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kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「読書離れ」の元凶

現在、とある学会の編集委員会より依頼されて、「読書教育の新しい試み」という小論を書いている。
これまでは、なんとなく、
「読書教育」について語ることができるのは教育実践歴ウン十年の教師や実践家か、読書教育について研究してきた歴ウン十年の教育学者・・・というイメージがあったので、
まだ20代の駆け出しの研究者であるワタクシ、
しかもその学会では、基本的には「オタク文化」「腐女子文化」の研究者として位置づけられつつあるわたくしなんかに、そんな依頼論文を書かせるのは、
まったくもって、勇気ある決断だと思う。

しかも「読書教育の新しい試み」という主題に付された副題は、
「オタク文化論的視点から」。

依頼文書を見た瞬間に、
「オタク文化論的視点から言えば、『読書教育なんてイラネーヨ!』・・・って結論になっちゃうなぁ。どうしよう・・・?」と、戸惑ってしまった。


本好きな人は、たいてい、「読書教育なんてイラネーヨ」と答える。
だって、放っておいても好きになるから。
で、わたしが知っている腐女子たち、オタクたちも、まあたいてい本は好きで、「読書教育なんてイラネーヨ」と思っている。
当たり前だ。
わたしだって、実はそう思ってるのだけど、一方の人間が、「読書教育イラネー!」と言い続け、一方の人間が、「読書教育マンセーマンセー!」と暴走しててもしかたないから、なんとか、そのつなぎ役が果たせないかな、と考えているのである。

そんなわけで、最近は、「読書教育イラネー!」と言い続ける本好きの人たちと、「読書教育マンセー!」の本好きの人たちの間にある断絶はなんなのかをずっと考えている。


そんなとき、この記事を見て、あらためて気づかされたことがある。

「国民読書年 本の魅力を伝えていこう」(読売新聞)
・・・(中略)
文字・活字文化は、心豊かな社会の実現に欠かせない。
05年には文字・活字文化振興法が制定され、図書館の整備事業などが進められてきた。
民間団体の「文字・活字文化推進機構」も設立され、啓発活動に取り組んできた。この夏休みには琵琶湖で船上の子ども読書キャンプなどが開催される。
「国民読書年」を通じ、こうした読書普及活動を官民でさらに推進していくことが望まれる。


これはもちろん、「読書教育マンセー」側の主張である。
この中にある、「文字・活字文化は心豊かな社会の実現に欠かせない」という言説。
これこそが、子どもたち、若者たちの「読書離れ」を進行させているのではないだろうか。

この言説こそ、
「読書教育イラネーヨ!」という本好きと、「読書教育マンセー!」という本好きの断絶を作りだし、それによって、本を知らない子どもたち・若者たちを、本から遠ざける原因になっているのではないだろうか。

人間は、社会的な存在であり、常に自らのアイデンティティを他者にどう提示するかを考えつづけ、巧妙な戦略を行っている。

そのアイデンティティ戦略の中で、微妙な位置にあるのが、いわゆる「良い子ちゃん」というアイデンティティである。
親や先生の言うことをよく聞き、従順で素直な「良い子ちゃん」というアイデンティティは、確かに、小学校3年生くらいまでは高い価値を持っているのだが、
価値観の基準が、親や先生から友達へうつる小学校中学年以降、「良い子ちゃん」はマイナスのイメージを付与されていく。
つまり、「スクエアでつまらない」人間というレッテルへと変化していくのである。

そして、この小学校中学年以降というのが、読書教育においてまさに重要な時期なのである。
この時期までは、低学年まではまだ読み聞かせを楽しめる。
本との関わりに大人が介在できる。
大人の側が読書を推進してくれるし、読書の楽しみを支援してくれる。
その大人との関わりによって形成されてきた読書の楽しみを、自分自身の一人の楽しみとして移行できるかどうかが、要なのである。

しかしこの重要な時期に、読書教育の推進家たちは、「読書はすばらしいことですよ」「本を読むことは良いことですよ」というメッセージを発し続ける。
(それはたぶん、「読書離れ」を進行させないための戦略として)
親も先生も、政治家たちも、こぞって、「本を読む子は、『良い子』です」と声高にうたいあげる。

このとき、親や教師を基準とした価値観から、友達を基準とした価値観へと移行した子どもたちは、友達を基準とした価値観へ移行したことを表明するために、親や教師による価値観の押しつけを徹底的に拒否することがある。
そしてそれは青年期に入って加速する。
「第二次反抗期」の思春期に入れば、「本を読む子は『良い子』です」と言えば言うほど、読書から青年たちは離れていくに違いない。
だって、アタシ、「良い子」なんかじゃないし、「良い子」になんかなりたくないもの。

こんな大人側の価値観による読書礼賛の嵐の中で、
それでも、
「アタシはアタシなりの価値観で、本を読んでるのよ。アイツらの言ってることとはまったく違う理屈で本を読んでるのよ」
・・・と言えるほど、高等な(?)理屈をもった10代前半の少年・少女(ある意味、「中2病」ですが(笑))は、なかなかいない。


たいていの子は、「スクエアでつまらない」というレッテルから離れるために、とりあえず本から離れておく。
その代わりに、仲間内で、高いアイデンティティを獲得できる「外見」と「スポーツ」に自分の経済的・時間的資源を費やしていく。
女の子たちは、こぞってファッション誌を購入しはじめ、
男の子たちは体育系の部活動にあけくれる。

残っているのは、「オタク系」というレッテルを貼られつつ、それでも、「それが何か?」と返すことのできる人々である。
彼ら/彼女らは、実際、本を読み続けるし、密やかな楽しみとして読書の楽しみを享受しつづける。

そんな彼ら/彼女らにとってみれば、「本を読む子は『良い子』です」というメッセージを発し続けるような読書教育なんて、「イラネー」ものに違いない。
だって、そのメッセージは、自分たちの楽しみを支援するどころか、
周囲からの差別的なまなざしを作りだし、自分たちを傷つけてきた元凶に過ぎないのだから。

おそらく、わたしが今後、「読書教育」の分野で言っていけることは、
こんなことなのだろうと思う。
わたしは本を読むことが好きだし、もっと本は読まれて良いとおもうけど、
「読書教育」というありかたが、良いのかどうかは、ハッキリ言ってわからない。

願わくは、朝読書の時間に「ケータイ小説」の文庫版を読む少女たちのように、「読書教育」の嵐の中で自分たちなりの楽しみを生き残らせるための戦略を子どもたち・若者たち自身が開発してくれたらいいのに。