kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「本はダチ」

先日、学部生のluneさんが、卒論テーマについての相談にきた。

池田修氏が考案した*1アイディア発想ツール「イメージの花火」http://homepage.mac.com/ikedaosamu/kokugo/fireworksofimage.htmlを使って、卒業論文でできそうなテーマについてのアイディアをいろいろ出して、その後、それぞれのテーマについての可能性を話し合いながら検討していく*2

そんなアイディア検討作業の中、luneさんがたまたま、「読書感想文は、ダメだと思う」というような旨のことを言ったので、わたしは「『○○はダメだ!』という主張は政治的主張にはなりえるけど研究にはならないんだよね」と主張した。
なぜなら、「○○はダメだ」という言明には、責任が伴わないから。
「今の教育はダメだ」というのは、誰もが言える。
でも「今後の教育は、こうするべきだ」という方針を、明確な責任を持って言える人はそういない。
けれど、教育学の領域で研究するということは、誰もが言える「今の教育はダメだ」式の教育論ではなく、「今後の教育はこうするべきだ」という教育論を提言できるようになることなのではないか、と思う。

そんなわけで、わたしは彼女に、「わたしだって、最終的な野望は、『御「本」様信仰』を崩すことだけどさ、でも、『御「本」様信仰はダメだ〜っ!』って言ったところで、それは研究にはならないわけだよ。代わりとなるパラダイムなりなんなりを提示しないと」・・・と説明する。

そうなのだ。
「『御「本」様信仰」を崩したい』と言ったところで、「では、本とはいったい何なのですか?」という質問に答えられなければ、その主張は意味を持たない。そして結局、研究というのは、その問いに答える作業なのだと思う。「『御「本」様信仰』がダメなのだとすれば、人間にとって本とはいったい何なのですか?」その問いに対する現時点でのわたしの答えを言うとすれば、「本はダチである」に集約されると思われる。

「本はダチ」である。
わたしはそのとき、「本は・・・友達かなぁ」と答えたのだけど、「友達」というよりは、やっぱり「ダチ」のほうがしっくりくる。「友達」というとどうも道徳教育的な臭いがするのだが、やっぱりそれは違う。別に『さわやか3組』みたいな友情を育まなきゃいけないわけではない。良い奴も悪い奴もいるし、淋しいときに集まれるメンバーも、深刻な悩みを相談できる相手も、なんとなく好きになれないけどなんとなく付き合っている奴もいる。いろいろ含まれる「ダチ」。
社会的に良いこともできるけど、もちろん、つるんで悪いことだってできる。
そういう、「ふつー」の関係でいいのではないかと思うのだ。
気に入らないところは、悪口言ってもいいし、好きな奴とはとことん付き合う、というので、いいのではないかと。

翻って、「読書感想文」のことを考えると、「読書感想文」の一番よろしくないところは、本の内容を誉めなければいけないところだと思う。コンクールでも、本の内容をボロクソに言った生徒の感想文が入賞したのを、わたしは見たことがない。いつも「感動しました」「考えさせられました」と言っていかなきゃいけない、この非対称な関係性はいったいなんなの?
こんな非対称な関係を続けていたって、良好な関係が築けるはずなんてない。

「本は神様」ではなく、「本はダチ」。
こう考えると読書教育の別のアプローチの仕方も見えてくるような気がする。
「推薦」とか「発表会」ではなくて、「出会い系」とか「ソーシャル・ネットワーキング」とか、そういうものとしての読書教育のアプローチを考えていけたらいいのではないか。そんなことを思っている。

*1:池田氏によると「イメージの花火」はこの「イメージの花火」は、今泉浩晃氏が開発した「マンダラート」http://www.mandal-art.com/を、池田氏が許可を得てゲーム化したものらしい

*2:ちなみに「イメージの花火」をわたしが知ったのはNHK教育「伝える極意」第二回「1分間で思いを伝える〜スピーチ〜」を見たからである。この番組はデジタル教材として、HP上にアップされている。http://www.nhk.or.jp/gokui/ja/frame.html?0&08&01&/01tvreal.html