kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

LGBT・セクシュアルマイノリティ教育のための学習リソース集@神奈川

NPO法人Re:Bitによる公開講座「LGBTの自立/就労を応援するためにできること」@横浜))に参加してきました。

LGBTとは、「レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルトランスジェンダー」の頭文字をとった総称で、一般的には、セクシュアルマイノリティを包括的に示す言葉として使われることの多い言葉です(定義はこちら

rebitlgbt.org

この公開講座は、今年度3回シリーズで開催される予定で、今回はその2回目。1回目は先週、「LGBTってなんだろう?」というテーマで開催されたということでした。さらに、その数日前には、同じ会場で、LGBTの若者を対象にした「10~20代のジョブトーク!」@横浜も開催されていたようで・・・、「横浜レインボーフェスタ」といい、なんだかすごいぞ、横浜!というかんじがします。

 

事実、横浜市は今年から、LGBTへの支援を充実させるべくさまざまな事業を展開しているようです。神奈川新聞のこちらの記事では、横浜市が今年11月からLGBT支援を充実させるためにはじめた2つの事業(交流スペース事業、相談事業)が紹介されています。

www.kanaloco.jp

 

さて、本日の公開講座では、「LGBTの自立/就労を応援するためにできること」というタイトルで、Re:Bit代用理事でもあり、認定キャリアカウンセラーでもある薬師実芳さん自身が、LGBT当事者のキャリアサポートをするなかで出会った、LGBTの自立/就労上の困難についてもお話がありました。

 

その中で、学齢期の児童・生徒たちの問題として挙げられていたのが、「働くおとな」としてのロールモデルの不在。社会のなかではたらくLGBT当事者のイメージがないため、うまくキャリア形成をしていけない・・・という問題があるようです。

 

今年の6月に朝日新聞のウェブ記事で紹介されていた、LGBTカップルの「かぞく」の動画は、LGBTの「おとな」「かぞく」として生きることの具体的な姿をわたしたちに見せてくれました。

www.asahi.com

これと同じように、LGBTとして「はたらく大人」の姿をつたえることが、LGBTに関する教育を、キャリア教育の視点から考えていくための第1歩として、必要なことなのかもしれません。

では、学齢期の子どもたちに「働くおとな」としてのロールモデルを持ってもらうには、どうすれば良いのでしょうか?

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学校だからできること/学校だからできないこと――横浜レインボーフェスタ2015「大学生ディスカッション」

前回の記事に引き続き、「横浜レインボーフェスタ LGBT2015」についてのレポートです。

(イベント全体の様子については、ハフィントンポストに掲載されていたこちらの記事などをご覧ください。)

 

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「横浜レインボーフェスタ」では、1日目と2日目に、大学のセクシュアルマイノリティー・サークルによる「大学生ディスカッション」が行われていました。

2日目の「大学生ディスカッション」については、毎日新聞にもとりあげられていて、どのような話題でディスカッションが行われたのかを知ることができます。

また、当日参加されていた文教大学セクシャルマイノリティサークル「のとまる」さんが、ご自身の活動ブログで記事もアップされています。

 

★毎日新聞- LGBTフェス:大学生がセクシャルマイノリティーの現状を討論 横浜

ameblo.jp

 

あまりご存じない方も多いかもしれませんが、現在、北海道から沖縄まで、日本各地の大学にセクシュアルマイノリティの当事者やその理解者・支援者(アライアンス)の学生たちが参加する公式・非公式のサークル・学生団体が存在しています。

matome.naver.jp

 

わたしが在籍していた大学にも、在学時すでに「サークルQ」というセクシュアルマイノリティ・サークルがありましたが、あらためて調べてみたら、さらにサークルが増えていました。

毎日新聞の記事では、中央大学「mimosa」のハルキさんが「すべてのメンバーの需要に応えるのは難しいのが正直なところ。最近は、各大学にセクマイサークルが二つあることも珍しくなくて、当事者だけのサークルと、LGBTを知ってもらうための発信系のサークルが二つあることがよくある」とコメントされています。

