読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「美術館のアート・ビオトープ」

ついに、水戸芸術館現代美術センターで行った「アートライティング」企画の記録集『アートライティング』ができあがりました。
思い起こせば、この企画が始動したのは昨年の7月。
あっという間にもう1年近くの月日が経過したことになります。

わたしはこの記録集の「あとがき」を執筆させていただきました。
この「あとがき」に書いた文章は、わたしにとってかなり重い意味を持つものです。正直、こんな内容を書いても大丈夫だろうかと何度も悩みました。企画全体のテイストからはずれてしまうのではないか、と。それでも、もしかしたらここで書かなければわたしは一生このことを書けないまま終わってしまうのかもしれない・・・と思い立って、この文章を書くに至りました。

美術館のアートビオトープ

「アート・ビオトープ」(Art Biotope)。
わたしがこれまで水戸芸術館現代美術ギャラリーのさまざまな教育プログラムに調査者として関わりながら考えてきたことをあらためて振り返ってみると、この言葉に思い当たる。「アート・ビオトープ」とは、水越伸『メディア・ビオトープ』(紀伊国屋書店)を受けて作り出した造語である。「ビオトープ」(ドイツ語でbiotop、英語でbiotope)とは、「いのち」をあらわすバイオ(bio)と「場」をあらわすギリシア語・トポス(topos)の合成語で、生物たちが自然界の中に見出した、自分たちが生きるための小さな場所を意味している。「メディア・ビオトープ」は、この「ビオトープ」の考え方をわたしたちが日々生きているメディア社会に応用したものだ。つまり、ガチガチに硬直化してわたしたちの入る余地がないようなメディア社会に、わたしたちが生きる場所を作り出す営み。それが「メディア・ビオトープ」である。「アート・ビオトープ」は、この言葉をさらに応用した言葉である。つまり、作品の「正しい意味」とか、「正しい見方」とか、知識とか教養とか、そんなものでガチガチに硬まってしまったアートや美術の世界の中でわたしたちが自分らしいありかたで自分たちなりに生きる場所を見出そうとする営み。それが「アート・ビオトープ」である。
書くということはどのようなことなのか。この問いに対する答えのひとつに、「書くということは対話の場をつくり出すことだ」、というものがある。自分に向けて書くということは、自分と対話しながら自分を探求するための場をつくり出すこと、誰かに向けて書くということはその誰かとの対話の場をつくり出すこと。わたしたちは書くことによって、これから自分や他の誰かと対話していくための場をつくりだしている。
「アートライティング」とは、アートを書くこと。そして、書くこととは、自分や誰かとの対話のための場をつくりだしていくこと。だとすれば、「アートライティング」とは、アートに出会った自分や他の誰かとの間に共有された対話のための場をつくりだすことだ。そして、さまざまな人たちがアートについて書くということは、さまざまな人たちがアートや美術の世界の中に、自分たちのための場をつくりだすことにつながる。このようにして、アートや美術の世界の中に、小さな「アート・ビオトープ」がつくりだされていく。
今回、報告した三つのプログラムは、小さいけれども確かな「アート・ビオトープ」の芽を生み出した。この小さな芽がこれから大きく育まれていることを祈りたい。

「アート・ビオトープ」という言葉は、
それ自体曖昧な「メディア・ビオトープ」という概念に、さらに曖昧な「アート」という言葉を重ねているので、
研究上はほとんど意味を持たない言葉です。

しかし、
もし、その言葉が、わたしがこれまで関わってきた中で考えてきたことを、その質感を損なわぬままに表す言葉であるとしたら、
それは、もしかしたら、ある一定の強度をもって、新しい活動(それがどんなに小さなものであろうとも)を開く原動力になるかもしれない。
そう思って、この言葉をそのまま使って、「あとがき」を書きました。

事実を明らかにしていくためには厳密に定義された概念と論理的な緻密さが必要ですが、それは誰もが知っている事実を「普遍的なもの」として提示するだけで、新しい活動を開く原動力にはなりません。

人間が新しい活動を開くために必要とするのは、「物語」であり「メタファー」であるとわたしは信じています。
「アート・ビオトープ」というメタファー、
そのメタファーから紡ぎ出される物語が、新しい活動を開いてくれるであろうことをわたしは期待したいと思います。

水戸芸術館というフィールドに関わりつづけた、ひとりの研究者として。