちになりました。

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今回のような状況で開催されるセミナーの場合、当事者に直接話をしてもらう機会を設けることは、かなりリスキーです。

担当者が、突然、ホモフォビアを発症する危険性がありますし、そうでなくても、対応の仕方がわからなくて戸惑ってしまう、フリーズしてしまうということは十分ありえます。
さらにいえば、セミナーの受講者はさらに「読めない」ので、正直、初のセミナーには、当事者を呼ばない方が良いのではないか…とすら思います。

今回は、たまたま、すばらしく理解のある学生・OBがいて、快く協力を申し出てくれたので、当事者によるライフヒストリーを語る機会を設けられましたが、そういう幸せな状況がなければ、こんな危険な状況で、見知らぬ人たち相手にカミングアウトを強制することは、来ていただく当事者にとってリスクが高すぎると思います。
セクシュアル・マイノリティ当事者がカミングアウトしなくても成り立つような教育プログラムの開発について、私たちは、もっともっと真剣に取り組まなければいけない、と、あらためて実感しました。

今回、担当者の方が、「自分には知らないことばかりでとても勉強になった」とおっしゃってくださり、セミナー当日にも利用した動画教材は、下記の2つです。

(1)総務省人権啓発ビデオ「あなたが あなたらしく生きるために 性的マイノリティと人権」(活用の手引きはこちら(PDF))

人権啓発ビデオ 「あなたが あなたらしく生きるために 性的マイノリティと人権」

(2)NPO法人Re:Bit LGBT教材 中学校向け「Ally Teacher's tool kit」より動画「【中学校版】多様な性ってなんだろう?」

【中学校版】多様な性ってなんだろう?

上記2つの動画から、中学生が体験する困難に関するエピソード(ミニドラマ)、社会人が体験する困難に関するエピソード(ミニドラマ)を総務省の人権開発ビデオから、大学生がライフヒストリーとして語る困難や周囲からの支援に関するエピソードを、Re:Bitの動画教材から抜粋してご紹介することになりました。

なお、はじめの5分間(!)だけで開設する「基礎知識」編ですが、これについては、受講者全員にテキストを配布し、詳しくはあとで読んでいただくかたちにしました。
このとき、使用したのは、新設チームC企画の皆さんが、奈良教職員組合とのコラボレーションで制作した『教職員のためのセクシュアルマイノリティ・サポートブック(第3版)』なのですが、以前は、こちらの新設チームC企画のサイトから、PDFがダウンロードできたはずなのに、今、見たらできなくなってしまっていました…!(泣)

おそらく、『教職員のためのセクシュアルマイノリティ・サポートブック』(第4版)が発行されたためと思われますが、第4版は、第3版と比べて、内容がかなり固めになった印象で、はじめて紹介する人たちに向けてのテキストとしてはちょっと伝わりにくい印象があるので、これとは別に、第3版を復活させていただきたいです…。

教職員のためのセクシュアル・マイノリティサポートブック | 奈良教職員組合

今回、テキストの中からご紹介したポイントは、以下の4つです。

(1)「性(sexuality)」の4つの軸(身体の性、心の性、社会的な性、性的指向性
(2)「性」は、4軸のグラデュエーションのどこかの領域同士をつなぎあわせて見えてくる、無限に広がる多様なものであること
(3)「カミングアウト」と「アウティング」は異なること。「カミングアウト」を受けたからといって、自分がその知った情報をだれにも言ってよいということにはならないこと。
(4)学校において直面する困難や支援のポイント(テキストを参照)

このうち、もっとも大切なのは、(2)における「アウティング」の説明だったと思います。
特に、今回のセミナーでは、当事者が自分自身のライフヒストリーを語るシーンがありましたので、ここで聞いたライフヒストリーについての話を、第三者と共有する際にも、当事者の意思を尊重する必要がある、という話をしました。
たまたま、今回お呼びしたゲストの2人のうち1人は、他者との共有がOK、もうひとりはNGというスタンスでしたので、この話についてリアリティをもって聞いていただけたのは良かったと思っています。

