「児童館」という境界。その横断と専有とカーニヴァル的空間について
2012年3月17日(土)。
各地でさまざまなイベントが実施されたこの日に、アーティスト・イン・児童館2012 Nadegata Instant Partyプロジェクト「全児童自動館」にいってきました。
内容については、youtubeに「予告編」もアップされているので、をそちらをご覧ください。
あらすじ
「中高生がつくる《全児童自動館》が開催される」
はじめは冗談だと思っていたこの話。
どうやら、みんな本気らしい。
そしてぼくらの”出来事”がはじまった。
ウェブサイトの中の「全児童自動館の楽しみ方」では、「模擬店を楽しむ」→「自主映画を観る」→「ライブを観る」→「撮影に参加する」というコースが推奨されていて、わたしもそのつもりで参加したのだけど、実際にいってみたら、「まずは映画を観てください」と勧められました。
そんなわけで、わたし自身は午前10時頃到着して、「自主映画を観る」→「模擬店を楽しむ」→というコースとなりました。その後、午後になってふたたび「自主映画を観」てから、「ライブを観る」→「撮影に参加する」というかたちで参加したので、なんとなく、“螺旋状”に参加していった感じ。
これ、きっとどういうコースで見たかによって、かなり大きく経験が異なると思うので、はじめに触れておきます。
「小さすぎる」場所/「児童館」という境界
さて、そんな「全児童自動館」ですが、たまたまその場で出会った人たちの何人かが、
「児童館は、やっぱり、いろいろなものが小さいね。」
…という趣旨のことを言っていて、それがわたしにはとても印象的でした。
確かにそのとおりで、(児童館に行ったことがない人はわからないかもしれませんが)児童館という場所は、いろいろなものが「小さい」んです。
建物の天井が低いとか、置いてある靴やスリッパが小さいとか…そういう具体的なモノの話ではなくて、(もしかして、私に「小さいね」とおっしゃった方は、具体的なモノの小ささを指してそうおっしゃっていたのかもしれませんが)とにかく、「何が」というわけではないのだけれども、とにかく「小さい」。
少なくとも、わたしはいつも児童館に行くと、この全体で迫ってくる「小ささ」が気になります。
しかもこの「小ささ」は、「当たり前」の顔をして、私たち来訪者に迫ってくる。
この場所では「小さい」ことが「当たり前」で、お前たちはこの場所では「ストレンジャー」なのだと、そういうことを、児童館という場所全体から言われているような気がしてきます。
子どものために作られた、子どものための特別な場所。それは同時に、それ以外の存在に対して、「境界」をはる場所でもあります。だから、私たち大人は、児童館に入った瞬間に自分が「ストレンジャー」だと感じざるを得ない。児童館という建造物全体が、児童でない者に「境界」をはる、排除しようとする。
だから、私たちはその場所に、どうしてもなんらかの居心地の悪さを感じてしまう。
唯一その場に、居心地よくいられる方法は、「(子どもを)ケアする大人」としてふるまうこと。つまり、子どもとの関係において自分を規定しないとどうしようもない、という状態に置かれてしまうわけです。
中高生の「居場所」?