おそらく、そういう理由で、サークルが増えたのかもしれないですね。

セクシュアルマイノリティ」「LGBT」と一口でいっても、それは、「男/女という二分法的なジェンダー観+異性愛」を違和感なく受け入れている人たち以外をざっくりまとめて呼ぶための、かなり乱暴なカテゴリーに過ぎないわけです。

先日、ハフィントンポストで「『ズッキーニ』って何?LGBTだけじゃない12の性的志向まとめてみました。」という記事がアップされていましたが、このように示されると、「セクシュアルマイノリティ」とそうでない人びとの間にある、ゆるやかなセクシュアリティのグラデュエーションが見えてくるような気がします。

そのグラデュエーションの間のどこかに位置づく人たちが、「セクシュアルマイノリティ」と呼ばれているだけに過ぎないのですよね。

www.huffingtonpost.jp

 

また、自身のジェンダーセクシュアリティをオープンにしたい度合いも多様でしょうから、そもそも、セクシュアルマイノリティであるだけで、ひとつのサークルに入らざるを得ないということ自体、無理があるのでしょう。

それぞれのニーズや目的にあわせて、セクシュアルマイノリティ・サークルが分化したり、新たに作られていった結果、大学に複数セクシュアルマイノリティ・サークルが存在している現状は、とても自然なことだと思います。

 

2日目は、ディスカッションのテーマが「大学生のセクシャルマイノリティー、アライ(支援者)ができること」であったこともあり、このようなサークルの多様性と多様なニーズへの配慮、地域との連携のありかたなどが話し合われたようでした。

 

このように2日目のディスカッションについては、新聞記事などですでにレポートがアップされているので、こちらの記事では、1日目の「大学生ディスカッション」についてご紹介したいと思います。

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「アライ系腐女子」の生きる道――横浜レインボーフェスタLGBT2015――

「横浜レインボーフェスタ LGBT2015」に参加してきました。

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【画像】横浜レインボーフェスタLGBT 2015 最速レポート - Letibee Life

【画像】横浜レインボーフェスタLGBT 2015 2日目 最速レポート - Letibee Life

 

実は、わたくし、「東京国際ゲイ&レズビアン映画祭」には何度か行ったことがあるものの、映画祭以外のLGBT系イベントに参加するのは、初めて。

 

映画祭だけに参加してきた理由は、とっても簡単!

「東京国際ゲイ&レズビアン映画祭」は、けっこう腐女子(&腐男子)フレンドリーであることを積極的に打ち出してくださっているのです。すでに10年前には公募プログラムの中で、自称・腐女子でもある渡辺直美監督による、腐女子たちの青春ストーリー『青春801あり!』を上映してくださっています

また、昨年3月には、スタッフブログの中にこんな記事も掲載してくださっていたりして、「やおい・BLは単なるファンタジーとはいえ、ゲイの皆さまへの暴力・搾取でることは重々承知しております。でも(ファンタジーとはいえ)好きだからこそ、なにかお役に立ちたいとは思ってるんです!本当です!でも、ごめんなさい!」と日々申し訳ない気持ちでいっぱいになっている、わたしのような「ごめんなさい」系腐女子の皆さんには、とてもとてもありがたい存在なのです。

「BL班」まで作ってくださるなんて・・・もはや、腐女子側としても「それでいいんですか?」と言いたくなります。映画祭のスタッフの皆さん、本当にありがとうございます。

tilgff.seesaa.net

 

一方、こちらの記事にも書かれているとおり、「BL目線の「萌え」目当てだと、失礼なんじゃないか?」という気ちは常に持っておりますので、単に映画を鑑賞するだけの映画祭はともかく、セクシュアル・マイノリティ当事者の皆さんが集まって、自分の友達・仲間を見つけたり、自分たちの生活の今後のために活動をしたりする場に参加するのは、(いくら動機そのものは、「応援・サポートするためにもっと知りたい」という気持ちであっても)よくないんじゃないか、そもそもノンケが行くのは場違いなんじゃないか・・・、と思っていたのでした。

