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kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

価値(バリュー)を作りつづけること

今週末は体力的にも精神的にも少し余裕があったので、
以前から読みたいと思っていた雑誌や本を少しかじり読みました。

まずは事務所帰りに、『BRUTUS』2011年1・15日号(特集:本。2011年、「世の中」を考える175冊)からいくつかの対談記事を。

BRUTUS (ブルータス) 2011年 1/15号 [雑誌]

BRUTUS (ブルータス) 2011年 1/15号 [雑誌]

この『BRUTUS』の特集は全体的に面白かったけれど、
特にいとうせいこう氏と萱野稔人氏の「正義と個人」に関する対談記事の中で、
自分自身の研究や実践*1を考えるためのキーワードになりそうな言葉があったので、
メモとしてここに記しておきたい。

まずは、人間にとっての「社会的承認」の重要性について、萱野氏は以下のように述べる。

萱野:もう一つ大きなポイントとして、これはサン出るの政治哲学ですが、彼は「人間にとって社会的承認がすごく大事なんだ」ということを言っています。この本*2の最後の章でも「結婚がどこまで社会的に認められるべきか」という話をしていますよね。人間の人生もまた有限なわけですが、人は誰でも何らかの形で自分の人生に価値があったということを確認したい。自分が死んでゼロになってしまうなら、自分がなぜ生まれてきたのか?その意義を考えるわけですよね。しかしその時に、人間は社会的な形でしか語ることができないんですよ。「人の役に立っている」とか「ある分野で活躍している」とか、他者との関係の中でしか自分の存在意義を承認することができあに。それが「承認」ということです。その承認というものが必要な限り、人はある社会や共同体に帰属することを捨てられない。それが正義の問題に深く関わっている、とサンデルは言ってるわけです。
いとうせいこう×萱野稔人「正義と個人」『BRUTUS』,701,pp.17-18)

このように、人は「社会的承認」を求める。
だけれども、
それが「他人を蹴落として、自分がのしあがる」的なかたちで満たされる/満たされたいと願うようになると、負のループにはまりこんでしまう。
結局、誰かが誰かを蹴落として、自分がのしあがったような気になり、
その人も「社会的承認」を認める他の誰かに蹴落とされる、という仕組み。
そんなシステムが、すべての人をハッピーにするシステムだとはとても言えない。

だからこそ、そうではないかたちで、あらゆる人が「社会的承認」の欲求を満たされうるようなシステムが必要。
そのためにはどうしたら良いか。
いとう氏は、その問いに対して、「まず、『他者を承認する』こと」が大切だと述べる。

萱野:ルサンチマンに駆られて他人を攻撃することは、自信のないちっぽけなプライドで自己を正当化することにしかなりません。では、そういった嫉妬をどう考えればいいのか。
いとう:それは結局「他者を承認する」ということからしか始まらないんじゃないですかね。自己正当化するだけでは、社会性から遠ざかっていくしかないわけですから。他人を承認していくことで、回り回って自己も承認されていくんですよね。
萱野:そうなんです。だから、自分がいつでも「与えることができる」と考えた方がいいんですよ。お金がなくても「与える」ことってできるじゃないですか。
いとう:その通り!それって、まさにHIP HOP 的なものですよ。他人の作った音源をサンプリングしてトラックを使ったら、レコードの裏に「Respect to 〜」とクレジットして、またその曲をDJが使って他の何かに利用するとか、連続して回っていく。人間って欲しがるだけじゃなくて、「Give」したくなる動物でもあるんだと思うんですよ。そのことを僕たちは認めてもいいいはずなんです。
いとうせいこう×萱野稔人「正義と個人」『BRUTUS』,701,p.18)

つまり、すべての人が「与えられる」承認を待つ・・・というシステムではなく、
すべての人が「与えようとする」ところから始めなければならないのは、
「与えられる」システムでは、
「与えられた」一部の人が、それに嫉妬する他の人々から蹴落とされるという、
前述の負のループを引き起してしまうから、だと思う。

でも、結局「『Give』する」ってどういうことなの?
アーティストでもクリエイターでもない市井の市民が社会に対して「『Give」する」ってどういうこと?

こういう疑問を抱いた読者にとって、
この対談に続くいとう氏の下記の答えは非常に納得のいくものだと思う。

いとう:「良かったよ」「面白かったよ」って口に出して言うだけでもいいんだよね。そんなの、出し惜しみしないでいいじゃん!自分が与えれば与えるほど価値が湧いてくるんだよ。・・・(以下、略)
(同上)

市民が「『Give』する」、というと、
折しも民主党から「新しい公共」という概念が提示された昨今、やっぱり寄付とかそうでなければボランティアとしての労働力と思われがちだが、そうではなくて、「『良かったよ』 『面白かったよ』って口に出して言う」こと、そこから価値が湧いてくるのだというのは、すごく重要な指摘だと思う。

私が関わっている仕事でも、よく「新たな価値をつくる」という言葉が謳われる。
だけど、その「新たな価値」とは何なのか、「新たな価値」を誰が決めるのか、という問題は不問にされたまま、こういう言葉だけが繰り返される。

いとう氏の指摘がすばらしいと思うのは、
その「新たな価値をつくる」主体が、専門家でもなくアーティスト・クリエイターでもなく、
私たち市民であること、
そして私たちが「これこそ価値がある」と表明し続けることによって、
本当に「価値」が生み出されるのだ、ということを明らかにしたことにあると思う。

考えてみれば、「貨幣は、市民による投票である」と捉える資本主義経済は、
まさに、「市民が価値をつくりだす」「市民が価値を認める」という考え方に則っていたわけだし、
ここで新しいのは、「お金・貨幣(マネー)」と「価値(バリュー)」とを切り離して考えなければならない、
と主張したことにあるのかもしれない。

しかしそれでも、「お金・貨幣(マネー)」と「価値(バリュー)」があまりに一致した中で、
なんとなくみんなが、「価値の決め手=専門家」だと思い込んでいるときに、
あらためて、「価値を決めるのは専門家ではない」と言い切っておくのは大切なことなのではないか、と思う。

・・・というわけで、
私は今日も、「すばらしいですね!」「ステキです!」
「カッコイイ!」「愛してる!」と言いまくるわけです(笑)

*1:もちろん研究もひとつの実践に過ぎないのだけど、ここでは主に仕事やボランティアなどどで関わっているプロジェクトなどを示す。

*2:マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』早川書房