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Literacy, Culture and contemporary learning

「評価」と「批評」―『グローバル化時代の教育評価改革:日本・アジア・欧米を結ぶ』

大学院の授業で、田中耕治(編著)『グローバル化時代の教育評価改革:日本・アジア・欧米を結ぶ』(日本標準)を読んでいます。

 

今週の授業では、渡辺貴裕先生(東京学芸大学)の英語圏における芸術教育の評価の新展開」(第3章第4節)を読みました。

芸術教育において、「スタンダード」に基づく評価が広がる中で現れてきた「スタンダード」路線に対する批判。そして「スタンダード」とは異なるオルタナティブな評価のありかたを探ろうとする試み。

整理されたそれらの議論は、他ならぬ私自身が、水戸芸術館・高校生ウィークの中で「アートライティング」や「書く。部」に関わる中で考えてきたこと、2010年に「Tokyo Art Reserach Lab」の立ち上げに関わる中で考えたことに重なる部分が多々あり…、自分自身がこれまで行ってきたことと、これから行おうとすることをつなぐための道標を与えられたような気がします。

 

授業の中で、議論の中心になったのは、「批評(curitique; criticism)」「評価(evaluation)」の違い(あるいは,教育評価の文脈においてそれらは異なるのか、ということでした。)

本論文では、以下のようなアイズナーの議論が紹介されています。

「スタンダード」に関してアイズナーは、デューイ(Dewey, John)の『経験としての芸術』における、「スタンダード」は期待を固定するもので、「クライテリア(criteria)」は重要な質を効率的に探るためのガイドラインであるという区別を踏まえ、評価において重要なのは「スタンダード」ではなく「クライテリア」であるとしている。(p.203)

またその上で、アイズナーが、教師自身がこのような「鑑識眼」を持つべきとするこのようなアプローチとは別に、生徒自身の「鑑識眼」を育てようとするアプローチにも着目していたことを示す事例として、生徒同士による相互批評活動である「クリット(crit)」を取り上げています。

 

言葉の役割に注目した評価は別の形も取り得る。アイズナーが生徒による相互評価の一例として取り上げている、「クリット(crit)」と呼ばれる、教室で生徒同士が行う相互批評の活動もその一つである。

アイズナーは、芸術教育における評価について、教師が「鑑識眼」をもつことの重要性を述べていた。「クリット」は、生徒自身も「鑑識眼」を育てる必要があること、その際に言葉を用いた交流が有効であること、こうした活動そのものが評価という観点で捉えられていることを示していると考えられる。(以上、p205) 

 

ここで、「評価(あるいは、相互評価)」と「批評(相互批評)」という2つの用語が用いられていることが、議論の焦点になりました。

「スタンダード」と「クライテリア」の区別に関する議論を引き継ぐのであれば、「評価(evaluation)」と「批評(critique)」には重要な違いがあり、生徒たちの「鑑識眼」を育てるためには、(いわゆる「相互評価」ではなく)「相互批評」が重要だと理解できる。

一方、「クリット」に関する議論だけを見れば、「評価」「批評」が互換可能な用語として用いられているようにも見える。(もしかしたら、広義の「評価」と、狭義の「評価」があるのかもしれない。)

そうだとすると、教育評価の文脈において、私たちは「評価」「批評」との関係をどのように考えたら良いのだろうか…というのが、議論のポイントでした。

 

「『レビュー』と『批評』は異なるもの。『レビュー』は鑑賞者に向けて書かれるもので、『批評』は作家(や、作品全体をとりまくアートワールド)を育てるために、作家に向けられるもの」、

「地域アートへの『評価』はこんなにも議論されているのに、地域アートには『批評』が育っていない」…などの言葉を社会人として駆け出しの頃にたくさん聞いてきたわたしとしては、「評価」と「批評」を同じものとして考えるという発想がそもそもなかったので、この論点はかなり斬新でした。

 

確かに、本書を読み進めてみると、本章の「小括」で、次のようなまとめがなされていたりもして、やはり教育評価の文脈では、「評価」と「批評」の違いを分けて議論することには、あまり重きが置かれていないのではないか…と思ったりもしました。

