kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

経験の翻訳

前の記事にも書いたドラフトが、ほぼ、完成した頃、id:Asayさんから同人誌『モーニングスター』を送っていただいた。

小説の文章が、あいかわらず、すてきであったことは言うまでもないのだけれど、それと同じくらい、あるいはそれ以上に、その同人誌に添えられていた手紙の文章に、さまざまな思いを至らせた。

 そして僕は決意しました。あの頃のことを書こうと。今思えば非日常的ですらあった、あの寮での日常を書いて遺そうと。そして、たとえみすぼらしくても、完結した小説という形にしなければならないのだと。

 それからは早く進みました。締め切りの設定のために市内の同人誌即売会に申し込み、書き、書いて、印刷し綴じました。即売会では寮のことを知らないひとが幾人か読んで持ってゆきました。けれど、誰が読むかは関係がないのです。これはあくまで僕のための、そして僕と暮らした皆様のための文章であり、誰が読んでどんな感想を持つかよりも、僕が書いて遺すという目的を達成することだけが重要なのです。

ここに、つけくわえることは何もなくて、結局は、そういうことなのではないか、とわたしは思った。
ただ、昔なにかの本で読んだ、モーリス・メルロ=ポンティの言葉を思い出していた。

語ることないし書くことは、まさしく一つの経験を翻訳することであるが、しかしこの経験は、それが惹き起こす言語行為によって原文となりうる。


「物語」というものを徹底的に拒否していた高校時代以降、わたしにとっての最大の謎は、人はなぜ「物語」を書くのか、ということである。もっと言ってしまえば、人はなぜ物語るのか、人はなぜ書くのかということ。事実をただ切り取るのではなくて、ことばを紡ぎだし、それをひとつの物語として編みだそうとするのか。

いま、ここでその問いに対する答えを早急に導き出してしまうことは危険なのだけれども、それはもしかしたら、「一つの経験を翻訳」しようとする…その「翻訳」の仕方の中に、自分自身なるものを見つけようとするからなのかもしれない。
そんなことを、思った。