児童館という場所の、そんな、居心地の悪さをそれまでに体験していた私にとって、「児童館を、中高生の『居場所』として活用しよう」という政策提言は、ハッキリ言って、児童館に行ったことのない大人の戯言でしかありませんでした。
中学1年生や2年生の一部はともかくとして、高校生になれば身長もほぼ大人と変わらない状態になるわけですから、私たち大人が「小さい」と感じるものは、彼ら/彼女らにとって「小さい」わけで、ひいていえば、私たち大人が「自分はここでは『ストレンジャー』だ」と感じるように、彼ら/彼女らにとっても、児童館は「居場所」になるほど、違和感のない場所になるとは思えません。
だから、彼ら/彼女らにとって、児童館で自分の「居場所」を見つける方法は、(私たち大人と同様に)ただひとつ、「子どもをケアする大人」として振る舞うこと、ということになってしまう。
もし、本当に、児童館を中高生の「居場所」としたいのであれば、「子どもをケアする大人」として振る舞わなくても、彼ら/彼女らが居心地の悪さを感じない場所である必要があるけれど、でもそれってとても難しいことなんじゃないか、というのが私の、いわゆる「中高生居場所づくり事業」に対する感想でした。
中村児童館のこと
しかし、いつの時代も、現実が机上の空論を超えていってしまうことは多々あるもので…
中高生が『子どもをケアする大人』として振る舞わなくてもその場に居心地の良さを感じられる児童館というものも、ポツポツでてきているようで、
そのことを、わたしがはじめに知ったのが、中村児童館でした。
わたしがはじめて中村児童館に行ったのは、中村児童館の「サマーステージ」でのこと。
しかもこのときわたし、何を思ったか 自 分 も 出 演 し ま し た。
中村児童館の「サマーステージ」の出演者は基本的に中高生が中心で、ジャグリング部によるジャグリングや、バンドのライブ、ダンスチームによるダンスなどがあって、なかなか見応えがあります。
ちなみに私は、あんどーなつ(中村児童館の職員)が参加している「立ち回りの会」の演武に出演しました。
本当は立ち回りで出たかったんだけど、仕事が忙しすぎて稽古が間に合わなかったので、当日急遽「町娘」役で出演させていただきました(笑…なにやってんだ、ワタシは。)
そんなわけで、そういう大人チームの出演もあったりします。
そんな「サマーステージ」を見ていて、こんなに「小さい」児童館だけど、それを転用・専有(appropriate)していくことで、中高生が主役のステージが作れちゃうんだなぁ!…と感動したわけです。
中高生がメインのステージを、小学生やそれ以下の子どもたちも見ていて、なんとなくその場を楽しんでるといこと。
ここまで、子どもでない人たちに対して境界をはり、排除しようとする空気すら感じる児童館の中で、そういう「逆転」の場をつくるのって、ものすごい力技だと思います。
路上を自分のホームにしてしまうホームレスや、
都市のさまざまな商業施設を、自分の生活スペースに転用するギャルたちに匹敵する力技。
それが、児童館職員と中高生と小学生以下の子どもたちの絶妙なコラボレーションによって実現されてる――そんな瞬間を垣間見た気がしました。
ただ、一方で現実はそこまで簡単には変わらない、と実感したのもこの日のこと。
「サマーステージ」が終わったあと、高校生かOBの誰かが、その日行われたバンドのライブについて、「あいつら、あんな小学生にわかんねー曲やってどうすんだ。わかってねーよな。」というようなことを言っているのを聞きました。
そんな配慮が高校生くらいからできるんだ、と一方で関心しつつ、やっぱり「子どもをケアする大人」という振る舞いからは逃れきれない…ここはやっぱり「児童館」なんだ、と思ったのを、今でも覚えています。
彼らは気づいていないかもしれないけれど、「子どもをケアする大人」として振る舞うことは、「児童館」における、小学生/中高生/大人という境界を強化する方向にしか働かない。
そんなことを思いながら、わたしはその日、帰途につきました。
「全児童自動館」という混沌、そして、越境
さて、そんな思いもかかえつつ、久しぶりに訪れた中村児童館。
そこで、「全児童自動館」は行われていました。
この日だけ訪れた人にはわからないかもしれないけれど、午後から行われた「ライブ」は、中村児童館でおこなわれている「サマーステージ」や「ウィンターステージ」を“拡張”しただけのもの(もちろん良い意味で)で、わたしは、そのことにいたく感動。
以前、「サマーステージ」を見たときのように、ダンスチームがおり、ジャグリング部がおり、ライブをやるバンドがあり、ふざける男子バンドもあり……それは、一見、ものすごい一回かぎりのイベントのように見えるけれど、実はそれは中村児童館が毎年行っている「日常」の一部でもある、という構造が面白い。
さらに、このイベントや模擬店と並行して上映されている「自主映画」では、そんなイベントや模擬店に出演している彼ら/彼女らが、また別のドラマの主人公として登場する。
