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介護現場の混沌:阿部真大『働きすぎる若者たち―「自分探し」の果てに―』

阿部真大『搾取される若者たち−バイク便ライダーは見た!』(集英社新書)を、良質なエスノグラフィとして高く評価していたので、『働きすぎる若者たち―「自分探し」の果てに―』(生活人新書)を読んでみた。

実をいうと、前作『搾取される若者たち』の第一章で、「バイク便ライダーの仲間たち」として、「トラック運転手」「ケア・ワーカー」「システム・エンジニア」が挙げられていたときから、著者である阿部氏が「ケア・ワーカー」にどう切り込むのか、と大きな不安と期待を持っていたのである。

「不安」と「期待」・・・という言い方をしたが、正直言えば、「不安」のほうが大きかった。
というのは、『搾取される若者たち』の中で、「ケア・ワーカー」が以下のように紹介されていたからだ。

高齢者の介護の仕事をする彼らの生きがいはお年寄りとのコミュニケーション。事実、「人と話すのが大好きだ」と語るケアワーカーは多い。その反面、非常にきつい感情労働でもある。賃金は低く抑えられており(平均月給は約20万円)、主婦とパラサイトシングルが主な担い手である。超高齢化社会のなかでますます増えそうな「自己実現系ワーカーホリック」の温床である。

このときすでに注で「ケアワーカーに関する論考はすでに執筆中である」とあったので、おそらく阿部氏が『働きすぎる若者たち』の前書きで述べているように、『働きすぎる若者たち』は『搾取される若者たち』(男の子編♪)に対する「女の子編」としての意味あいがあったのだろうと思う。

ここで、ほぼ断定的に、ケアワーカーの生きがいは「お年寄りとのコミュニケーション」とされているわけだが、・・・本当にそうだろうか?
阿部氏は、『働きすぎる若者たち』の中でも仕事にはまるケアワーカーたちを「不安定な就業形態ながらも仕事にはまる心優しいケアワーカーたち」と呼んでいるけれど、それって、・・・過剰に彼女たちを美化してないか?

どうも阿部氏のなかで、「低賃金でありながら高齢者のために一生懸命働くけなげな女の子たち」という像ができあがってしまっているように思う。
なので、きっと、このままいくと「自己実現系ワーカーホリック」の枠組みのなかで、「けなげで優しい女の子のワーカーホリックたち」が描かれていくに違いないと思った。
・・・これが、わたしの不安である。
しかし、それに対して期待もあったのは、『搾取される若者たち』で記述されているエスノグラフィがいろいろな意味で「厚い記述」になっていたからだ。
この「厚い記述」に支えられていれば、阿部氏が抱いているようなケアワーカーに対する幻想は、初期のうちに簡単に崩れていくはずだろう。それを踏まえて「自己実現ワーカーホリック」として彼女たちが仕事にハマっていく様子を描いてくれるに違いない・・・と思った。

・・・が、残念ながら、わたしの不安は的中してしまった。

そもそも『働きすぎる若者たち』は、(他にもいろいろな方が指摘されているとおり)、ケアワーカーのエスノグラフィ部分に対する記述が薄い。1年間のバイク便ライダー業界のフィールドワークから導き出された『搾取される若者たち』とは、決定的に記述の厚みが違うのである。
もはや、『働きすぎる若者たち』はフィールドワークに基づくエスノグラフィというよりも、どちらかというと、ライターが取材に基づいて書いた文章といった印象を受ける。
きっと、これはこれで面白いものなのだろうし、新書として読むにはこれで十分なのだろうが、前作での事例の切りとりかたに魅力を感じていたものとしては、非常に残念である。

この本での結論は、おそらく、
「ケアワーカーを「自己実現型ワーカーホリック」から救うために「集団ケア」を再び導入し、足りないケアの部分(=生活世界の充実)を保障するためにボランティアを増やせ」
・・・ということになるのだろうが、
これも、やはり、介護現場に対する浅いフィールドワークと「薄い記述」の結果としか思えない。

