大学院の演習授業の発表で、ある研修生の方が「協働学習」についての発表をしてくださったことがきっかけとなり、大学院生たちと、高等学校におけるアクティブ・ラーニングについての議論が行われました。
「高等学校におけるアクティブ・ラーニング」といえば、昨年12月に東京大学と日本教育研究イノベーションセンター(JCERI)によるポータルサイト「マナビラボ」がオープンし、アクティブラーニングに関する初の全国調査とも言われる「高等学校におけるアクティブラーニングの視点に立った参加型授業に関する全国調査」の分析結果が公開されたこともあり、非常にホットなテーマでした。
授業での議論のなかで話題になったのは、協働学習などを中心とした、アクティブ・ラーニング型授業を導入・実施する際に、教師側も生徒側も、情緒的な人間関係を重視しすぎているのではないか、ということでした。
実際、今回の授業で発表してくださった論考*1においても、教師側の心配・不安として、「①生徒同士の人間関係の悪さがグループ作りに影響することへの心配・不安」「③クラスの中での関係がグループ作りに影響することへの心配・不安」「④生徒の個人的な特性によるグループ作りへの困難さの心配」がカテゴリーとして抽出されています。
一方、生徒側の調査結果を見ても、ほとんどの学年で、協働学習の心配・不安等として、「メンバーづくりやメンバー間の問題」と回答する者が多いことがわかります。
心配・不安要素として各学年でもっとも多いものを並べると、以下のとおり。
中1 「おしゃべり、話がそれる/うるさくなる」(4.2%)
中2 「おしゃべり、話がそれる/うるさくなる」(5.9%)・「メンバーづくりやメンバー間の問題」(5.9%)
中3 「メンバーづくりやメンバー間の問題」(11.3%)
高1 「メンバーづくりやメンバー間の問題」(13.0%)
高2 「おしゃべり、話がそれる/うるさくなる」(10.1%)
高3 「メンバーづくりやメンバー間の問題」(8.6%)
前述の「高等学校におけるアクティブラーニングの視点に立った参加型授業に関する全国調査」においても、学校を対象にアクティブ・ラーニング型授業の課題を質問する調査項目がありますが、その結果は、上記のような結果をさらに裏付ける結果となっているように思います*2
この分析では、学校種別ごとにアクティブラーニングの視点に立った参加型授業実施率、アクティブラーニングについての校内研修実施率、そしてそれぞれが課題と感じていることの関係が示されています。
学校種別を、設置者によって国立、都道府県立、その他公立(町立・区立・組合立など)、私立の4種類に分けて、アクティブラーニングの視点に立った参加型 授業の実施率をみたところ、国立、その他公立、都道府県立、私立という順位となりました。実施率の高い国立、その他公立に比べ、実施率の低い私立では、参加型の授業を行うことで「生徒の集中力が低下する」「授業内容に関係のない生徒の私語が増える」「生徒の思考が活性化しない」「なじめない生徒や、ついてこられない生徒がいる」といったところに、課題を感じているようです。そのため、「教員がアクティブラーニングの必要性を感じていない」といった傾向も高 くなっています。
「なじめない生徒やついてこられない生徒がいる」という言葉には、さまざまな解釈が可能なのですが、この言葉で問題として想起されることのひとつに、協働学習の課題として指摘されていたようなメンバー同士の関係性や、グループワークに参加することが苦手な生徒の存在がありそうです。
もちろん、グループワークで必要となるコミュニケーション能力を、単なる「スキル」として切り離してしまうことには、問題があるでしょう。
一方で、教師も生徒も一緒になって、グループワークにおけるメンバー間の人間関係ばかりを不安視しているという状況も、あまり健全ではないと思います。むしろ、これは「クラス」という過去から未来に続く、閉じられた人間関係の中だからこそ焦点化される問題であって、広く社会に開かれた人間関係であれば、そもそもそれほど問題にならないのではないか、とすら思います。
学習を生起させうる人間関係は、自分たちで協力してつくりあげていくべきものであるはずです。
もちろん、豊かな学習が生じうるようなコミュニティのデザインは必要ですが、「メンバー間の関係が悪かったらどうしょう…?」という不安に苛まされながら、既存のクラス内の人間関係に血眼になり「グループワークがうまくいくような」グループづくりの技術を磨くことに躍起になっている状況が、適切だとは言えないのではないでしょうか。
これに関して、「初等中等教育アクティブラーニング研究会」協同代表の杉山史哲さんが、昨年12月29日に、「学び合い」の授業への批判にこたえるかたちでツイートされていた内容がとても示唆深いものでした。
友達少ない(いない)子どもで且つ学力が低い子どもはどうやって生きていけばいいんでしょうか。今問題になっている貧困孤立中年ホームレスの人たちが、もし学校教育課程の中でちゃんと人と繋がれていたら救われるケースあったと思う。 https://t.co/Jvif96txCD
— 杉山 史哲 (@symphonicity) 2015, 12月 29
確かに友達少ないいわゆるコミュ症とされる人にとってはしんどい。でも、そういう人たちこそ、人と繋がれるきっかけとなる機会が保証されるのが学び合いの良さ。学力高いコミュ症の人たちは、安心してください、放っておいてもらえます。 https://t.co/Jvif96txCD
— 杉山 史哲 (@symphonicity) 2015, 12月 29
放っておいてほしい時に放っておいてもらえないような授業(構成的グループエンカウンター的な要素を取り入れた実践に多い)はしんどいし、そうやって構成された空間で強制的に作られる人間関係は長続きしないし意味はない。『学び合い』がアリだと思うのは、関わり合うことを強制はされないこと。
— 杉山 史哲 (@symphonicity) 2015, 12月 29
授業において、協働的な学習が成立しうる環境をデザインすることと、そうしてつくられたコミュニティへの情緒的な没入を求めることは異なります。そういう学習活動を「楽しい」と思わなければいけないわけでもないわけです。
誰かにとっては「楽しくない」かもしれないし、参加の度合いも異なることが予想されるなかで、それでも協働学習を行うこと、アクティブ・ラーニング型学習を行うことの意義は、もっと整理されてなければいけないでしょう。
社会的資本(social capital)の構築という視点は、そのような整理を行うためのひとつの視点となりうるものだと思います。社会的資本をつくるために必要なスキルやリテラシーとは何か、という視点から、アクティブ・ラーニングを捉えていくことも有用でしょう。
おそらく、そのように考えていくことではじめて、私たちは、既存の人間関係に依存しようとする現在のアクティブ・ラーニングへの視点が、相対化できるのではないか、と思います。