kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

セクシュアルマイノリティと児童文学について考えること

夏休みに入る直前に、ある学生と話したことをきっかけに、児童文学におけるセクシュアル・マイノリティの表象に興味をもちはじめました。

 

学校におけるセクシュアル・マイノリティの問題については、以前と比べればかなり広く認知されるようになってきていると思います。

今年4月には文部科学省「性同一性に関わる児童生徒に対するきめ細やかな対応の実施等について」という通知を全国の国公私立学校に提出。それがNHKニュースをはじめ、いくつかのニュースなどにも取り上げられました。

「Change.org」では、セクシュアル・マイノリティの子どもたちに配慮した教科書を求める署名サイトが公開されており、現在すでに2万人以上の賛同署名が得られているようです。

www.huffingtonpost.jp

 

 

もちろん、教科書のなかでセクシュアル・マイノリティを扱うことには、大切な意味があると思います。

こちらの記事では、保健体育の教科書で、当たり前のように「思春期になると・・・異性への関心が高まったり」という表現がなされ、セクシュアル・マイノリティへの配慮が一切なされていないことが問題視されていますが、このような事態については批判的に議論されるべきでしょう。

子ども・若者たちのライフスタイルについて触れざるを得ない家庭科や保健体育科においては、教科書においてセクシュアル・マイノリティをどう扱うか、という問題をきちんと議論すべき時期にきていると思います。(いや、もはや遅すぎるのかもしれません。)

nikkan-spa.jp

 

では、この問題について、国語教育や読書教育は、何を、どのように考えていけば良いのだろうか、というのが私の当初の疑問でした。

はたして、国語科教育の教科書に掲載する文学的文章や説明的文章に、性的少数者を取り上げることが事態の解決につながるのだろうか、と。

この問題については、すでに永田麻詠さんが、「クィア」概念を国語科教育に導入することを提案されていたり、 「クィア」およびジェンダーの視点から小学校の国語科教科書に掲載されている教材を批判的に議論されています。

小学校国語科の教科書が、ジェンダーおよびクィアの観点から見て問題があることを指摘しながらも、そうであるからこそ、ジェンダーあるいはクィアの視点から批判的に読み解く学習活動の可能性が残されている、という提言には、これまでの論調とは異なる、新たな可能性を感じます。

 

しかし一方で、教科書からすこし距離を置いて、セクシュアル・マイノリティの子ども・若者の側から、彼らにとって何が必要なのかを考えてみたいと思ったことも事実です。

もしかしたら彼ら・彼女らにとって、教科書にセクシュアル・マイノリティの問題を載せることは、他者によってカミングアウトさせられるリスクを増大させるだけかもしれないからです。

小澤かおる「セクシュアル・マイノリティの問題と図書館のへの期待」には、次のような記述があります。

 

 「学校の図書室にあったって、まず手は出ないよね。」と当事者の一人が言うと、周囲から賛同の声が次々と上がった。コミュニティのイベントで当事者情報流通に関するアンケートを取ったときのことだった。

 セクシュアル・マイノリティ(性的少数者)は 地域・文化を問わずどこの社会にも5%程度は存在することが知られるようになったが、その特徴のひとつは、「見かけだけからはわからない」ことだ。もしか すると自分もセクシュアル・マイノリティの当事者か、と思った子どもの一部は本を参考にしようとするが、自分のことがわかるかどうかよりも「他人にそうい う人だと思われない」ことのほうが、多くの場合彼ら彼女らには重大で、そのような本を切望していればいるほど手に取りにくい。学校生活、テレビや雑誌など のマスコミ、そしてときには家庭内にも、セクシュアル・マイノリティに対する意識的・無意識的な差別や偏見があるからだ。

 他のマイノリ ティ(国籍や人種のような)の場合は、殆どの場合少なくとも片方の親は同じ当事者として家庭内にいるが、セクシュアル・マイノリティの場合は殆どがまった くの孤独の中で成長する。マスコミでネガティブでない情報も流れるようになったのはここ数年のことにすぎない。インターネットが普及するまでは、本や雑誌 は当事者が自己肯定し仲間と繋がる最大の手段だったのである。前述の調査においては、思春期前後に情報を求めた当事者は、地域の公共図書館大学図書館を よく利用していた。当事者、あるいはセクシュアル・アイデンティティ形成中の人々にとっては、学校・家庭・マスコミ以外の情報へのニーズはいまだに大き い。

 

「学校の図書館にあったって、まず手は出ないよね」という意見とそれに賛同する声。
学校図書館の蔵書ですら手にとれないほどのリスクを抱える、セクシュアル・マイノリティの子ども・若者たちにとって、教科書でそのような問題を扱うことが果たしてなんらかの救いになるのかどうか、私にはわかりません。

それでもなお、上記引用にあるように、(学校図書館はまだ無理であるとしても)図書館に可能性があるのであれば、そこを手がかりにしながら、セクシュアル・マイノリティと教育の問題を考えていくことができるのではないか、と考えました。

 

折しも、2013年度に国立国会図書館国際子ども図書館で行われた「児童文学連続講座」では、水間千恵さんによる「児童文学とセクシュアル・マイノリティ」のレクチャーがあり、そのレジュメ紹介ブックリストが公開されていました。

www.kodomo.go.jp

 

私はさっそく、そのレジュメとブックリストを印刷し、ブックリストに掲載された図書――まずは、日本の作家によって書かれた図書から読み、この問題について考えていくことにしました。

 

日本の児童文学において、セクシュアルマイノリティとは何なのか。

どのように扱われ、それは社会的にどのような機能を果たしうるのか。

 

「文学についての素養がない」と高校時代に一蹴されて以来、文学について語ることを避けてきたわたしに、どこから何ができるのかはわからないけれど、一歩ずつこの問題に近づいていきたい。

そのためのまず第一歩として、このブログに読書記録を残していくことを考えていきたいと思います。