乱暴なことを言ってしまえば、「ボランティアを増やせ」なんて、それこそ、高校生でも書ける。
むしろ、そんなに誰でも簡単に主張していることが今だにできないことはなぜか、・・・というその部分にこそ、介護の職場の構造的な問題があるのではないか、と思う。そこに切り込んでいかなければ、結局、何も新しいことを提言したことにはならない。

「集団ケア」の再導入とボランティアの導入に関しては、以下のような問題もある。
この本の中では、終始、以下のような主張が語られる。

問題は、「やりがい」を奪われたケアワーカーたちである。彼らに対しては、やや厳しいようだが、ケアを長く続けられる仕事にしたいならば、(現時点でしばしば語られるところの)「やりがい」は捨てなくてはならないと言わざるを得ないだろう。(p.196)

きっと、この文章を読んで、本当に「それでOK」と言えるようなケアワーカーがいるなら、その人たちは経済的な問題やら何やらがないなら、とっくに「看護師」にキャリア転換をしていると思われる。
わたしは複数看護学校で講師として勤務しているのだが、看護学校で勤務していると、そういう「介護士」→「看護師」へのキャリア変更を目指して、看護学校を受験している方々を多くみかける。実際、多くの看護学校の社会人入試受験者の中で、この「キャリア変更組」は一定の層を形成している。

看護学校に通う・・・というかたちでのキャリア変更でなくとも、
働きながら「准看護師」のとれる病院でケアワーカーとして勤務しながら、「准看護師」を取得し、「准看護師」としてのキャリアを出発させる人たちもいる。
「人とのコミュニケーションを「やりがい」にできないなら、その「やりがい」が見いだせるようなキャリアに変更しますよ」
・・・と彼ら/彼女らだったら言うだろう。

とりあえず現在のところ「看護師」に関しては、「不安定就労」とも言えないので、こうなってくると、「職場に「生きがい」を求めること」を非難することはできなくなる。
さらに言えば、キャリア変更をせず、ケアワーカーとして勤務しつづける人たちの中には、「ケアマネージャー」としてのキャリアアップを考えている者もいて、「ケアマネージャー」となると、とりあえずは正社員なので、これまた「不安定就労」とは言えないのではないか。

ケアワーカーに関してはこういう「抜け道」(?)が存在しているし、ケアワーカーの女の子たちは、首尾良く自分のキャリアプランを変更している。
少なくとも、バイク便ライダーたちと比較して、多くのキャリア変更の道が残されている職であることは確かだ。

もちろん、わたしが見ている「現実」も、複雑な介護現場の実態の一側面にすぎないだろう。
しかし、ケアワーカーたちが行っているキャリアプランの変更について、まったく触れられていないというのは、調査不足としか言いようがない。


もしかしたら、本書で阿部氏は、「自己実現型ワーカホリック」という概念の有効性を実証したかっただけなのかもしれない。
・・・しかし、それにしても急ぎすぎである。
「急ぎすぎ」という言葉が一番ふさわしいと思う。
わたし自身は、「自己実現型ワーカホリック」というのは、現在の労働問題を考える上で、非常に有効な概念だと思っている。
だから、この概念で、ケアワーカーたちが現在抱えている問題を、新しい視点から切り取ることもできるだろうと考えている。
しかし、それにしても、あまりにバイク便ライダーのときの枠組みそのままを当てはめようとしすぎた。
ケアワーカーたちの職場にも、ケアワーカーたちの職場独自の文化がある。そして、それは、まったくバイク便ライダーの職場とは異なるものだ。


それを見ずに、ただ「趣味」→「心」「優しさ」に置き換えただけで適用可能な概念として「自己実現型ワーカホリック」という概念を用い、そのまま議論を進めてしまったことに、本書の無理があるのではないかと思う。


願わくは、「自己実現型ワーカホリック」という概念を用いたエスノグラフィー研究によって、介護の現場における職場問題をあざやかに切り取ってくれるような研究が、この後生まれてくることを望みたい。