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kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

“ネバーランドの学校革命”~放課後の学校~

「放課後の学校クラブin浜田小学校」でのトークイベントに、司会として出演させていただいた際にお世話になった、浜田小学校の元校長先生の訃報をいただきました。

 

「放課後の学校クラブin浜田小学校」は今年3月に、これまでの活動の中で見えてきた活動の流れや成果をもとに、放課後の学校クラブの教科書『もうひとつの学校のつくりかた』を発行したばかり。

私も数か月前に『もうひとつの学校のつくりかた』をいただきました。

 

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「放課後の学校クラブの教科書」という名のとおり、通常のアートプロジェクトのドキュメントとは一味もふた味も違う…まさに、これから活動を始めようとする人たちのための「教科書」。

 

内容もゲームブック形式になっていて、まるでアドベンチャー・ゲームを進めるように、「もうひとつの学校をつくる」ための冒険を楽しみながら、読みすすめることができます。

 

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この『もうひとつの学校のつくりかた』には、何人かの方がそれぞれの立場から、「放課後の学校クラブ」についてのテキストを寄せているのですが、かくいう私もテキストをひとつ寄稿させていただいております。

 

『もうひとつの学校のつくりかた』は「探究編」「実現編」「資料編」「研究編」の4編からなるのですが、そのなかの「研究編」として、「もうひとつの学校をつくる意味について学術的に意味づける」という文脈でのテキストです。

 

そんな重要な役割を、わたしのような研究者の卵に任せてしまってよいのだろうか…?とずいぶん悩みましたが、「放課後の学校」の出席率では他の研究者の方に負けない自信がありますので、腹をくくって、自分自身が経験したこととそこから考察される「放課後の学校」の意味について書いてみることにしました。

 

最終的に、完成したテキストは以下のとおりです。

 

ネバーランドの学校革命

 

 放課後の学校のなかで、印象に残っているもののひとつに、「おまつり学校」のカクテル屋台がある。

 

「カクテル」と言ってもノンアルコールのみ。しかも、それを飲む前には何が混ぜ合わせられているかわからな「闇カクテル」である。カクテル屋台には、ラベルがはがされた瓶のなかに様々な色の飲み物が入れられている。そしてその前には数字がかかれたカードがある。屋台を訪れると、それらの番号のうち2つを指定するよう言われるのだが、そもそもそこにあるのはなんの飲み物なのかもわからない。私はすっかり困りはててしまって、「おすすめは何ですか?」と聞かざるを得なかった。すると、カクテル屋台の「先生」は、なにやらオレンジ色の飲み物(オレンジジュース?)と黒い色の液体(!?)を混ぜ合わせた、非常に禍々しい色の飲み物をプラスチックコップに入れて渡してくれた。いぶかしげに少しだけ口をつけてみると…マズイ!見た目のとおりアヤシイ味がする。かろうじて残りの味から、あの黒い液体がコーヒーだったことがわかって、少し安心するものの、オレンジジュースとコーヒーをまぜあわせた「カクテル」は、苦いなかにベタベタと甘みがあり、それがなんとも毒々しい。


 この毒々しいカクテルは、「もうひとつの学校とは何だったのか?」という問いへのひとつの回答を示しているように思う。『ピーター・パン』を愛し映画化を熱望していたスティーヴン・スピルバーグが大金を投じて作った映画『フック』のなかに、ネバーランドにいる子どもたちが食事をするシーンがある。そのテーブルに並ぶのは、カラフルな色をした毒々しい外見の「何か」。「おまつり学校」のカクテルは、まさにこの「何か」そのものだったと思う。ピーターに会えないまま大人になってしまった私でも、ネバーランドに一瞬だけ触れることができる。

 

 また、このネバーランドの象徴たるカクテルが、「おまつり学校」の授業として提供されていた点も興味深い。ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』によって明らかにしたように、学校とは、そのさまざまな制度を通して対象となる子どもたちを、自ら進んで従属する主体(subject)へと訓練していく権力装置である。「おまつり学校」は学校である。だからこそ私は、「カクテル」という名の毒々しい色をした液体を、アヤシイと思いつつ飲んでしまうわけだ。なぜならそれは「学校の授業」で、「先生」がそう言っているから(!)。

 

 私はここに、ネバーランドの子どもたちが、悪意に満ちた笑顔で、学校的制度を転覆させ、攪乱させる姿を見ずにいられない。放課後の学校に参加する子どもたちは日常的に学校に通う、「普通の」子どもたちである。彼らは日々、学校という権力装置のなかで生活をしている。子どもたちにとって「学校」は空気のように当たり前に存在するものでしかなかったかもしれない。しかし、喧噪と笑いあふれる放課後の学校クラブでの話し合いや遊びのなかで、「学校」は創造的に誤読されていく。「授業では先生の言うことに従わなければいけない」という従順のためのルールは、「生徒」役たる大人たちに、自分たちのいたずらを仕掛けるための罠として読み替えられる。それはあたかも、「だるまさんが転んだ」をより面白く遊ぶために、その場で勝手に決められたルールのようだ。こうして「学校」という権力装置を象徴するルールは、遊びをより面白くするためのルールへと結実していく。「もうひとつの学校」とは、創造的な誤読によって突如生み出されたありえなかった場所=ネバーランドなのだ。

 

今回の訃報をいただいて、わたしがあらためて思ったのは、「ネバーランド」はそれを信じ、その魅力に惹かれ続ける大人たちの存在があって、はじめて存在し続けるのではないか、ということでした。

 先生は、ネバーランドの中に、たしかに存在していたし、その場を存在させることの意味を誰よりも強く確信していたのではないでしょうか。

 

残された私たちにできることは、先生が残された「ネバーランド」の存在を信じつづけること。「ネバーランド」の存在を信じ続ける大人で有り続けることだけ。

 

そうであるとするならば、私はその残された仕事をまっとうしたい、と思います。

ネバーランド」がいつまでも、存在しつづけるために。