kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

物語と恋と恋愛と

わたしが人間にとっての「物語」の意味を考えはじめたのは、高校生のときでした。
その当時、わたしの友人だった男の子は、同じくわたしの友人であった女の子に好意を抱いていました。・・・が、そのことをわたしが知ってからずっとずっと二人の関係に変化がない。どうやら、彼は何をどうしたらよいのか、まったくわからないらしい。
そんな様子を、わたしと同じように見ていたある方が、あるとき、「彼はそんなに本を読んでるわけでもないし。好きになる・・・ってことがどういうことかわからないうちに、好きな女の子が目の前に現れちゃったんだろうなぁ・・・」と、つぶやいたのでした。

当時のわたしにとってこの発言は、衝撃的なものでした。

だって、少女マンガと児童文学の世界に浸りまくりな少女時代を送ったわたしにとって、「恋」とは「落ちるもの」という認識だったので、恋する感情が芽生えたのに、その先、どう進めてよいかわからないという状況そのものがそもそも理解できなかったのです。さらに言えば、そういう状況が説明可能であるということ・・・そしてそのときに根拠として持ち出されるのが、物語の存在であることに驚いたのです。
「ある日突然、王子様が・・・」というような陳腐なものであれ、ロマンティック・ラブ・イデオロギーであれ、なんであれ、ともかく何か「恋愛というのはこういうものだ」という信念のようなものがないと、わたしたちは「恋愛」できない!そのことを思い知ったのでした。

大学院に入って、ケネス・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』を読んだとき、まず、思い出したのはこのときの経験でした。

あなたへの社会構成主義

あなたへの社会構成主義

ガーゲンは述べます。

また、恋に落ちていた数年間、私の人生はよくあるドラマや事件に満ちていました。相手に、「あなたの本当の気持ちは?」「あなたは本当に私を愛しているの?」と尋ねられることもしばしばありました。私はうろたえました。私はどう答えればいいのだろうか。どんな証拠を見せれば、信じてもらえるだろうか。結局、社会構成主義がもつ人生にとっての価値を私に教え、私を救ってくれたのは、私の妻であるメアリーでした。「あなたが、『私はあなたを愛している』と言う時、自分の心の状態について報告しているわけではないのよ」と彼女は言いました。「それは、誰かと一緒にいるための方法、生きていくためのすばらしい方法の一つなのよ。」これは「感情」に関するすべてのパフォーマンスについてもいえます。それは、私たちの存在のしかた、歴史的に与えられた生き方なのです。私たちはそれを測ろうとしたり、それに突き動かされるのをじっと待ったり、自分が「不自然」に感じすぎているのではないかと気にしたりする必要はありません。感情は、服の着方や、ゲームやダンスにおける動きと同じように、行為のレパートリーなのです。そして、私たちが、それをいかに遂行するかによって、私たちの人生は、充実したものになったり、空虚なものになったりするのです。(ケネス・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』、ナカニシヤ出版、pp.168-169.

先日、教育社会学の院生と話をしていたときのこと。教育社会学専攻のある院生が、「社会学の研究をしだすと、もう、ふつうの恋愛なんてできないのよっ!(泣)」と言っていたという話を耳にしました。
なるほど、パートナーとトラブルが生じたときに、この文章で引用されているメアリー・ガーゲンの言葉(「あなたが『私はあなたを愛している』というとき、自分の心の状態について報告しているわけではなく、それは一緒に生きていくための方法のひとつなのよ」)を持ち出してしまうような、わたしの恋愛は、確かに、「ふつうの恋愛」ではないのかもしれません。
・・・だけど、わたしは、それがとても幸せなことだなぁとも思ったりします。

なんでしょうね。
「恋愛」というものが、社会・文化によって与えられた物語に沿って生きることでしかないと知ることで、逆に、どの物語を選ぶかは自由だと思える。付き合ったら、まずコレをやって、アレをやって・・・という、一般社会の中に強烈に存在する恋愛イデオロギーみたいなものからは距離を置くことができるような気がするのです。
それを、「ふつうの恋愛はできない」と捉えるか、「『ふつうの恋愛』に縛られずに済む」と捉えるかは、人それぞれなのでしょうが。


ちなみに最近、「むむむ!これってスゴク『恋人』っぽい!」と感じたのは、浦和駅近くにあるデパートの地下の一角にあるうどん屋で、恋人と二人でうどんを食べているときでした。
古い街にある古びた食堂のようなうどん屋で、どうやら上を鉄道が走っているらしく、たまにガタンゴトンと音がなり、店が少しだけ揺れました。
木造立てを思わせる古い木柱には、これまた古そうに黄ばんだ紙に、手書きで書かれたメニューが何枚も張り出されていて、枯れかかった花が一輪、壁の一輪挿しにかけられていました。
 わたしが頼んだ「梅しらすうどん」は、とても美味しかったけれど、たくさん食べるには梅ぼしが酸っぱすぎて、さすがに舌が酸っぱさに飽きてきたなぁと思った頃、店の中央に置かれている古いブラウン管から、NHKの「のど自慢」のオープニングが流れはじめました。

その音を聞いたとき、わたしは、「これってスゴク『恋人』っぽいなあ!」とやたら感激したのですが・・・。
どうでしょう。うーんやっぱり、誰にもわかってもらえないかなぁ・・・。