 

そんなこんなで二の足を踏むこと、はや10年。

偶然4月から移住してきた横浜で、初のLGBTイベントが開催されるということもあり、また、一緒に行こうと声をかけてくださった方もいたので、不安な心を持ちながらも参加してみたわけですが・・・・・・なんか、わたしの不安はまったく不要だったようです。

 

まず、「ノンケが行くのは場違いなのでは?」という心配は、まったく不要だったことに、すぐ気づきました。

会場の公式グッズには、自分自身がLGBT当事者であることを示す缶バッジやシールだけでなく、自分自身がLGBTフレンドリーであること、すなわち、「アライ」(=アライアンスalliance)であることを示すグッズも並列して売られていたのです。
LGBT当事者でなくても、「アライ」としてその場に参加することができる。そういうメッセージがそこには存在しているのだなぁ、と思いました。

★NHKオンライン | 虹色 - LGBT特設サイト | 連載 | 今月のアライさん

 

そして、「LGBT当事者として悩んでいるわけでもないのに・・・」という不安も不要だったようです。考えてみれば当たり前のことかもしれませんが、セクシュアル・マイノリティ当事者の皆さんも含めて、みんな、「人生に悩んでいて・・・」とか「LGBTが差別される社会を変えるために・・・」とか、そんな真面目な動機を全面に押し出して参加しているわけではありませんでした。

もちろんそういう思いをもって参加されている方もいるのだろうし、ただ楽しみに来ている人たちも多かれ少なかれ、みんなどこかにそういう気持ちはあって来ているのだと思います。

が、その場の雰囲気だけからいうと、けっこうみんな、「萌え」的欲望まるだし(?)で、自分が楽しみたいから来てます!という感じだし、実際、すごく楽しそうです。

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あなたがペニスをナイフにするのなら・・・――近藤史絵『あなに贈る×(キス)』

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児童文学におけるセクシュアル・マイノリティを探るプロジェクト第5弾として、近藤史絵さんの『あなたに贈るキス (ミステリーYA!) 』を読みました。この作品は現在、新装版も発行されていて、そちらでは本作品の主人公のその後についての短編も読めるらしいので、今度はそちらも読んでみたいと思っています。

 

 

 

感染から数週間で確実に死に至る、その驚異的なウイルスの感染ルートはただひとつ、唇を合わせること。昔は愛情を示すとされたその行為は禁じられ、封印さ れたはずだった。外界から隔絶され、純潔を尊ぶ全寮制の学園、リセ・アルピュス。一人の女生徒の死をきっかけに、不穏な噂がささやかれはじめる。彼女の死 は、あの病によるものらしい、と。学園は静かな衝撃に包まれた。不安と疑いが増殖する中、風変わりな犯人探しが始まった…。(あらすじ―「BOOK」データベースより)

 

読者コメントを読むと、「感染から数週間で確実に死に至る、その驚異的なウイルスの感染ルートはただひとつ、唇を合わせること」という設定が受け入れがたく、読み進めるのに困難を感じる方がいらっしゃるようです。が、わたしにはなぜか、その設定がすんなり受け入れられてしまって、その設定から派生されるように生じるそのほかの近未来SF的な設定――セックスよりもキスのほうが淫らな行為であるとされていることとか、同性愛は自然な愛の結果としてありえるけれどキスはありえないと主人公が感じることとかー―も、すべて、「キスが感染ルートとして特定されたあとの世界なのだから、そうなるよね」と、これまたすんなり受け入れられてしまいました。

 

HIVの感染ルートとして同性による性行為がターゲットとされたあとに生じた、同性愛者への偏見・差別などを考えれば、それほど飛躍した想像ではないと思うのですが、そもそもの前提が受け入れられないと、やはりここにもハードルを感じてしまうのでしょうか。

