kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「楽しむ」ことを教える

同じ研究室にいる小学校の先生から、「生活文」の指導について相談をもちかけられる。
「『フリーダム・ライターズ』に出てくる子どもたちは、書くことそのものを楽しんで、書いていったわけじゃないですか。そういう書くことそのものが楽しいと思えるような指導ってどうしたらできるのかなぁ?・・・って。」

ハッキリ言って、これほど難しい質問はないと思う。
ここで聞かれていることを端的に言うと、「子どもに、書くことを『楽しむ』ことを教えるにはどうしたら良いか?」ということになるのだけれども、「『楽しむ』ことを教える」「『楽しい』という感情を人為的に起こさせる」ことは果たして可能なのだろうか。わたしは疑問だ。
しかし、学習指導要領上には、指導項目として「楽しく○○する」「進んで○○する」という文言が並び、それが評価項目にもなっていたりする(!)のである。「楽しい」と思うことそのものが、1〜5の数字で評価されちゃうというのだから、恐ろしい。これって思想統制以外の何物でもないのではないか、とすら思える。

とはいえ、「楽しい」と思えることが増えることには意味があると、わたしは思う。人生の楽しみは、少ないより、多いほうが良い。そう考えると、「『楽しむ』ことを教える」ための方策を考えることは無意味ではない。

そう思って、「『楽しむ』ことを教える」ことについて、しばらく、考えをめぐらせていたところ、一冊の本を思い出した。ハワード S. ベッカー『アウトサイダーズ−ラベリング理論とは何か』である。

アウトサイダーズ―ラベリング理論とはなにか

アウトサイダーズ―ラベリング理論とはなにか

教育学だと、主に「非行少年」や「落ちこぼれ」研究で用いられることの多い「ラベリング理論」。この本は、それを勉強しようと思って購入したのだが、わたしにとって最も面白かったのは「ラベリング理論」そのものではなくて、第三章「マリファナ使用者への道」であった。

煙草のことを思い起こしてみれば、納得していただけると思うが、マリファナを「楽しむ」ためには、それなりの「学習」が必要となる。
わたしは、まったく煙草を口にしたことはないのだけれども、多くの喫煙者が、「はじめて煙草を吸ったときは、むせて大変だった」とか「何が良いのかわからなかった」とか、そんなエピソードを語る。それにも関わらず、彼らは、煙草の「楽しみかた」についてどこかで学び、見事、ヘビースモーカーになったりもするのである。
アウトサイダーズ』のすごいところは、マリファナを「楽しむ」ことができるようになることを、「学習」と言い切ったところにある(と、わたしは思う)。第三章第一節のタイトルは、「喫煙法*1の学習」である。

マリファナの快楽を学習することは、安定した麻薬使用パターンの形成にとって、必要条件ではあるが十分条件ではない。その行為を有害ないし不道徳なもの、あるいはその両方の性質をもつものと見倣す社会統制の強大な圧力を戦うことが残っていよう。

この文章からわかるように、ベッカーが「学習」の達成と見なしているものは、「安定した麻薬使用パターンの形成」である。マリファナの「楽しみかた」を知ることは、マリファナ使用の「学習」の一部を形成するにすぎない。それでも、それを「学習」と言い切ってしまうところが、クールでカッコイイとわたしは思うのである。

話がずれてしまった。
そんなわけで、「『楽しむ』ことを教える」ことを考えるためのヒントは、おそらく、ここにあるのではないか、と思うのである。はじめは、なんだかイヤなもの・不快なものなのに、いつの間にやらその「楽しさ」を学習してしまうもの。煙草とかお酒とか、・・・やおい*2とか(笑)
きっと、そこに答えはあると。

・・・で、もし、そこに答えがあるとするならば、その答えのひとつはこれだ。

「『楽しむ』ことを教える」最上の方法とは、それを「むちゃくちゃ楽しい!」「コレがなきゃ、生きていけんわー!」と思っている人たちの中に、学習者を参入させることである。

もちろん、たくさんの人たちがいなければいけないわけではない。ひとりだっていい。
とにかく、「これ、むっちゃくちゃ楽しいわー!」と思っている人と学習者とが出会うこと。
それ以上の方法はないし、それ以外の方法もないと思う。きっと。

だから、子どもたちが書くことを「楽しい」と思うための最上の支援方法は、書くことが好きで好きでたまらない人と出会わせること。一番良いのは、教師自身が、書くことが好きで好きでたまらない人であることなのかもしれないけど、日本全国の教師がすべて、書くことを好きでいることなんて不可能だから、そういう人との出会いの場を作ってあげられれば良いのかもしれない。

そういえば、数年前。
ある方と「書くこと」の教育について話をしていたときに、「kimistevaさん、むっちゃ書くこと好きでしょう?そういうの文章から伝わってくるもん。あなたみたいな人が教室にいるだけで、子どもたちはあなたの背中から、いろいろなことを学ぶんだろうねぇ。」と言われて、感動したことがあった。


当たり前の話だけれど、感情の多くは、社会的な学習によって形成される。だから、周囲に「楽しい」と思っている人が誰もいないようなものは「楽しい」と思えない。小学生までの段階であればその傾向はなおさら顕著であろう。
本来であれば、「毒物」として判断されるはずのピーマンを、人間が食べられるようになるのは、それを平気な顔して食べている周囲の人間たちがいるからだという話を聞いたことがある。もちろん、ピーマン嫌いの大人が少なくないように、すべての人が学習を達成するわけではないけれど、それでも、周囲の人々の影響は大きい。
何かを「楽しい」と思う人々の存在。
人間が何かを学習するにあたって、こういう人々の存在は、大きな意味を持つのかもしれない。

*1:一般的に、マリファナも「喫煙」という言葉を使うのだろうか・・・?わたしにはわからない。

*2:わたしがインタビューした女性たちの多くは、「はじめは男性同士のエッチシーンを見て、抵抗を感じた」と言っており、それはわたしも同様である。わたしがはじめてエッチシーン有の小説を読んだのは『天の華・地の風』だったのだけど、あれはかなり衝撃だった。