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kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

パロディの生成

研究 サブカル

先日から読んでいる三浦しをん『ロマンス小説の七日間』(角川文庫)の中で、わたしの研究と関わってピピッとくる一節があった。

 ロマンス小説は、結局のところ家族小説だ。ヒーローとヒロインが、いかにして幸せな家庭を築いたか、という話だ。これは私のための物語ではない。おもしろく読みはするけれど、私を真実ときめかせるための物語ではない。ときめかない自分をとても残念にも思うけれど。
 そう……、わたしはウォリック*1よりもむしろ、シャンドス*2のほうが気になる。無口で無愛想で頬の大きな傷があるシャンドス。彼もウォリック同様、戦いに明け暮れてきたはずだ。そんな彼からすると、美しい妻を得て新たな生活を築こうとする盟友のウォリックはどう見えるのだろう。素直にともを祝福しようと思えるかしら。裏切られたとは感じはしないのか。自分たちの友情と信頼のあいだに割って入ってきた世間知らずのアリエノール*3を、シャンドスは受け入れられるのだろうか?
 でもきっと、シャンドスの心理は描かれない。ロマンス小説は、主役の男女二人にしか焦点が当たらないものだし、たとえこれからシャンドスがウォリックの恋敵になるとしても、当て馬としての役割以上にはならないはずだ。かわいそうなシャンドス。ヒーローには決してなれぬ宿命の男。(三浦しをん『ロマンス小説の七日間』pp.75-76)

物心ついたときには、すでにBL雑誌があったような「第三世代」*4の女の子たちと違って、それ以前の世代は、既存のメディア上の物語に対する違和感のようなものをどこかで感じていて…(少なくとも当初は)その違和感に基づいて、パロディ同人誌に興味を持ちはじめているように思う。

わたしが以前、インタビューしたときに、ある女の子は、「『幽☆遊☆白書』は、なんで最後まで蛍子ちゃんがヒロインなのかわからない!」と力説していた。物語をきちんと読めば読むほど、「幽助とカップルになるのは、むしろ、ぼたんだろ。」と。…確かに、ヒロインである蛍子は、作品上、ほとんど出てこないわけだから、その説は正しいといえば正しいなぁ、とそのときわたしは妙に納得したものだった。

「美しい妻を得て新たな生活を築こうとする盟友のウォリックはどう見えるのだろう?」「裏切られたとは感じはしないのか?」…という、ロマンス小説の「隙間」に対する問いかけは、パロディ物語への素地を生み出していく。『ロマンス小説の七日間』では、主人公が原作の翻訳を離れ、どんどんストーリーを創作してしまう…という流れになるわけだけれども、日常的に物語を読むという行為の中でも、多かれ少なかれ、わたしたちは、この「隙間」に触れているわけで、ちょっと物語想像力(まあ「妄想力」だね)の強い子は、そこから新しい物語を生み出してしまうのである。

一般的に言われていることだけれども、やおい同人誌は、男性ばかりの出てくる、主人公成長系*5の物語において生まれやすい。カップリングにされやすいのは、主人公とその相棒、あるいは、主人公とそのライバルである。引用のロマンス小説を例にあげれば、ウォリックとシャンドス、この二人がカップルになる。*6
「どうしてホモセクシュアルにするの?」という問いに対する答えは少し難しいけれど、「どうしてその二人をカップルにするの?」という問いに対する答えは単純である。だって、やたら、二人の深い絆が強調されるんだもん。「男同士の絆」という名の深い絆。

そういうパロディの生成過程を、引用の文章は見事に表現しているように思う。
物語に対する問いかけは、新しい物語を生み出す。
オーディエンスはいつでも、創造の契機をうかがっている。

*1:主人公が翻訳している海外ロマンス小説のヒーロー

*2:いわゆうる、ヒーローの相棒。影のある男

*3:主人公が翻訳している海外ロマンス小説のヒロイン。ウォリックと結婚することになった、美しい女領主

*4:「第三世代」「第二世代」という用語については、金巻ともこ(2005)「女子オタ30年戦争」(ユリイカ,37(12),144-153を参照

*5:スポーツやら戦闘やらで、主人公が自分より強い相手と戦いながら、自らを成長させていく…というやつ

*6:BL好きの三浦しをんさんが、この小説の結末で、シャンドスとウォリックではなく、シャンドスとアリエノールをカップルにする方向へと向かったのは、一般向け物語をかく作家としての「良心」であろうか。