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kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「天使待ち」

研究 日記

あるいは、わたしの研究作法

昨日は、わたしも卒業したT大学N学類の卒論提出日だった。
4年生の卒論提出日が近づいてくる時期というのは、3年生にとっては卒論のための指導教官を選んだり、卒論テーマをぼんやりと決めなければいけない時期でもあるので、この時期になると、毎年必ず、同じような質問を向けられる。

「kimistevaさんは、論文のテーマってどうやって決めてるんですか?」
「論文のアイディアって、どうやったら出てくるんですか?」

そんなものがわかったら、研究者など不要なのだが*1、確かに、まったく何もない「0」の地点から、研究テーマを決めろというのは無謀な要求だという気がする。(これだからN学類はオソロシイ)きっと、こういうことを質問をしてくる3年生たちは、藁にもすがる思いなのだろうと思われる。
しかし、わたしの回答は非常に頼りない。

「うーん。・・・天使が降りてくるのを待つ感じかな。」

まったく参考にならない。
しかし、実際のところこうとしか答えようがないのである。ちなみに「天使が降りてくるのを待つ」というのは、漫画家・衛藤ヒロユキの「天使待ち」という言葉に由来する。『魔法陣グルグル』で有名な彼は、作品のネタがひらめくまでに自分が行っている行為(?)を「天使待ち」と呼んだのだった。「待つ」という言葉が入っていることからも推測されるとおり、彼は、部屋で仰向けに寝ころんでとにかく「待つ」らしい。何を?「天使」が降りてくるのを、である。

ただしわたしの場合、仰向けに寝っ転がっていてアイディアが浮かんだ試しはない。わたしの「天使待ち」は主に屋外で行われる。もっとも良いのが歩いているとき。あとは、車の運転中である*2。まったく風景の変わらない高速道路なんかをただただ真っ直ぐ走っていると、突然、何かが頭の中に降りてくる(気がする)のである。また風景が変化してもあまりに通い慣れたコースだと風景に知覚が向かわないので、これも良い。ともかく、身体を何か動かしていて、それにともなって視覚的情報がゆるやかに変化しているのだが、それがあまり意識に上らないという状況において、なぜか、突然、天使が降りてくるのである。「どうして」と聞かれても答えようがないが、事実そうなのである。
しかし言うまでもなく、これは私一人だけの特殊なことでもない。京都の有名な観光スポットに、「哲学の道」というのがあるが、これは哲学者・西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われる。きっと、その昔、西田先生もこの道を歩きながら、「天使待ち」をしていたに違いない。
昔、京都の小径(徒歩)。今、高速道路(ドライブ)である。
時代がかわると、天使が降りてくる場所も変化するのだ。きっと。

ところで、わたしに大学院進学を決意させた有名な若手の社会学者・K田先生は、わたしがアイドルの言説の調査にとりかかろうとしていたとき、こんなことを言っていた。
「調査でとってきた言説のデータ(雑誌記事やら新聞記事やらなんやら)を、バラバラーっと自分の周囲にばらまいて置いて、なんとなーく見ながら、酒でも飲んでると、それらの言説をつなぐ「物語」が見えてくるよ」・・・と。


「天使待ち」の間、わたしの頭で起こっていることは、ここで言われていることに近い。これまで見てきたさまざまな言葉、さまざまなイメージが混沌とした状態にある。歩いていたり、運転していると、この混沌がゆっさゆっさとゆさぶられながら、まるで紙一面にばらまかれた砂の下から、砂絵が浮かび上がってくるように、それがひとつの形態を構成していくのである。
バラバラにおかれた言説のデータを、酒でも飲みながらながめていると、確かに突然、一筋の赤か金色の糸のようなものが、複数のデータを結びつける(←本当)。

KJ法にせよ、「イメージの花火」にせよ、あらゆる「発想法」の原点は、ここにあるとわたしは思っている。ただあらゆる人に酒の力が平等に働くとは思えないので、自分の思考を越えた外部の力として、酒ではなく、特定の「ルール」を利用する、という違いがあるだけだ。だから最終的には、「『天使』が降りてくる」としか形容できない「何か」が起こることには違いない。その瞬間に起こる「何か」を説明することは、やはり、難しいし、結局のところ、それを説明することは人間にはできないのではないかとすら思ってしまうのである。・・・そんなことを言ってしまうと、「創造」や「発想」を日々研究している心理学者に失礼かもしれないが。

*1:余談。最近ではやたら精巧な映像記録システムが開発されたために、人間の会話が構成されている緻密なメカニズムを明らかにしようと奮闘してきた「エスノメソドロジスト」たちの仕事はなくなるだろうと言われている。が、わたしはそんなことはなかろうと思う。なぜならどんなに精巧なカメラ・システムであっても、特定の分析的視点を持って人間の会話の成り立つメカニズムを明らかにすることはできないから。機械にできるのは平坦な事実の記録だけであって、それを特定の視点から分析するのはいつまでたっても人間の役目だ。

*2:危険なので真似しないでください。