 

本作品は、近未来SF的な世界を舞台にしたミステリー小説です。

あなたに贈る×(キス) (PHP文芸文庫)』の帯に、「真相に辿りついた時、それまでの景色が反転する。」とありますが、まさにそのとおりなので、ネタバレになるような発言は自戒したいと思います。

が、それでも避けられないところはあると思うので、以下は、本書をお読みになってから読み進めることをおすすめします。

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一人称代名詞という主戦場――スーザン・クークリン『カラフルなぼくら』

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私を呼ぶときの代名詞には、本当は〈彼ら〉を使ってもらいたいんだ。男と女の両方が自分の中にいると思うから。でもそれを理解できる人はほとんどいないので〈彼〉でいいよ。長い間ずっと〈彼女〉だったから、そろそろ交代してもいい時期だ。女子でいるのは好きじゃない。彼女とはお別れだ。しっくりこなかったしね。

―――ナット(「ナット 第三の性」『カラフルなぼくら』p.220)

 

2015年のラムダ賞(LGBT文学に与えられる賞)児童・YA文学部門に入賞しているノンフィクション『カラフルなぼくら: 6人のティーンが語る、LGBTの心と体の遍歴 (一般書) 』を読みました。

2015年にラムダ賞を受賞したばかりのLGBT児童文学作品が、すでに邦訳で読めるってすごいことだな、と思います。
はじめは、ノンフィクションあるいは、リアリスティック・ファンタジーのようなかたちで、リアルなセクシュアル・マイノリティを描く児童文学・YA文学に関心があったのですが、この本はそれ以上のパワーがありました。

セクシュアル・マイノリティに対してそれほど理解が進んでいるわけでもない日本で、こんなに即座に邦訳が出ているのもうなづけます。それほど、人間としてとても普遍的なテーマに迫っている作品だと思いました。

たとえば、「著者あとがき」には、次のように書かれています。

 

『カラフルなぼくら』の基本構想は、文章と写真を組み合わせて、セックスと疎外感をテーマにしたナラティブ・ノンフィクションを作ることだった。このふたつの普遍的テーマは、生活、文学、美術などの分野において常に深く結びついている。私が目指したのは、性的傾向の基本的特徴を探ることで、特に、若者が自分のセクシュアリティジェンダーを認識しはじめる決定的時期に興味があった。つまり本書は、自分が女であることに気づいた少年と、自分が男であることに気づいた少女についての本になる予定だったのである。しかし、調べを進めていくうちに、この計画が次第に形を変えていった。(「著者あとがき」『カラフルなぼくら』p.289)

 

「調べを進めていくうちに、この計画が次第に形を変えていった」とはあるけれど、著者の普遍的な問題へのまなざしは、この本をまっすぐに貫いています。

だからこそ、私たちは、たとえ自分自身がセクシュアル・マイノリティでなくとも、また自分自身のジェンダーアイデンティティセクシュアリティに迷ったり悩んだりした経験がなくとも、本書で紹介される6人の声に、どこか共感するところを見いだすことができるのだと思います。

とはいえ、この本のタイトルだけを見て、「セクシュアル・マイノリティのことだから自分には関係ない」と思って通り過ぎる人は多いでしょう。それはとても残念なこと。だから、このことはいくら強調しても、強調しすぎることはないと思います。

 

この本は、セクシュアル・マイノリティの本ではない。

なんらかのジェンダーアイデンティティをもち、なんらかのセクシュアリティをもつ、あなたのことが描かれた本です。

 

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生物のユートピア――遠野りりこ『マンゴスチンの恋人』

「児童文学におけるセクシュアルマイノリティについて考える」ための読書プロジェクトの一環として、遠野りりこ『マンゴスチンの恋人』を読みました。

www.shogakukan.co.jp

 

左から、単行本版、文庫版、マンガ版になります。

 

