kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

プレイフルな芸術と、遊びのアート化―「みっける365日展:アーティスと探す人生の1%」

本日、2018年2月24日、世田谷生活情報センター・生活工房にて、「みっける365日」展が始まりました。

www.setagaya-ldc.net

「みっける」は、現代美術作家の北川貴好さんが、2011年1月に、「朝から夜まで一日千枚を目標にデジタルカメラで写真を撮り、それを一コマ0.2秒の高速のスライドショーにして約4分の映像を遊びで作ったところから始まった」プロジェクト(「history」-30秒に一回みっける写真道場

www.mikkedojo.com

こちらの動画を見ていただくと、理解しやすいかもしれません。


30秒に一回見っける写真道場!

「みっける365日」展のホームページには、次のように説明されています。

切り取りたいものごととの関係性をつくろうとする、能動的な行為のこと。

これまで各地で展開してきた「みっける写真道場」は、1日に1,000枚写真を撮り高速スライドショーを作るプロジェクトです。

能動的に何かを「みっける」ことで現れた、あなたの思考や意思を映す写真――。

そんな写真の連なりを映像作品にして発表してきました。

この度の「みっける365日」は1日ではなく、1年。

つまり人生の1%以上を能動的に動き、おもしろくみっけるアクション! を積み重ねていくプロジェクトです。

 

「みっける」は、2015年頃から、それまでの「地域再発見」的な1day ワークショップの範疇を越えて、さまざまなアーティストたちとのコラボレーション・ワークを展開してきています。

「みっける365日」は、その中でも、市井の人たちが1年間撮りためた写真を使って、それを高速スライドショーなどのかたちで見せていくプロジェクト。今回は、世田谷という地域になんらかのかたちでかかわる人たちが、1年間、なんらかのかたちで撮りためた作品をもとに、アーティストたちのもと作品を制作するというプロジェクトになています。

わたしは、2016年に行われた「みっける日常ヨコハマ|だれかの365日とアーティスト」での試み―だれかが1年間スマホで撮りためた写真を素材にして、アーティストが「みっける」作品を制作するという試み―に、ある種の暴力性を感じていて、それを北川さんご本人に伝えていたこともあり、今回のプロジェクトがどのような展開になるのか、非常に楽しみにしていました。

 

…そんなこともあってか、今回、オープニング・イベント「『みっける』って、なんなん?」にゲストとしてお呼びいただきました。ありがとうございます。

 

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本日、展示会場では、まだ何人かの参加者の方々が、公開制作を続けられているような状況ではございましたが、そのような中、オープニング・トークイベントが開催されました。

わたしにとって、今回の大きな関心事は、「みっける365日」展で採用された、「ゼミ」システムが、アーティストと参加者とのどのようなコラボレーションを生み出すのか?ということ。そして、そのなかで「みっける」という仕組みがどのように意味づけられ、それが最終的に、どのような作品群に結実するのか?ということでした。

 

そんなわけで、トークイベントへの出演をご依頼いただいたことをきっかけに、森田幸江さんによる「みっける探偵FILE」のブログを熟読し、下記の記事を中心に、それぞれの「ゼミ」の特徴(?)として読み取れるものをスライド資料にしながら、トークを進めていくことにしました。

www.setagaya-ldc.net

上記ブログ記事のなかでは、各ゼミのその日の様子が、次のようなキーワードでまとめられています。

  • 北川貴好ゼミ──追加的
  • 青山悟ゼミ──魔法的
  • キュンチョメゼミ──二次元的
  • タノタイガゼミ──求心的

実際に、展示室に行って作品を見てみると、ここで書かれているような関係性がこう結実するのか…!と得心すもあり、逆に、疑問に思うこともあり…、トークイベントでは、そのあたりのことを、参加者の皆さんに、直接お伺いすることができました。

おかげで、今回の「みっける365日:アーティストと探す人生の1%」において見られた展開をもとに、あらためて、芸術でもあり遊びでもあるものとしての「みっける」のレンジが浮かびあがってきたように思います。

 