なお、セミナーのタイトルに「LGBT」はついていましたが、「Lは…、Gは…」みたいな説明はしませんでした。ゲストとして来てもらった当事者を、これらのカテゴリーにあてはめて紹介することもしませんでした。
個人的に、「このかたは、Tです」とか「この人は、Gです」というかたちで、カテゴリー化して紹介することは、変な「代表性」「典型性」を付与してしまう気がして、気がすすまないのです。

あとは、ふたりのゲストが、自分自身のライフヒストリーの中で、もし「自分は、『T』です」というようなことをいうようであればそれはお任せしよう、と思っていました。
ひとりの方は、ライフヒストリーの一部(カミングアウトのエピソード)の中で触れていましたが、もうひとりのゲストは不明なままだったので、受講者の方の中には、モヤッとしたかたもいたかもしれないですね。

でも、それでいいんだと思います。
カテゴリー化して理解してもらいたいわけでは、ないですからね。
グループごとに質問&ディスカッションの時間にも、それとなく、「聞きたければ、聞いてくださいね」と言ってみたのですが、どなたからもそのような質問はありませんでした。

そのような、わたしの思いを汲んでくれたのか、最後のまとめの言葉のなかで、本企画の主催にかかわる理事の方から、「Lとか、Gとか、Bとか、Tではなく、性は多様であるということ。そのことについて理解を深めていく、記念すべきはじめの日であった」というような趣旨のコメントがあり、少し、救われたような気持ちになりました。

現在、オンライン上には、LGBTインクルーシブな社会をつくるためのさまざまなリソースが存在しています。
それをいかに用い、教育プログラムを作っていくのか。
当事者にリスクを負わせることなく、性の多用性についての理解を深められるような教育プログラムを創ることは、果たしてどの程度可能なのか。

これから考えていくべきことは、まだまだたくさんありそうです。

性とか愛とかのカテゴリーと、それに戸惑うわたしたち―『恋とボルバキア』

お題「最近見た映画」

本日、横浜にあるシネマジャック&ベティで公開中の、小野さやか監督『恋とボルバキア』を見てきました。

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映画『恋とボルバキア』公式サイト


恋とボルバキア 公開記念動画

この映画、昨年12/9から公開されているのですが、ドキュメンタリ―映画であることもあって公開されている映画館が少ない。今回(たった1週間とはいえ)シネマジャック&ベティで上映され、それを観ることができたのは本当にラッキーでした。

 

恋とボルバキア』には、「カラフルにトランスする恋とか愛とかのドキュメンタリー」というキャッチコピーが付けられているけれども、まさに、「カラフルにトランスする」とか「恋とか愛とか」としか言いようがないような…そんな、「何ものか」に括りきれない、わたしたちの性や恋や愛…そしてその遠くに見え隠れする家族のかたちを、ぎこちないままに見せてくれる映画だったと思いました。

 

2017年は映画レビュー記事の中でも、「2017年はLGBT映画が興隆」であることが話題になったり、日本でも、いわゆる「LGBT」「性的マイノリティ」が登場する映画をいくつも見た実感があります。
しかし、その一方で、いわゆる「LGBT」「性的マイノリティ」という言葉から零れ落ちてしまう生き方やアイデンティティ、関係性のありようから、かえって目がそらされていくような、そんな印象をありました。

政治的なカテゴリーとしての「LGBT」「性的マイノリティ」が着目されていく中で、その人自身の「こうありたい自分」の表現や権利の問題がクローズアップされている感じがあったのも事実だと思います。

 

もちろん、「こうありたい自分」を表現していくことも、自分が「こうありたい」と願うライフスタイルを実現するために権利を主張していくことは、とても重要なこと。

すべての人たちが、自分らしく生きていくためのエンパワーメントを、できるだけサポートしていきたい、とわたしも思う。

でもその一方で、「こうありたい」という願いばかりがクローズアップされたときに、その人をとりまく他の人たちとの関係性や、その人自身が他の人との関わりで変わっていくことのできる可能性を閉じてしまったりはしないのだろうか…という点が気にかかっていて、そのことが、自分のなかに、違和感として存在していました。