表だって「ヤングアダルト」を掲げているわけでもないのですが、小学館文庫小説賞を受賞して、マンガ化もしているというあたり、実際の中高生の読書環境にかなり近いところにある本なのではないか、と思ったからです。

ヤングアダルト文学とライトノベルの境界に関心があったこともあり、ライトノベル的でもあり、YA文学的でもあるような、セクシュアル・マイノリティ文学が読んでみたいと思い、この本を手にとってみました。

ちなみに私が読んだのは、文庫版です。

 

これまで、如月かずささんのYA文学を読んで感想を綴ってまいりましたが、セクシュアル・マイノリティが登場する如月かずささんの2作品と、今回読んだこの作品、かなりタイトルの付け方が似ていると思います。

並べてみましょう。

 

『カエルの歌姫』(如月かずさ)

『シンデレラウミウシの彼女』(如月かずさ)

マンゴスチンの彼女』(遠野りりこ『マンゴスチンの彼女』所収)

『テンナンショウの告白』(同上)

『ブラックサレナの守人』(同上)

ヒガンバナの記憶』(同上)

 

すべて「生物(動物あるいは植物・カタカナ表記)」+「二字熟語」なんです!

 

なんだかうまくプログラムを組めば、タイトル・ジェネレーターが作れてしまいそうです。

もちろん、たった2人の作家の作品を読んだだけなので、セクシュアル・マイノリティが登場する日本のすべての児童文学が(あるいは、ほとんどの児童文学が)、人間以外のなんらかの生物にその理想を象徴させる傾向にあると言えるわけではありません。

ただ、日本で現在発行されている児童文学のなかで、物語のなかにセクシュアル・マイノリティが登場する作品のひとつの流れに、このような傾向を認めることはできるのではないか、と考えました。

 

ヒガンバナの記憶』で主人公として登場するレズビアンの生物教師は、物語のなかで、このような言葉を生徒たちに投げかけます。

 

「動物だけじゃなく植物にも色々な性別のあり方があります。大きくはチューリップや桜のように、ひとつの花にオシベとメシベを持つ両性花と、どちらか一方のみを持つ単性花に分かれる。銀杏に雄の木と雌の木があるのはよく知られているわね。銀杏のようにメシベだけを持つ雌花とオシベだけを持つ雄花が別の個体につくものを雌雄異株と言う。同じ個体に雌花と雄花が付くものは雌雄同株と言って、柿やスイカがそう。高山植物クロユリは雄花と両生花が咲く。群生したクロユリは一見同じ姿をしているけれどひとつひとつよく見ると、花弁の中が違っているものを見つけられる。あとマンゴスチンって東南アジアのフルーツがあるでしょう。あれは花粉を持たない花を咲かせて実を付ける。単為生殖と言って雌だけで繁殖できるの。また、サイトモ科のテンナンショウ属は栄養状態によって性転換するの。若くて小さいうちは雄で、ある程度の大きさになると雌になる。このように自然界の性は本来多様であって、それは人間だって同じ。とは言っても、人間は単為生殖できないけど」(文庫版p.133。『テンナンショウの告白』より)

 

マンゴスチンの恋人』に所収される4つの短編では、「自然界の性は本来多様であって、それは人間だって同じ」という理屈が、さまざまな意味でセクシュアル・マイノリティであることに悩む主人公たちを支えています。

その構図はとてもシンプルだけど、とても美しい。

この作品が評価をうけるのは、そのシンプルな美しさなのだと、思います。

 

如月かずささんの作品『シンデレラウミウシの彼女』と『カエルの歌姫』において、セクシュアル・マイノリティであることに悩みはじめた主人公たちは、「自然界の性の多様性」を知るのですが、あくまでそれは、自分たちでは到達できない「理想」として描かれます。だからこそ、『シンデレラウミウシの彼女』では、神様のマジカルパワーでその不可能性が超えられてしまう。『カエルの歌姫』では、到達できない「理想」であることを認めつつ、「現実」と「理想」のあいだで、主人公が自分のあるべき姿を模索していくという意味で、一歩進んでいるといえます。

