kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

統計に対するクリティカル・リテラシー

授業で、Phyllis Whitin and David J. Whitin "Learning to read the numbers"という論文を読む。

この論文は、"Language Arts"という小学校(あるいは幼稚園)の教育者に向けた雑誌なのだが、"Language Arts"といういかにも、(日本でいえば)「国語教育」の教育者に向けられた雑誌に、「数字の読み方を学ぶ」というタイトルの論文が掲載されるところがすごいと思ったり、逆に、日本の国語科教育の議論ってどうしようもなく偏狭だよな、と思ったり。

それはともかく、この論文で、ジョエル・ベストが『統計はこうしてウソをつく』の中で紹介している、“統計に対して一般的な人々がとりがちな三つの指向性”が紹介されていた*1

統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門

統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門

(1)「畏敬的(Awestruck)」:数字は魔力を持つ物神であると考えている。彼らにとって統計は魔法の創造物なので、それは理解すべきものではないと考える。敬虔な宿命論者。

(2)「単純/愚直(Naive)」:自分は統計に対する知識があると言い張るが、一般的に、自分が読んだデータはそのまま受け入れる。彼らはデータというものが、データの背後にいる人々の関心や問題意識のために操作される可能性があるということを知らないのである。

(3)「皮肉的(Cynical)」:彼らは統計の背後にある本来的なバイアスに気づいている。しかし他人の数的情報については「バイアスがかかっている!」としてしりぞける彼らも、皮肉なことに、自分自身の仕事におけるバイアスについて認知することを拒否する。

どこの国でも事情は一緒なのね、と失笑を禁じ得ない。
まあでも記述統計はまだ良いとして、推測統計なんてそのメカニズムがわかっている人はほぼ小数なので、「統計は『魔法の創造物』だ」と思ってしまう気持ちもわからなくはない。わたしは逆に、大学1年のときにそこらあたりのメカニズムをひととおり聞いてしまったので、「そんなに不確定性の高い計算でたてられた経済予測なんて、当たらなくて当然だよな・・・」*2と訝しく思ったのを覚えている。あのときわたしが感じた「がっかり感」は、マジックの種明かしをされたときの「がっかり感」にも似ていたと思う。逆にいえば、推測統計って「マジック」的なところがある。それをそのまま受け入れてしまえば、(1)の「敬虔な宿命論者」になってしまうということだろう。

それはともかくとして、問題なのは(3)のタイプだ。
マジックに種があることを知った子どもたちに起こりがちな反応として、やたらと「アレには種があるんだぜ!」と言いまくり、マジック・ショーを楽しんでいる他の子どもたちに「種があること」を吹聴しまくることがある。が、(3)はまさにそれに似ている。「種がある!だから、あの統計はウソだ!いいかげんだ!」としか言わない人たち。こういう人にかぎって、自分の調査は完璧だ、自分は絶対に「ダマサレナイ」と思いこんでいるものだから、恐ろしいというか、バカらしいというか。ともかく、こういう人たちの集まるところで生じる議論は、まったく生産的でない。
(3)のタイプの人は、一見シッカリしてそうに見えながら、一番アブナイ人たちでもある。そこが一番の問題だと思う。なぜなら、そういう人たちは、実際に、統計調査の生産にかかわっていく可能性があるから。逆に、自分の調査に自信がなければ、それを公表していくこともできないから、ある程度の自信は必要なのだともおもうけれど、自分をクリティカルに見られないまま、大量のゴミ調査結果を産出されても困る。


ところが、今の日本の教育の中で、統計に関する教育がどう扱われているかというと、まあ良くて(2)のタイプの人々になれれば良いね、という程度なのである。そもそも日本の教育のカリキュラムの中で、既存の何かを「批判的にみる」ことが正当に位置づけられてこなかった。PISAの影響で、新学習指導要領から、うっすらとそんな風潮も入ってきたけれど、伝統的には、既存の制度を批判的に見たり、疑ったりすることは、カリキュラムの周辺部にちょこっと(例えば、家庭科の中の「消費者教育」として)入れられる程度だったのである。
少なくとも、日本の小学校から高校までの正規の教育のカリキュラムの中に、新聞や雑誌、インターネットに掲載されている統計を批判的に読み解いたり、自分自身のアンケート調査から導き出した表やグラフを反省する時間は位置づけられていない。


実際、そんな伝統的な教育の成果が結実して、多くの人たちは新聞や雑誌、テレビなどで流される統計データをなんとなーくそのまま受け入れているようだ。ようするに(1)か(2)のタイプである。だから、『あるある大辞典』で「納豆」がダイエットに良いと言われれば、スーパーに納豆を買いに走り、「バナナダイエット」がきくと報道されれば、スーパーからバナナが消えるのである。
ついでにいうと、学力調査の世界順位が落ちた落ちたと大騒ぎして、教育改革を必死ですすめる人たちも、こういう意味ではあまり大差がないと思われる。「学力」の定義がどうか、サンプリングは前回と比較できるようなものだったのか等、調査に対する疑問をあげればキリがないのに、調査結果の妥当性・信頼性を吟味される間もないまま、もう新学習指導要領の解説書まで発行されている。
まさに、日本の教育の成果である。すばらしい。


パオロ・マッツィーニは、おそらく「クリティカル・リテラシー」(critical literacy;批判的リテラシー)にあたる日本語として、「つっこみ力」という言葉を発明した。

つっこみ力 (ちくま新書 645)

つっこみ力 (ちくま新書 645)

リテラシー教育に関わる日本の研究者にとって、「クリティカル」(critical)はもっとも訳しづらい日本語のひとつである。だからこそ、近年は「クリティカル」というカタカナ語がそのまま使われていたりもする。ようするに、「クリティカル」とはなんなのか、その意味が日本人にはなんとなくつかみづらいのである。「批判的」というほど相手を攻撃するニュアンスでもなく、ただなんとなく無意識にやっていることを、意識的・自覚的に捉え直してみるというそんなニュアンス。
それを、「つっこみ力」という言葉で表したこと。これは、まさに発明だと思う。わたしはこの本を見たとき、「これでようやく、日本人にも、「クリティカル」という用語の意味が説明でいるようになった!」といたく感動した。(その割には、まだ本を買ってない・・・早く買おう。)


新聞や雑誌、ニュースで流れる統計情報に、「つっこみ」を入れること。「つっこみ」を入れられるようなリテラシーを育成すること。
PISA型読解力を賞賛する気はさらさらないけれど、今のこのPISAブームの中で、既存の何かに「つっこみ」を入れる教育が、日本の中でも定着してくれることを祈っている。一過的なブームであっても、そこから本当に必要なものだけを残しておくこと。これが教育学者に求められているのであれば、わたしは喜んでそこに関わりたい。


さあて、看護学校での授業を題材にしながら、「統計に対するクリティカル・リテラシー」の研究でもはじめますか。

*1:この本がいま手元にないので、わたしの訳で紹介しております

*2:もともとわたしは経済学のようなことを勉強する学部にいたのでした。