 

恋とボルバキア』は、そんな違和感をそのまま、掬い取ってくれた映画だったように思います。

 

本映画の監督である小野さやかさんは、『i-D』のインタビューに次のように答えています。

——トランスジェンダーは、性別規範・役割を押しつけられたり、男性あるいは女性としての身体的特徴に違和感を持ち、服装や生活に切り替えたり、身体レベルで性別を移行する人もいる。しかし、そういう在り方が受け入れられる土壌は、例えば(男性から女性に性別を移行する)トランス女性なら「ニューハーフ」として水商売・風俗の世界が主だったりしますよね。だからこそ、「プロパガンダ」のような空間では、見られる自分を消費される代わりに華やかな自分こそを見てほしい、という意識に傾きがちなのかなとも考えました。そのあたりの強い自意識はアイドルの在り方に通じるとおもいます。

まさにその通りだとおもいます。ですが、私が撮りたいと依頼した出演者のみんなは、他者への関心がちゃんとあった人たちなんですね。撮られることはもちろん、他人との関わりで化学反応が起きることを引き受ける気概が感じられた。本人たちとちゃんと話したわけじゃないんですけど、「こう見せたい自分」という自意識から一旦離れて、やりとりができる人たちでしたね。映画っていう枠の中で、こちらがこんなふうに撮りたいって言うと、もっとおもしろい代案が出てきたり。( 恋と性の振る舞い:『恋とボルバキア』 小野さやか監督インタビュー - i-D)(太字は引用者)

 

映画鑑賞後、この記事を読んで、「ああ、なるほど。そういうことだったのか」と、納得してしまいました。

このドキュメンタリ―映画に出てくる人たち―その人たちの生きる性や愛のスタイル、性や愛の問題との関わりかたは、実にさまざまだけれども―、あの人たちに共有していたのは、「他人との関わりで化学反応が起きることを引き受ける」ことができるという…そういうことだったのだな、と。

 

「愛」も「性」も、そして「家族」も、誰かとの関係なしには成り立たないし、そうであるとすれば、そこに、他人との関わりが生じないはずがない。

だけれども、「LGBT映画」といったときに登場する他者のありかたは、どこか固定されていて、極端な言い方をしてしまえば、「アライ」か「非-アライ」かの二分法でくくられてしまっているように見えるときすらある。

「当事者以外」(と括られてしまっている人たち)にできることは、「当事者」の要求や表現を「受け入れるか」「受け入れないか」のどちらかで、当事者はほとんど変わることがない。

もしかしたら、わたしが感じていた違和感は、その「変わらなさ」なのかもしれない…とあらためて思いました。

 

もちろん、マイノリティに対して、マジョリティが「お前が変われ」と要求することは暴力でしかない。でもだからといって、「変わらない」ことを要求するのも、同じように暴力なのだと思う。

私たち皆の中に「変わりたい」と思える部分、「変わりたくない」と思える部分が存在していて、そしてそれは私たちの生活や人生の流れのなかで、流動的に変わっていきつつあるものでもあって…そういうなかで、愛や性の問題が出てきたり、消えていったりする。

そんな、考えてみれば、私たちすべてにとって当たり前に存在しているような世界。そんな世界を『恋とボルバキア』はそのまま、提示してくれている。

 

この映画は、シネマジャック&ベティでも、たった3/30までしか上映せず、その後も(地方映画館ではいくつか上映が予定されているところもあるようだが)あまり観られるところは多くないようで、とても、もったいないと思う。

