「セクシュアルマイノリティと児童文学について考えること」で書いた決意表明にしたがって、セクシュアルマイノリティが登場する児童文学・ヤングアダルト文学を読みはじめています。
まずはじめに手にとったのは、如月かずさ(2013)『シンデレラウミウシの彼女』。
ガクとマキは兄弟のように育った幼なじみで中学の同級生。
部活も一緒のバスケ部という仲良しコンビ。
だが、二学期初日、教室にマキの姿はなく、心配したガクが放課後にマキの家に様子を見に行ってみると、なんとマキが女子になっていた!しかもガクとマキ以外誰もマキが男だったことを覚えていない。
マキがとつぜん女子になってしまった理由は、実はご近所の祠の恋の神さまのある思惑が関わっていて……?(講談社ブック倶楽部より)
講談社ブック倶楽部の本文紹介の最後の文が、「ずっと、そう思っていたはずだった。」で終わっていたので、「そんなこと最後に書かれたら、あとはやることはひとつですよね!?」という謎の確信(?)をもって、つい、この本を手にとってしまったわたしです。が、そこはさすがに児童文学。けして「やることはひとつ」ではありませんでした。当然です。
中高生向けの図書という意味では、YA文学もライトノベルもそんなにターゲットは変わらないはずなのですが、それでもやはり、YA文学は児童文学の一種であるということなのでしょう。
『シンデレラウミウシの彼女』のなかで面白かったのは、児童文学をめぐって存在しているであろうさまざまな慣習のなかでどこまで何ができるのか、が模索されていた点でした。
児童文学において、セクシュアリティを扱うことは、難しい。
横川寿美子(1987)「初潮という切り札:日本児童文学の場合」(『児童文学評論』第23号所収。『初潮という切札―「少女」批評・序説 』再録)のなかで、横川寿美子さんが、日本の児童文学が「やさしく控え目な『女らしい』少女を好んで書きながら、その少女の性に関する一切を徹底的にタブー視してきた長い伝統」があることを指摘しています。
その唯一の例外となるのが「少女の初潮」だということで、「初潮という切り札」のなかでは日本児童文学における「少女の初潮」の描かれ方が分析されていくわけです。
「少女の初潮」が唯一の例外であるくらいですから、セクシュアル・マイノリティは、たぶん、もっと難しいような気がします。
川島誠(1988)「気持ちいいものとしての女の子の性」(『飛ぶ教室』(光村図書)所収。日本児童文学者協会編『転換する子どもと文学 (現代児童文学論集)』再掲)のなかで紹介されている、岩瀬成子『額の中の街 (理論社の大長編シリーズ) 』では、主人公・尚子(14歳)の同級生の岸子が「いいにおいがするといって尚子にレズビアン的に接近し、尚子はそれを嫌悪」するというシーンがあるようなのですが、こんなかんじで、全体的に(セクシュアルマイノリティ的なものも含め)セクシュアリティは否定的なものとして描かれているようです。
そんなわけで、『シンデレラウミウシの彼女』のなかでも、恋愛感情は取り扱われても、セクシュアルな部分に関わりそうな部分はいっさい出てきません。キスもなし。手は一瞬つながったような気がしますが、そのくらいです。
個人的には、主人公の男の子が女の子に変わってしまった自分のおさななじみの髪をきってあげるシーンがあるのですが、そんなシーンにエロさを感じるのは、わたしが腐ってるからなんじゃないかと思います。
そうであれば、単なる(?)プラトニック・ラブストーリーなので、異性愛だろうと同性愛だろうとそんなに変わらないのではないか、と思ってしまいます。
が、それにも関わらず、かなり慎重に、同性愛のストーリーになってしまうことを慎重に避けているような、どうにか異性愛のストーリーとして読み切ってしまえるような工夫がなされている印象を受けました。
そのような物語の象徴として登場するのが、タイトルにもある「シンデレラウミウシ」。
物語中、シンデレラウミウシが登場する場面はふたつあるのですが、そのうちのひとつである冒頭のシーンでは次のような場面が展開します。
舞台は、主人公の男の子・ガクとそのおさななじみの男の子・マキが、小学校の修学旅行でいった水族館。水族館のなかで、シンデレラウミウシの展示をふたりで見ている最中、ガクは説明用のプレートをのぞき込みます。
どうしてシンデレラなんて名前になったのか知りたかったのに、説明には由来は不明とはっきり書いてあって、おい、と突っこみそうになる。けれどそのあとで、おれは続きの説明に書かれた雌雄同体という言葉を見つけた。
「雌雄同体なのか、ウミウシって。」
「えっ?なにどうたい?」
「雌雄同体。オスとメスの区別がないってことだよ」
マキに教えてやってから、おれはまた水槽をながめた。マキが指差した二匹のウミウシは、まだぴったりと身を寄せあっている。まるで、恋人同士のように。
そんな二匹を見ていたら、自然とそのつぶやきが、おれの口からこぼれた。
「・・・・・・めんどくさくなくていいな」
「めんどくさくない?」(pp.6-7)
このシーンは印象的なシーンとしてガクのなかに残り、それがマキに対する恋愛感情の自覚へとつながっていきます。
水槽の青にテラされたマキの横顔を、おれは今でもはっきりとおぼえている。そのときにつぶやいた、めんどくさくなくていいな、という言葉も。
自分で気づいていなかっただけで、おそらくおれはあのときすでに、マキのことが好きだったのだろう。だからあんな言葉が無意識にこぼれた。ウミウシのように雌雄の区別がなければ、ためらうことなくおれの気持ちを、マキに伝えることができるから。(p.16)
そして、
マキのことを好きだと気づいてから、おれはずっとそれ以上のことを望んでいなかった。それ以上のことなんて、望めるはずもなかった。