 

一方、『マンゴスチンの恋人』では、「自然界の性の多様性」は「理想」ではなく、みんなが知らないだけで本当はある「現実」として描かれ、そこから物語がスタートします。

そのような意味で、同じような構造をもつタイトルを持ちつつ、2人の作家の描くセクシュアル・マイノリティの世界は異なる方向性を持っているように見えます。

 

しかし、そのような違いが存在するもののやはり、なんらかの「生物(動物あるいは植物)」が<いま・ここ>には実現されていないなにか、として描かれ、その「生物」との関係性のなかで、主人公自身や主人公をとりまく関係性が変化していく・・・という点では共通している。

この共通性のなかに、日本の児童文学におけるセクシュアル・マイノリティの位置づけが見えてくるような気がします。

 

これについては、現在読んでいる、LGBTの若者をとりあげた米国のノンフィクション『カラフルなぼくら: 6人のティーンが語る、LGBTの心と体の遍歴 (一般書)』を読んでから考えてみたいと思います。

「悪書」とされる児童書

本日、ニュージーランドで児童文学賞を受賞した作品が、発禁処分を受けたというニュースが報道されていました。

www.afpbb.com

 

問題となった作品は、先住民マオリの少年を描いたもので、少年は奨学金を得て名門寄宿学校に入学するものの、人種差別や薬物問題の中で苦闘するという物語だそうです。

問題となったのは、この物語のなかにいじめやセックスの描写が含まれていることだそうで、保守派のロビー団体が同作品のなかのこれらの描写に抗議し、発禁という流れになった模様。

以前、このブログの記事にも書きましたが、児童文学において性(セックス)はタブーとされていて、ここでもそれがひとつの問題になっていたことがわかります。

 

さて、この問題に興味をもち、「悪書」として発禁にされたり公共図書館などから児童書が撤去されたりするニュースについて調べていたところ、昨年の7月にシンガポールの国立図書館が、同性愛を題材にしたことを理由に3冊の児童書について破棄処分を決定していたことを知りました。

www.afpbb.com

その後、この処分に対して抗議活動が行われ、最終的には、「児童から一般の書架に移され、親が子どものために借りることは可能になった」そうなのですが、このような問題がいまだに(1年前です!)生じていたということに驚かされます。

 

シンガポール国立図書館が「破棄処分」を下そうとした児童書3冊のなかのうち1冊は、『タンタンタンゴはパパふたり』は、ニューヨークの動物園であった実話をもとにした絵本で、ペンギンの同性愛カップルに育てられたペンギン・タンゴのお話です。

 

 

実話にもとづいた動物絵本で、もちろん過激な性描写があるわけでもありません。それでも、この本が「破棄処分」にされかかり、最終的な判断としても「児童書コーナーには置けない(=子どもが自由に手にとれない)」とされているわけです。

しかしこれは、シンガポールだから特に問題になったというわけではなく、『タンタンタンゴはパパふたり』の原作本は、2006年から2010年まで、毎年9月下旬に米国で開催されている「禁書週間(Banned Books Week)」の際に発表される、前年度に撤去要請が多かった本ベスト10の常連さんだった・・・どころかトップ独走状態だったようです。

www.nypl.org

 

昨年度の「禁書週間」で発表された、“撤去要請の多かった本”ベスト10には、さすがにランクインしていませんが、それでもまだまだ「同性愛」を理由に撤去要請のあった本がランクインしている状況のようです。

セクシュアル・マイノリティをあつかった児童文学としてはかなり先進的であり、LGBTをあつかった文学賞「ラムダ賞」まである米国ですら、このような状況ですから、この問題の根深さを感じてしまいます。

 

なお、今年(2015年)のラムダ賞・「LGBT Children’s/Young Adult(LGBT児童文学/ヤングアダルト)部門」の受賞作品のなかには、すでに邦訳されている文献もある模様なので、さっそく入手して読んでみようと思います。