この映画、これからどうなっていくんだろう…。

もっともっとたくさんの人たちに観てもらいたいし、その観た人たちといろいろな話がしてみたい。…そんなことを思わせる映画だった。

反転する「イチゴの日」-筒井康隆×いとうのいぢ『ビアンカ・オーバースタディ』-

2016年5月に、筒井康隆×いとうのいぢビアンカ・オーバースタディ (角川文庫) 』が文庫版で発売されました。

www.matolabel.net

ビアンカ・オーバースタディ (角川文庫) 』といえば、『ファウスト Vol.7 (2008 SUMMER) (7) (講談社MOOK) (講談社 Mook) 』(2008年)に本小説が掲載された際、表紙に文学史上の“事件”が発生」という文字が踊るほどのインパクトを残した作品。 

 

2012年には、星海社から『ビアンカ・オーバースタディ (星海社FICTIONS) 』が発売され、発売1ヶ月を待たずに3刷を重ねる売れ行き(!)であったことがちょっとした話題になりました*1

matome.naver.jp

こんな話題のライトノベルですので、2013年に発売された『ライトノベル・スタディーズ 』にも「文学史上の“事件”ー筒井康隆『ビアンカ・オーバースタディ』」と題されたコラムも掲載されています(265-266頁)。

もちろんオンライン上でも、さまざまな書評やレビューをみることができ・・・、そのような意味ではまったく、今さら述べるところのないライトノベルなのですが、ここでは少し違った観点から、この作品についてレビューを書いてみたいと思います。

book.asahi.com

www.excite.co.jp

*1:もちろんもともと何部印刷してあったのか、という疑問は残ります。星海社ですし、もともと1刷でそれほど多くの部数を印刷したわけではないのではないでしょう・・・と推測。

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クィアなテクストをクィア読みして「ストレート」にする―谷川俊太郎「きみ」―

 昨年の夏頃、「児童文学におけるセクシュアル・マイノリティ」について考えたいと宣言し、その後、さまざまな方がたと、「児童文学における性(セクシュアリティ)」や「児童文学に登場するセクシュアル・マイノリティの描かれ方」についてお話する機会がありました。

 

kimilab.hateblo.jp

そのような時、ある方から、『はだか―谷川俊太郎詩集』(筑摩書房)に収録されている詩「きみ」をおすすめいただいたきました。

www.chikumashobo.co.jp

その方によると、どうやら思春期におけるホモホモしい気持ち(?)が描かれている詩であるとのこと。そしてそのことについて、谷川さんご詩人が『ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』の中で語られているとのことでした。

…それは、すごい!

 

というわけで、遅ればせながら『はだか』と『ぼくはこうやって詩を書いてきた』を取り寄せて、読んでみました。

 

谷川俊太郎きみ」は、中学・高校の合唱曲にもなっているようで、オンライン上で動画を見ることもできるようです。

こちらのNaverまとめでは、「きみ」の詩が紹介されるとともに、「歌詞がヤンデレすぎる」!と話題になっていました。

 

matome.naver.jp

たしかに、この詩を読んでみてはじめに感じたのは、「少年愛」の耽美的な世界観でした。

 

冒頭にある…

きみはぼくのとなりでねむっている

しゃつがめくれておへそがみえている

ねむっているのではなくてしんでるのだったら

どんなにうれしいだろ

 

…を読んだ時点で、ぐっと「少年愛」的世界*1に引き込まれるのはわたしだけではないはずだ!…と信じたい。

 

そしてラスト!

 

ふたりとももうしぬのだとおもった

しんだきみといつまでもいきようとおもった

きみととともだちになんかなりたくない

ぼくはただきみがすきなだけだ

 

…に至っては、もう圧巻すぎて言葉を失いました。ジルベール!!

 

*1:もちろんこの時点では(というかこの詩全体として)性別はわからないという読み方もできると思います。わたしは、冒頭の「きみ」「ぼく」だけで、少年同士の関係性を想起したということです。これについて谷川俊太郎さん自身が「だって『きみ』って、男の子のことでしょう。」(『ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』402頁)と言っているので、おそらくそんなに外れていなかったのだと思います。

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愛とは分け隔てること――趣向『The Game of Poliamory Life』