だけどもし、マキが男じゃなかったなら、
「・・・・・・こんなふううに悩まなくてもすんだのにな」
誰もいない部屋で、おれはぽつりとつぶやいた。マキが女だったらよかったのに。そうすれば、おれはすぐにでもマキに好きだと言えるのに。(p.18)
この話の流れのなかで、シンデレラウミウシ(=雌雄同体) から、性別のない状態への憧れへと展開するのはわかるのですが、そこからなぜ、「だけどもし、マキが男じゃなかったなら」「マキが女だったらよかったのに」という願いへと展開するのか、が私にはわかりませんでした。
主人公・ガクは、物語冒頭から読者に対して、同性を愛していることを告白しています。この物語は、はじめから最後まで、セクシュアル・マイノリティのプラトニック・ラブ・ストーリーであることもできた。
だけれども、性別のない状態への憧れから、「マキが女だったらよかったのに」というこの部分の流れのなかで、その可能性がなくなってしまうのです。
そしてこの後、あらすじにも書かれているとおり、マキがある日女の子になってしまう(!)という展開へと続きます。
その結果、全体をとおしてみると、山中亘(1982)『おれがあいつであいつがおれで (1982年) (旺文社文庫) 』のような、児童文学における「性別転換もの」にカテゴライズできるような物語になっているように私は思いました。
逆にいえば、『おれがあいつであいつがおれで』のような、「性別転換もの」の系譜のなかに、セクシュアル・マイノリティが登場する児童文学の可能性があるのかもしれません。
そして、そのように考えてみると、『シンデレラウミウシの彼女』が開いてくれた今後の可能性も見えてくるような気がします。
これまでの性別転換ものが、本人たちの意志とは無関係に「性別転換しちゃった!」のに対し、『シンデレラウミウシの彼女』では、登場人物同士の関係性や彼らが抱く願いにもとづいて、ジェンダーの越境が行われている。
今回の場合、本人の意志でジェンダー越境が行われているのではない、という意味でまだ「不本意」性は残るけれども、すくなくとも、その越境には意味があり、意味があるからこそ、登場人物たちがそれについて葛藤し、悩むことができている。
そして、その結果、最終的に関係性がもとに戻ったあとも、一度、生じたジェンダーの越境が「なかった」ことにならない、という点も特筆すべき点だと思います。
全体的に、同性愛のストーリーになることを慎重に避け、最終的に、主人公・ガクとマキの関係性を、ホモソーシャルなもの(ホモセクシャルではなく)にまとめようとするかに見えたこの物語は、次のようなエンディングを迎えます。
もうマキとふたりだけで、あの水族館を訪れることはないだろう。それに、おれの思いをマキに伝えることも。だけど、それでいいんだ。すべてがもとに戻ったんだから。
たとえ好きだと伝えられなくても、マキと一緒にいられたらそれでいい。兄弟みたいな幼馴染として、これまでどおりマキのそばにいられたら、それでもう十分だ。そうやって自分の心を整理していたら、いつもマキのことを思うときに感じていた胸の苦しさが、わずかにやわらぐのを感じた。
いつか、この苦しみも薄れて消える日がくるのかおしれない。伝えられない思いと一緒に。今、自然とそんな気がした。
次々と話題の変わるマキのおしゃべりにつきあっているうちに学校に着いた。それからマキとならんで玄関で靴をはきかえようとしていたおれは、自分の下駄箱に見おぼえのない茶封筒が入っているのを見つけた。
おおれがその封筒を手に取ってながめていると、マキがわくわくした声で聞いてきた。
「なになにそれラブレター?」
「いや、ラブレターにしちゃ質素すぎるだろ」
冗談交じりに答えて、封が開いたままの封筒を逆さにすると、おれの手のひらにぽとりと小さなものが落ちた。
なにかと思って見てみると、それは祭りの夜に神社で見たおまもりだった。淡い紫色の袋に金色のひもが結ばれたおまもり。袋に書かれた文字は、恋愛成就。(pp.232-233)
「縁結びの神からの贈りものだ。ご利益あるぜ」というメッセージとともに送られた恋愛成就のおまもり。
この縁結びの神さまは、主人公・ガク自身がかつて、「マキとの恋愛を成就させたい」とお願いした張本人でもあります。つまり、その神さまは、いまでも、ガクとマキの恋愛を成就させるべく見守っている。
それを読んだ瞬間、目頭が熱くなるのを感じた。
あの野郎、とおれは我知らずつぶやいていた。こんなものを寄越して、いったいどういうつもりなんだ。せっかく心の整理ができたつもりでいたのに、まだあきらめるなと言いたいのか。これからもずっと、伝えられないつらさを抱えて、マキのことを思い続けろというのか。
おれは手のひらのおまもりをにらみつけた。しかしそれから、だけど、と静かに目を閉じる。
・・・・・・だけど、ああ。わかってるよ、神谷。
声にはせずに神谷に告げて、おれは再びそのおまもりを見つめた。
薄れかけていた胸の苦しさがまたもとってきた。けれどおれはその苦しさが、不思議といやではなかった。(pp.233-234)
シンデレラウミウシを見たときから生じた、性別越境の願いは、たんに「災いを起こした願い」に片付けられず、物語の最後の最後に、あらたなふたりの関係性(の可能性)を開いているように思います。
マキが女性でなければ、思いが伝えられないと思っていたガクが、物語の最後で、ほんの少しだけ、性別の呪縛からはなれられたと考えることはできないでしょうか。
それは、そうであってほしいと願う、わたしの妄想なのでしょうか。
しかし少なくとも、この物語は、最後の最後に、恋愛成就の神さまを登場させることで、読者である私たちに、性別の呪縛から逃れる可能性を、ほんの少しだけ残してくれているように思うのです。