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Literacy, Culture and contemporary learning

「羞恥心」と無知の倫理(2)

「倫理的である」とはどういうことか、という問題を考える上で、
もっともクリアな説明をしているのは、内田樹『街場の現代思想』(文藝春秋)に所収されている「想像力と倫理について」というエッセイだろうと思う。

街場の現代思想 (文春文庫)

街場の現代思想 (文春文庫)

内田氏は村上龍のエッセイを引用しつつ、
村上龍が一貫して、「倫理的に生きることは長い目で見れば経済的合理性に合致している」ということを説いている、と指摘する。
その上で、以下のような議論を展開している。

倫理は合理性の前にあるわけではない。むしろ、倫理にかなった生き方のことを「合理的」と呼ぶのである。ことの順序を間違えないようにしよう。
「倫理」の「倫」とは「相次序し、相対する関係のものをいう。類もその系統の語。全体が一の秩序をなす状態のもの」すなわち「共同体」のことである(白川静『字通』)。すなわち、「倫理」とは「共同体の規範」「人々がともに生きるための条理」のことである。(p.223)

短期的には合理的だが、長期的には合理的でないふるまいというものがある。あるいは少数の人間だけが行う限り合理的だが、一定数以上が同調すると合理的ではないふるまいというものがある。
 例えば、「他人の生命財産を自由に簒奪してもよい」というルールは、力のあるものにとって短期的には合理的であるが、それが長期にわたって継続すると、最終的には「最強のひとり」にすべての富が集積して、彼以外の全員が死ぬか奴隷になるかして共同体は崩壊する。
 子どもを育てることは女性の社会的活動にハンディを負わせる。だから「私は子どもを産まない」という女性は他の女性よりも高い賃金、高い地位を得る可能性が高い。しかし、女性全員が社会的アチーブメントを求めて子どもを産むのを止めると、「社会」がなくなるので、賃金も地位も空語となる。(p.224)

さて、この内田氏の議論を、「教養に対する無知」を事例とするとどうなるか。
無知であることは、「短期的には合理的だが、長期的には合理的でないふるまい」あるいは「少数の人間だけが行う限り合理的だが、一定数以上が同調すると合理的ではないふるまい」に当てはまるか否か、というのがこの記事の主題である。

答えは、すでに前の記事でも言ってある。
「無知であること」、すなわち「教養を身につけようとしないこと」「知ろうとしないこと」は、「少数の人間だけが行う限り合理的だが、一定数以上が同調すると合理的ではないふるまい」である。
なぜなら、すべての人々が何事も知ろうとしなければ、自分以外の他者とコミュニケーションを行い、理解しあうための共通の基盤たるものがなくなってしまうからだ。

わたしはどちらかというと古典不要論者で、「古典は日本人としての教養だから必要だ」という議論に対し、否を唱えることが多いのだが、それは「教養なんて必要ではない」と言いたいわけではなく、「『日本人』という国家的アイデンティティを強固に作り出す(そしてそれによって、「日本人」でない人々を排除する)ような教養なんぞ必要ない」と言っているのである。

これは、要するに、倫理が成立する背景にある「共同体」をいかに想定するか、という問題であり、「教養」の定義の問題である。
古典を「日本人としての教養」として主張する方々は、「日本」という国家を共同体の基盤として捉えていて、「日本人」が「日本人」として理解しあうために必要なコミュケーションの基盤として「古典」を、捉えているのだろう。
わたしは「共同体」を、もっとローカルでゆるやかなものとして捉えているので、まったく違うかたちで「教養」を捉えている。

端的に言ってしまえば、
自分とは異なる他者とともに共同体をつくり、そこで生きていくための知識や技法
それこそ「教養」なるものであろうと、わたしは考えている。


「無知であること」が問題になるのは、この意味での「教養」すら、彼らが得られないときである。
それは、「『源氏物語』の作者が誰か」を知らない、とか、「現在の日本の総理大臣が誰か」を知らないとか、そういうこと自体の問題ではない。
むしろ、問題なのは、そういうことすら「知ろうとしないこと」、「知らないこと」が容認されてしまうことにあるのではないか、と思う。


多文化社会が実現すれば、わたしたちが知らないことは増える。
知るべきことも増える。
自分がもてる限りの知識と想像力を駆使して、他者を理解しなければならない状況も増える。
そのときに、「知ろうとしないこと」「知らないこと」が是認されたままでは、困る。
なぜなら、
そのときこそ、無知や無理解によって相手を傷つける可能性が出てくるからである。

こうして、ようやく前回の記事ではじめに出したテーゼ「無知は悪だ」につながってくる。


わたしがこの記事を書いている間、ずっと考えていたのは、
自閉症に対する無知や無理解によって苦しめられてきた母親たちのことである。
自閉症」という病気は長い間、「母親のしつけが悪いから生じる病気だ」と慣習的に思われてきた。そしてそのことが、多くの自閉症児の母親を傷つけてきた。
これは、無知や無理解が相手を傷つける、あまりにもわかりやすい事例である。


とはいえ、前回の記事で触れたように、
階層社会の実現で、「教養を身につけたくとも、身につけられない」人々が出現してきたことも間違いない事実なのだろうと思う。

だから、わたしたちは、現在、
「無知であること」「教養がないこと」に対しては寛容でいつつ、
「『無知であること』を容認すること」に対しては批判的でいる・・・という、二重の態度を示すことが必要なのではないかと思う。
簡単に言ってしまえば、
「(現在)知らない」ことに対しては「しかたないね」と言いつつ、「でも、知らなければダメだよ」と言い続ける。そんな態度が必要なのではないか。


「『ものを知らないこと』を『売り』にしてはいけない」というわたしの知人の発言は、おそらく、このように解釈できるのだろうと思う。
「ものを知らない」ことは、一定数以下の個体がそうである場合のみ、合理的なのである。