 KAAT(神奈川芸術劇場)で行われた、趣向『THE GAME OF POLIAMORY LIFE』を見てきました。www.kaat.jp

The Game of Polyamory Life

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「ポリアモリー(Poliamory)」とは、合意のうえで、複数の人々と誠実な愛の関係をもつ恋愛スタイルのこと。・・・いや、恋愛スタイルというよりも、より広くライフスタイルそのものであるといったほうが正確かもしれません。

ポリアモリー 複数の愛を生きる (平凡社新書)』の著者である、深海菊絵さんは、『日刊ゲンダイDIGITAL』のインタビュー記事のなかで、次のように説明しています。

 

「ポリアモリーとは、最もシンプルに言えば、『複数のパートナーと誠実に愛の関係を築くスタイル』です。ただし定義は人それぞれ。『合意の上で複数の人と性愛関係を築く』という人や、『結婚制度にとらわれず自分が愛する人の人数を決める』という人もいます」

 

「恋人や伴侶に嘘をついたり、隠すのはポリアモリーではありません。自分の交際状況をオープンにし、合意の上で築く人間関係です。『2人の彼女を誠実に愛 しているが、その状況を彼女たちに伝えていない』男性がいたら、それはポリアモリーではなく『彼なりに誠実な二股』です」

「複数の愛を生きる」深海菊絵氏 | 日刊ゲンダイDIGITAL)

 

おそらく、ここでポイントになるのは「合意」でしょう。

今回の公演に行く以前に、「ポリアモリー」について調べていたときに、わたしの中で引っかかっていたのが、まさに「合意」という言葉でした。もちろんあらゆる恋愛関係において、「合意」は必要なのかもしれないけれど、あまりに相手との「合意」的な関係を強調するあまり、恋愛にともなう(と、通常考えられている)感情的な機微があまり考慮されていないのではないか、と思えたのですね。

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LGBT・セクシュアルマイノリティ教育のための学習リソース集@神奈川

NPO法人Re:Bitによる公開講座「LGBTの自立/就労を応援するためにできること」@横浜))に参加してきました。

LGBTとは、「レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルトランスジェンダー」の頭文字をとった総称で、一般的には、セクシュアルマイノリティを包括的に示す言葉として使われることの多い言葉です(定義はこちら

rebitlgbt.org

この公開講座は、今年度3回シリーズで開催される予定で、今回はその2回目。1回目は先週、「LGBTってなんだろう?」というテーマで開催されたということでした。さらに、その数日前には、同じ会場で、LGBTの若者を対象にした「10~20代のジョブトーク!」@横浜も開催されていたようで・・・、「横浜レインボーフェスタ」といい、なんだかすごいぞ、横浜!というかんじがします。

 

事実、横浜市は今年から、LGBTへの支援を充実させるべくさまざまな事業を展開しているようです。神奈川新聞のこちらの記事では、横浜市が今年11月からLGBT支援を充実させるためにはじめた2つの事業(交流スペース事業、相談事業)が紹介されています。

www.kanaloco.jp

 

さて、本日の公開講座では、「LGBTの自立/就労を応援するためにできること」というタイトルで、Re:Bit代用理事でもあり、認定キャリアカウンセラーでもある薬師実芳さん自身が、LGBT当事者のキャリアサポートをするなかで出会った、LGBTの自立/就労上の困難についてもお話がありました。

 

その中で、学齢期の児童・生徒たちの問題として挙げられていたのが、「働くおとな」としてのロールモデルの不在。社会のなかではたらくLGBT当事者のイメージがないため、うまくキャリア形成をしていけない・・・という問題があるようです。

 

今年の6月に朝日新聞のウェブ記事で紹介されていた、LGBTカップルの「かぞく」の動画は、LGBTの「おとな」「かぞく」として生きることの具体的な姿をわたしたちに見せてくれました。

www.asahi.com

これと同じように、LGBTとして「はたらく大人」の姿をつたえることが、LGBTに関する教育を、キャリア教育の視点から考えていくための第1歩として、必要なことなのかもしれません。

では、学齢期の子どもたちに「働くおとな」としてのロールモデルを持ってもらうには、どうすれば良いのでしょうか?

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