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kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

名士の娘たち

恩田陸『ユージニア』を読む。

ユージニア (角川文庫)

ユージニア (角川文庫)

奥田英朗の『イン・ザ・プール』や『空中ブランコ』のように、あたかも映画か何かを見ているかのごとく、ストーリーが展開していくような話もおもしろいけれど、物語の海の中を、右も左も知らぬままたゆたっているような作品も、やっぱり良いな、と思う。ひたひたと心のひだに、水がしみこんでいくような、そんな感覚が心地よい。
「言葉の肌理」・・・という、何度となくブログ上で繰り返しているような言葉を再度、思い出す。

『ユージニア』を読み終わってから、しばらく、わたしが出会った名士の娘たちのことを考えていた。
「地元の名士」と呼ばれる父や祖父(その多くは地元議員か、あるいは医療関係者だ)を持つ女性を、わたしは3人知っている。
そのうち2人は、自分の生きる意味のすべてを特定の異性に依存している、いわば「恋愛依存症」で、もう1人はまったく他者を好きになることができない、いわば「Aセクシュアル」(asexual)だった。

異性との関係に対してまったく正反対の生き方をする名士の娘たち。

『ユージニア』を読み終えたとき、そんな彼女たちのうちの1人が、かつて、「家はうるさくて。1人になれないんですよ」とつぶやいていたことを思い出した。
誰に対しても愛想よくふるまっていて、友達も多そうな彼女が欲していたものは、「孤独」になれる時間だった。
「孤独」なること願う彼女が、他者を性愛の対象とすることを忌避するのは、なんとなく理解できる。これ以上、自分の領域を侵犯されたくないという思いが、たまたま異性関係の問題として現出してしまっただけなのではなかろうか。
だって、名士たちの躾どおり、タテマエを維持しようと思えば、普段は愛想良くしていなければならない。友達にも優しく振る舞っていなければならない。
だとしたら、唯一、「孤独」を求められるのは、より親密な領域だけだったろう。

これと同じことが名士の娘たちの「恋愛依存症」にもいえるのではないかと思うのである。
親密な領域における「自分の領域」をどう確保するか、という点において「Aセクシャル」の女性と、「恋愛依存症」の女性がとった戦略はまったく異なっている。しかしその目的は同じだ。消え去りそうな「自分の領域」を確保すること。これに尽きる。ただその「自分の領域」を他者によって補完する必要に迫られる人々は、親密な領域における他者(一般的には異性)に依存する。「自分の領域」がすでに確保されていれば、徹底的な他者排除に向かう。その違いがあるだけだ。


人は、一方で、他人がいなければ生きていけないけれど、
もう一方で、「自分だけの領域」を確保しなければ生きていけなかったりもする。
人間のことばというものが、「誰かと同じもの」でありつつ「他人と異なるもの」であるという二つの機能を担っているのも、人間のそんなアンビバレントな欲求を反映しているのではなかろうか。