この「自主映画」は2本あり、ひとつは、高校生チームの脚本・監督によるもので、もうひとつが、Nadegata Instant Partyによる「全児童自動館」なのだが、イベントのタイトルでもある「全児童自動館」の方が、「ドキュメンタリー映画」であるとうたっている点も重要であると思う。
Nadegata Instant Party が水戸芸術館現代美術センターの展覧会企画として制作した映画、『学芸員Aの最後の仕事』が、本物のギャラリーを舞台としつつも、基本的にはフィクションであったことと比べると、このことの意味は大きい。
とはいえ、実際、映画を観てみると、「ドキュメンタリー?」と言いたくなるような、中崎先生のスーパー現代詩(笑)が出てきたりもする。
(映画を観たあとに、模擬店(?)のひとつである「中高生喫茶」にいったわたしとしては、高校生が中崎さんのスーパー現代詩を語る、あのズレとか違和感と、「中高生喫茶」にいる中高生たちのスーツの似合わなさが、なんとも一致しているように思えて、それもまた面白かったのだけど。)
しかしそれでもなお、映画『全児童自動館』は、フィクションのまじった「ドキュメンタリー映画」なのであって、そこでもまた、ドラマ的なフィクションと、ドキュメンタリー的なフィクションと、日常とか入り混じる。
実際に現場で生じているイベントにおける、虚(フィクション)/実(日常)の混淆。
映画の中で生じる、虚(フィクション)/実(日常)の混淆。
その両側が互いに浸食しあって、互いの壁を溶かしあう中で、
「児童館」という境界が少しずつ溶け出していく感じが、確かに、あった。
「中村橋いいっすねツアー」
会場の最寄駅である中村橋駅から、会場である中村児童館までの道のりを、小学生の男の子3人がガイドしてくれる「中村橋めっちゃいいっすねツアー」は、そういう意味で、いろいろ象徴的なツアーだった。
ツアーそのものは、もちろん、非常にゆるい。
「おかしのまちおか」「ガスト」「マクドナルド」など、彼らにとって意味のある場所について語ってくれるのだけど、たとえば、「ガスト」の案内だと…
A「僕は、ガストではイタリアンハンバーグを食べます」
B「僕は、ハンバーグを食べます。」
C「僕わかんない」
B「(Cに)なんでわかんないの?なんかあるだろ?」
C「だって、お母さんが頼んだの食べるんだもん。」
…みたいな感じで、「なんじゃそりゃ」と言いたくなる。
ここには、イベントの裏にある、かなりリアルな日常だけがある。
そして最後に、3人で「めっちゃいいっすね!!」と言ってから歩きだすのだけど、その歩き出している間に、児童館のスタッフの方が、この日のイベントがはじまる前のエピソードあれこれをコッソリ教えてくれたりする。
「大人スタッフが「ガスト」で打ち合わせしているときに、高校生たちも「マクドナルド」で打ち合わせしてて、お互いに「わーっ!」て手を振りあったんですよ〜」…とか。
まさに、「バックヤード・ツアー」というにふさわしいツアー。
虚実入り混じる世界にあるその日の児童館と、完全にバックヤードのリアルを見せてくれるこのツアーはかなり対照的で、それによって、児童館で行われていることのフィクション性が浮かび上がってくる。
もうひとつこのツアーで重要なのは、このツアーが、「中高生が主役のメインステージに向ける客の誘導を小学生がサポートしている」という位置づけになっていること。もしかしたら、本人たちはそう思っていないかもしれないけれども、私たち来場者からしたらそう見えるようになっている。だって、到着したとたんに、そのメインのステージが開始するのだから。
さきほど、中高生たちが「子どもをケアする大人」の振る舞いに束縛されてしまうことの問題性について述べたけれど、ここではそれとは逆に、大人や中高生をケアしようとする子どもたちの姿がある。
1日限りの文化祭とドキュメンタリー映画という、祝祭の中での逆転劇。
カーニヴァル的逆転劇
あらためて強調しておきたいのは、そういうさまざまな出来事が、「年上を敬う」とかそういう道徳的な規範とは遠く離れたところで、起きているということ。
「中村橋めっちゃいいっすねツアー」の小学生男子3人組だって、「踊らにゃ損そん!」くらいの勢いで、ツアー役を買ってでたのだろうと推測する。
その虚実入り混じる、カーニヴァル空間の中に参加すること。
その中で、既存の仕組みや権力や束縛への追従と反抗が入り混じり、交錯し、反転されていたということ。
この中で生じていたことは、単に、そういうことなのだ。
だけど、それは1日限りの祝祭ではあるかもしれないけれど、それは、確かに存在したことによって、日常を変える。
もちろん、この祝祭があったからといって、完全に「児童館」という境界がなくなるわけではない。「児童館」は次の日には、またもとの「小さい」場所に戻るだろう。
けれども。
そう、けれども。逆転劇を引き起こすそのカーニヴァルが存在したことによって、そのいつもの日常のその下に、何か違うベクトルが生まれたことを、わたしは遠くから想像する。
さて、今度の「サマーステージ」はどんなものになるかしら。