この実践においては、ルーブリックの各レベルの「記述語」をきっかけとして、子どもの学習のリアルな姿が現れ、「共通のつまずき」が表れている。また、子どもの意識は「次のレベルに達するにはどうしたらよいのか」という学習改善の方法に集約される。この事例は、日本では総合学習の評価法として注目を浴びた「ポートフォリオ評価」における「検討会」の1つでもあり、まさしくアイズナーが示した「クリット(相互批評)」と軌を一にするものである。ここに、評価と学習改善をつなぐ1つの策が提示されているのではないだろうか。(p 213)

 

ポートフォリオ評価」における「検討会」が、「相互批評」として成り立つかどうかかは、その「ポートフォリオ」がどのようなもので、どのような学習活動の中で、どのように創り出されるのか、にもよると思うのですが、ポートフォリオ評価の検討会というものすべてが、芸術教育における「相互批評」と軌を一にするのかどうか、なぜそう言えるのか、が私にはわかりませんでした。

 

水戸芸術館・高校生ウィークのなかで、生徒たちの「鑑識眼」を育てるための「批評」の芽となるような活動を、何度か目にしたり、自分自身も企画運営をしたりする中で、やっぱりそれは「評価(evaluation)」というものとは、異なるのではないか、と感じています。

 

例えば、2007年に茨城県水戸第一高校の美術部の皆さんと一緒に行った、《夏への扉―マイクロポップの時代》展のギャラリーガイドの作成

この活動では、みんなでそれぞれ下書きを書いてきたあとに、その下書きについて、お互いにいろいろコメントしあったり、最終的にどういう「ギャラリーガイド」を作ろうか、という話をしました。

私が、有馬かおるさんの作品について紹介するために書いてきた原稿がこちら。

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この原稿について、「これは、このままの感じがいいから、このまま載せたほうがいいんじゃないか」と提案してくれたのは、参加してくれた高校生たちでした。

高校生たちが、「これはこのまま載せよう」と言ってくれたので、他の作品紹介文が、すべて活字化されてホームページで載せられるなか、これだけはいまだに画像ファイルでそのまま見ることができます。

 

このときの、私たちは、たぶん、「(相互)批評」をしていたんじゃないかと、今になって思います。

「批評」とは、「事物の美点や欠点をあげて、その価値を検討、評価すること」(『日本大百科事典(ニッポニカ)』)。つまり、まだ価値が定まっていないある対象に対して、その価値を見出したり、創り出したりあるいは対話によってその価値を交渉し見定めていくことであるともいえると思います。

これに対して「評価」は、その価値を判定すること、判断することに重きが置かれているように思います。

私たちが行っていた活動が、「(相互)評価」だとしたら、この原稿はそのままのかたちで残されていなかった気がします。

この原稿から提起される何か、価値のようなものに対して、対話の可能性が開かれている「批評」だからこそ、この原稿の価値が交渉される可能性が残されていた。そしてこの原稿の価値が交渉されるなかで、新たな価値が見出され、その結果として、素朴でありながらどこか本質を突いたような多くの言葉たちが、そのままのかたちで「ギャラリーガイド」となり、それがいまでも、このようなかたちで残されているのだと。

そしてこのときは、幸いなことに、《夏への扉》展の共同キュレーターでもあった美術批評家の松井みどりさんに、このギャラリーガイドをご覧いただき、松井みどりさんご自身から、ギャラリーガイドに対するコメントをいただくという僥倖にも恵まれました。

 

考えてみれば、高校生ウィーク「写真部」を含む、松本美枝子さんの写真ワークショップで起きていた、高校生や大学生、大人たちのやりとりも、それぞれに何らかの「批評」性を持っていました。

ピア・グループ型ワークショップによるメディア・リテラシー学習の支援:高校生対象の連続ワークショップ「写真部」を事例として

 

そこで起きていたさまざまな「学び」とその「学びのみとり」をめぐる相互行為を、あらためてきちんと見直し、「評価」の視点から言語化し、論述することが必要なのかもしれません。