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kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「誰でもないわたし」と「誰でもあるわたし」の間1:水戸芸術館現代美術センター「ジュリアン・オピー」展

アート

先日、水戸芸術館で行われている「ジュリアン・オピー」展に行ってきた。
http://www.arttowermito.or.jp/art/modules/tinyd0/index.php?id=1

 ジュリアン・オピーの一連の作品を長い時間をかけて眺めていると、「わたしたちが「その人らしさ」と感じるものって、いったい何なんだろう?」という疑問が浮かんでいる。ジュリアン・オピーのポートレイトを構成する要素は、すべての作品において、ほとんど同じである。黒ごまのような目。鼻をあらわす2つの点(あるいは短い曲線)。そして、長短1組の曲線によってあらわされる口。よく、「少女マンガに出てくる人物はみんな同じ顔をしている!」と非難する人がいるけれど、オピーの作品に出てくる「登場人物」はまさに、「みんな同じ顔」である。

さらに言えば、オピー展のポスターに使われている作品(↓)なんて、顔の部分は“円”で表されているのだから、顔の部分に関して言えば、「みんな同じ顔」どころか、「合同」である。

それでも、たとえ“円”で表された顔の人々であっても、その人の服装や、アニメーション作品等にみられる動きなど、ちょっとした差異によって、紛れもなく「その人らしさ」が見えてくるのが不思議である。
わたし自身のことを言えば、オピー展を見終わる頃には、すっかり「シャノーザ」のファンになっていた。オピー展の途中には、《これがシャノーザ》(This is Shahnoza)と題された一連の作品があるのだけれど、その作品を見る頃には、《これがシャノーザ》というタイトルを見て、「そうだよ。これこそ、まさにシャノーザらしい、シャノーザの姿だよなぁ!」・・・と妙に、納得してしまった。「お前は、シャノーザののなんなんだ!」・・・と自分自身にツッコミを入れたくなる。

 こう書くと、オピー展の中に、シャノーザの顔を描いたポートレートでもあるのか、と思う方もいるかもしれない。が、そうではない。シャノーザの顔は常に、“円”で描かれる。だから、わたしはシャノーザの顔を、まったく、知らない。だけど、シャノーザのことは、もしかしたら、少し知っているかもしれない。少なくとも、シャノーザがどんなにエロティックで、魅惑的で、サイコー!なのかは、語ることができる。・・・そんな気になる。

 こう考えてみると、わたしたちが、ある人の「その人らしさ」を認識する場合、顔によって与えられる情報なんて、ほんの一部なんじゃないかと思えてくる。
 「人間40歳を過ぎれば自分の顔に責任を持たなければいけない」とは、アブラハム・リンカーンの言葉だが、この言葉を発する原因となった秘書候補を見たとき、リンカーンは本当にその人の顔だけを見ていたのだろうか、と思う*1。「40歳にもなってくると、それまでの職業や生き方やいろいろなものが顔に反映されてくる」という説明はわからなくもないけれど、その人の顔よりもその他の部分のほうが、雄弁にその人の人格や人生を物語ってくれるような気がする。むしろ、リンカーンが言いたかったのは、そういう情報すべてを代表する存在としての「顔」だったのではないだろうか。

ジュリアン・オピーの描く「顔」は、そういう意味で人間の「顔」を、正確に捉えているように思う。顔のほとんどをしめる「他の誰でもある部分」と、その中にほんの少し残された「他の誰でもない部分」。
ほとんどが同じ要素で構成されているからこそ、わたしたちはそこに僅かに残された「他の誰でもない部分」に、その人の生き方や人格を読みとることができる。オピー展を見て、わたしが、知り合いでもない、シャノーザを知った気になったのも、きっと、シャノーザの「他の誰でもない部分」がはっきりと描かれていたからだろうと思う。


人間にとって、顔っていったい、なんなのだろう?

*1:そういえば、曹操孟徳も不細工な人間は嫌いだったという逸話があるけれど、きっとそれはただの好みの問題なんだろうな。きっと。