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kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

サロンパスのようなナプキン:川島誠「電話がなっている」

セクシュアルマイノリティと児童文学

以前の記事にも書きましたが、児童文学におけるセクシュアルマイノリティの問題を考えていると、どうしても、児童文学におけるセクシュアリティの問題にぶつかります。

 

だれかを好きになった日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)』の中の「解説」にも、そのことについて触れられていた部分がありました。

 

  児童文学は、あまり恋愛と犯罪を書きません。性(セックス)と悪は、人間の本質をなすものですが、本質であるがゆえに、児童文学にとってはタブーとなってしまうのでしょう。(pp.186-187)

 
「解説」では、このような前置きがあったうえで、「タブーを超える試みとして、『電話がなっている』は果敢なものだと思います」と書かれてします。本書所収の川島誠『電話がなっている』を、児童文学における性(セックス)のタブーを超える試みとして、解説者である石井直人さんが高く評価されていることがわかります。

 

『電話がなっている』の作者である川島誠さんは、以前の記事で紹介した論考「気持ちいいものとしての女の子の性」(『飛ぶ教室』(光村図書)所収。日本児童文学者協会編『転換する子どもと文学 (現代児童文学論集) 』所収)の著者でもあります。

実はこの論考のなかでも、(作品名こそ出さないものの)本作品のことについて触れられていて、川島さんご自身が本作品のなかで、「気持ちいいものとしての女の子の性」にチャレンジしていたことを知ることができます。

 

さて、そんな作者ご本人にとっても児童文学研究者にとっても、「タブーを超える試み」とされた『電話がなっている』ですが、物語のエンディングが、あまりにグロテスク(?)なせいか、タブーを超える性描写はあまり読者の記憶に残っていないことが多いようです(例えば、こちらの記事)。

いろいろな意味でチャレンジングな作品なんですね・・・。

 

というわけで、『電話がなっている』における性(セックス)に着目して見てみたいと思います。以下、ネタバレなうえに、きわどい言葉が並びますので、いろいろな意味でご注意ください。

性描写が出てくるのは、こちらのシーンになります。

 

 翌日、君は、いつもの君にもどっていた。むしろ、晴れやかに、楽しそうにさえしていた。学校の帰り、君は、ぼくを君の部屋に連れていった。君は、問いつめようとするぼくをほうっておいて、遠足なんかで使うビニールのシートをベッドに敷き、ひとりで服を脱ぎはじめた。のどがカラカラになってしまい、たまらなくなって君を押し倒そうとしたぼくをとどめて、君は言った。あたしは、早く、一度大人になりたかったの。そうなる準備があたしのからだにできたのなら、すべてを一度にすませて、早く自由になりたかったの。君は、ベッドで中腰になってパンティを下ろすと、脚の間にサロンパスのようについているナプキンを、慣れない、ぎこちない手つきで気持ち悪そうにはがした。(pp.150-151

 

これだけでも十分生々しいと思うのですが、その後、このシーンにはこのような記述も付け加えられます。

 

 悲しい夜に続くおどろくべき時間に、ぼくは、ぼくのからだが君の上で溶けてしまうのではないかと思った。ぼくは、君のからだの中がとても熱かったのをおぼえている。(p.152)

 

おそらくここで描かれている、ふたりの熱い体は、本作品の最後に出てくる、「肉やの冷凍庫」に並ぶ「凍結し、かたくなった君のからだとぼくのからだ」と対比され、呼応しあっていると思うので、忘れられてしまうのが、逆に不思議です。

そのくらい、エンディングがショッキングだということですね。

 

なお、ここで「ボク」が「悲しい夜」と言っているのは、この日の前夜に、「君」が学校の音楽教師と一夜を過ごしたことを示しています。そのことについて、「君」は「僕」に、「一日の差でしょ、それに、もう口もきいてやってないんだから、何が問題なの」と言ったりしています。そんなわけで、ここにも明かに性的な関係があったことが示されているわけです。

 

生理(月経)があるときにセックスするというだけでもすごいのですが、初潮でしかも2日連続で違う相手とセックスしちゃう・・・ってすごいなこの子!と思うのは、わたしだけなんでしょうか。
でもその行為が、「すべてを一度にすませて、早く自由になりたかったの」と語られるとき、そこに、心の底から「自由」を感じてしまうのも事実です。

初潮が、女性というジェンダーを背負っていくためのイニシエーションとして描かれてきたことを思うと、その逃げられない儀式を、「自由」になるための儀式へと転換していく「君」の偉大さに感じ入らるを得ません。

ジェンダー的規範の強固さから「自由」になるための儀式として、それが必要だった、と言われれば、「僕」と同様に、私たち読者も納得せざるを得ないのではないか、と思います。

 

そういう意味で、『電話がなっている』は、ジェンダーアイデンティティの揺れや葛藤を描きだすのとはまったく異なる方法で、ジェンダーの檻からの自由を描き出している。もちろん、男性との異性愛的な関係をもつ異常、女性というジェンダーからは逃れられない。

だけど、初潮によって象徴的に描き出されてきた、がんじがらめのジェンダー規範からは逃れることができる。男性と一対一の関係をもつ「妻」であり「母」となるような女性象からはエスケープできる。

 

ここまで来ると、多様なジェンダーアイデンティティとか、多様なセクシュアリティへの距離はぐんと縮まったような気がします。

そもそもジェンダーセクシュアリティも、暗い葛藤や悩みのようなものとして描かれる必要はまったくない。気持ちよくて楽しい、ポジティブなものとして描かれてもいいはずです。

『電話がなっている』の「君」が見せてくれた抵抗のための儀式は、そういう可能性を見せてくれるような気がします。

『電話がなっている』の初出は1985年だそうです。

それからはや30年が経過して、「君」が示した問題提起はどこまで応えられてきたのでしょうか。