kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「頭」と「金」と「足」

先日、たまたまゼミに同席させていただいている方から「わたしって研究者に向いていないんでしょうか?」「どうしたらkimistevaさんのように聡明になれるのでしょうか?」と相談(?)のようなお世辞のようなものを受けとる。
巷の適性検査の類で「研究者向き」という結果があまり出たこともなく、自分のことをちっとも「聡明」だと思わないわたしにそんなことを言われてもなんとも言いようがないなぁ、と思いつつ、こんなコメントを返してみる。

わたしは自分のことを「聡明」だと思ったことは,まったくありません。

わたしが所属する研究室の先生が,昔よく,「研究をするためには,『頭』『金』『足』のどれか,もしくは複数があれば良い」と言っていました。わたしは今でもたびたびその言葉を思い起こしては,「自分には『金』も『頭』もないから,『足』しかないなぁ…」と思っています。(実際,わたしの博士論文の目次を見ると,いかにわたしが『足』だけで研究してきたかがわかります。「これだけいろいろ行ったんだから文句ないでしょ!」と言わんばかりのゴリ押しっぷりです(笑))
だから,「聡明」だと言われて,驚いています。
わたしなんて「頭」はないです!「足」しかないです!

このコメントで引用しているK先生のお言葉、「研究をするためには、『頭』『金』『足』のどれか、もしくは複数があれば良い」は、アカデミックな世界で認められるための「研究」というものの本質を捉えているように思う。

というのは、アカデミックな世界で業績が認められるためには、まず何よりも、査読をする人々に認められることが必要だからだ。査読をする人々も、人間なので、とりあえず「誰にでも『スゴイ』ことがわかる論文を認めよう」と思う。そんなわけで、莫大にお金のかかる研究(「金」)や、莫大な労働量が必要な研究(「足」)は認められやすい。少なくとも、キラリと光るような卓越した論理を展開したり、誰も考えなかったようなオリジナルな視点をもった研究(「頭」)と同じ程度に認められやすい。

ハッキリ言って、査読に通った論文を見ていると、とにかくマメにフィールドに通って莫大なデータを集めまくったのは良いけれどいまいち「キレ」のない論文とか、ウン万人規模の調査紙を配ったり、世界でいくつしかないとかいう機器を使用したりして金ばかりかかっているようだけれど、「これまでの知見とどう違うの?」と言いたくなるような論文というのもある。だけど、それはそれで、「金」や「足」を使ったことそのものがスゴイ!・・・ということになるのである。

もちろん、本来だったら「頭」+「金」、「足」+「頭」・・・と、複数のものがバランスよく組み合わさった上で、「スゴイ」と思えるようなものができれば良いのだど、とりあえず、「自分の『売り』はここです」と言えるものは持っておいたほうが良い。「研究者に向いてるかどうか」と悩んだとき、それはひとつの「北極星」のような役割を果たしてくれるからだ。

わたしの場合、それは「足」である。
それに「頭」が加わっていると言われたらいいな、と思う。でも自信があるのは「足」だけだ。
でもそれでいいと、わたしは思っている。とりあえず、何かがあれば、研究は始められるのだ。