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kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「羞恥心」と無知の倫理(1)

ニュース

「羞恥心」が売れている。
・・・あらためて、解説するまでもないが、「羞恥心」とは、フジテレビ系列の番組『クイズ!ヘキサゴン?』で珍回答を連発する「おバカ」男性3人組による男性アイドルグループである。

先日、知人と話していたとき、
わたしの知人は、
「『バカ』を『売り』にするなんて良くない!『ものを知らない』ことを『売り』にしてるなんて良くないよ」
…と言い放った。

しかし、わたしはどうにもこの言い方に違和感を感じて、
それからしばらく考えていた。
無知であることは、果たして、責められるべきことなのかどうか、
そこに正当な根拠はあるのかどうか、ということである。


社会的差別に関する議論の中では頻繁に、「無知は悪だ」というテーゼが繰り返される。
差別は、わたしたちが意識せずに身につける慣習の中にこそ潜んでいるものなので、わたしたちが差別を行わないためには、差別や差別を「当たり前」のものとしている慣習や文化について、知らなければならない。
そうであれば、差別について知ろうとしないことは、「悪」=責められるべきことに違いない。

しかし一方で、「無知であること」「バカであること」が差別の対象になっていることも確かなのである。
いわゆる「教養の高い人々」は、自分より教養の低い人々=「無知な人々」「バカな人々」を差別する。
その根拠には、「教養を身につけようと努力すればできるのに、その努力を怠っている人々なのだから、差別されて当然だ」とでもいうような考え方がある。

ここで鍵概念となるのは、「努力」である。
「努力」によって身につけられるにも関わらず、
その「努力」を怠っていることが、非難を行うための正当な根拠となる。

ほんの数年前まで、この前提はそれこそ「当たり前」に通用していた。
誰もが、「努力」すれば、人並みの教養なるものを身につけることができたからである。
だからこそ、無知な人々は「努力不足」として非難されてきたし、
ましてや「『無知であること』を『売り』にする人々」など、登場しなかった。
「バカ」であることを売りにするお笑い芸人ですら、「お笑い芸人って、実は、ものすごく勉強しているんだ」と人々は噂しあい、マスメディアも積極的に、彼らの本来の「頭の良さ」や「努力」を報道してきたように思う。


しかし、苅谷剛彦氏がさまざまな場所で指摘しているように、
今や、学歴をめぐる新たな階層化社会が出現している。
高学歴・高年収な親を持つ子どもたちは、幼い頃から豊かな教育を受け、高い教養を身につけることができる。
逆に、低学歴・低年収の子どもたちは、満足な教育を受けることができず、満足な教養を身につけることができない。
近年ますます問題視される、「公立離れ」は、この現象を裏づけている。
高学歴・高収入の親たちは、より豊かな教育の受けられる国立学校・私立学校へと子どもたちを入学させる。
しかし、国立学校・私立学校には、入学試験があるため、それを勝ち抜くためには、塾費用などの経済的負担がかかる。
私立であれば、なおさら、経済的負担がかかる。
その経済的負担を担えるだけの収入がない親の子どもたちは、公立へと通わざるを得ない。
こうして、学歴をめぐる階層社会が実現した。


こうなってくると、
「教養の低い人々」「無知な人々」とは、単に、努力を怠った人々とは言えない。
「教養が低いこと」「無知であること」は、新たに出現した階層社会の当然の帰結であり、本人の努力だけに帰結できる問題ではない、ということになる。

そして、「羞恥心」(あるいは「Pabo」)が登場したのも、
まさに、この新たな階層社会を人々が感覚的に実感しはじめた時であったように、思う。
「羞恥心」が社会に受け入れられ、人気を得たのも、
「無知であること」に対するこのような人々の寛容さに裏付けられている。


今や、人々は、「無知」をめぐる、新たな倫理を構築したのではないか。
「無知」とは本人の努力不足の結果ではなく、
(自らの努力ではどうしようもない)親の階層の反映だとすれば、
それは、他の差別問題−男女差別や、部落差別、障害者差別等々−と、どこが異なるのか。
性別によって差別されてはならないように、
障害の有無によって差別されてはならないように、
教養の有無によって差別されてはならないのだ。

…このように、人々は考えるようになったのではないか。

それは、ある意味で、社会がさまざまな人々に対して、またひとつ寛容になったことの証であり、
その意味では歓迎すべきことであると言える。

しかし、本当にそれだけで片付く問題なのだろうか。

先に答えを言ってしまうと、
わたし自身は、「『ものを知らない』ことを『売り』にすること」は、ただただ賞賛できるようなことではない、と考えている。
なぜなら、「無知な人々」を差別しないためには、やはり、「無知な人々」が生み出される社会構造の問題そのものを知らなければならないと考えるからである。
意識的にせよ、無意識的にせよ、ともかく他者の状況を知ろうとする、そのことによって「無知な人々」が寛容に受け入れられたのであるとすれば、その「知ること」「知ろうとすること」の意義は、重要なものとして残りつづける。

であるとすれば、私たちは、「無知」をめぐる倫理=人間同士の関係のありかたをどのように捉えていくべきなのだろうか。

これについては、また別の機会に考えてみたい。