以下、展示について。

 北川貴好ゼミ《ミッケルシェア365荘》は、シェアオフィスのような建築物の中で展開されるそれぞれの部屋のインスタレーションと、共有スペースで展示される「みっける」的高速スライドショーが組み合わされたアプローチ。

写真の高速スライドショーで使われている写真は、(量を減らすために削除はしているそうだけれども)基本的に、1年間、関心のおもむくまま撮影されたような、生っぽい写真にみえる。
その写真の前に、小さくそれについて語る本人がプロジェクションされる。

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共用スペースを抜けたところにあるシェア・オフィスは、まさに、「その人自身の部屋」という感じ。

会期中、サテライト仕事場として機能するという部屋があったり…
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会期中、読書会の開催が予定されている、本の部屋もある。

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さらに、その隣には、ヴンダーカンマー(脅威の部屋)があり…、それぞれの人が、シンプルに、妄想や理想も含めた自分自身をありのまま提示してきている感じ。

それが集合的に集まったときに出てくる、一種の作品性(?)のようなもの、そのものを遊んでいる感じがまた楽しい。

 

タノタイガゼミ《マナザシレゾナンス》は、真っ白に塗られたプライベート・ルームの象徴的な場所に、それぞれの参加者の高速スライドショー作品が展示されている。

こちらはベッド脇のテレビモニターから流れる、「彼氏に撮影してもらった私」の1年間。

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…エロい。

まるで、タノタイガゼミの展示スペースとなった真っ白な部屋それ自体が、それまでタノタイガさんが「みっける」で作品として発表してきた男女三部作に連なる一作品となってしまっているよう。

「みっける探偵File」では、タノタイガゼミを「求心的」という言葉で表しているけれど、「求心的」すぎて、「求心」されすぎて、タノ・ワールドのなかにみんなが取り込まれていってしまった気さえする。

 

参加者たちの、1年間の日常を比較的ありのままに使いながら、インスタレーションでそれを再構成することで、作品化するこれらのゼミに対して、キュンチョメゼミと、青山悟ゼミは、参加者ひとりひとりを「アーティスト」として位置付けながら、アーティストが作品を制作するときに必要不可欠な、欲望(のようなものを)、それぞれのアプローチで引き出し、それを提示している感じ。

 

今日がたまたまオープニングで、まだ制作が終わっていないからだとは思うけれども、キュンチョメゼミ《みっけた!ヴァイヴス・トリッパーズ》では、作品と自分だけの世界に入り込んで、黙々と創作に打ち込む人たちが複数いて、それがとても象徴的であるように見えた。
とにかく、自分だけの世界に入り込んでいく感じ。自分の底にある欲望との真摯な対話。

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それに対して、青山悟ゼミで展示された作品群は、作品を展示する個々人になんらかの「正解」が見えている気がする。
「こうすれば『芸術作品』として見せられる」というゴールの存在が、信じられていて、それに向けて、自分自身がどこかで「見せたい」「伝えたい」という欲望をもっていたこだわりを発掘し、それをシンプルに、「芸術作品」として見せられるように提示している、という感じ。

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もちろん、だれかの欲望をそのまま提示されるというのは、他人にとっては気持ちの良いものではなくて、率直にいうと、「ぐえっ、気持ち悪い」と多少胸やけしそうになるようなゾーンであることも確か。

思い出してみると、この感覚は、二紀展を観に行ったときの感覚に似ていると思った。それぞれの作家たちが、自分の欲望を100%どころか120%で表現したような作品が所狭しと並べられた空間の、あの感じ。

そういう意味では、たしかに、《一人一人がアーティスト》なのかもしれない。

 

「みっける探偵FILE〈その4〉」によると、本プロジェクトに関わったアーティストが話し合っているなかで、「これをワークショップということにためらいがある」という話が出ていたという。
今回展示を見ていて、あらためて、「これをワークショップということにためらいがある」と言ったのは、いったい誰だったのだろうか、という疑問がわいた。

きっと、それぞれのゼミを担当したアーティストたちそれぞれに「ワークショップ」のイメージがあり、「ゼミ」のイメージがある。そのイメージのなかで、「これはワークショップではない」という違和感がどこかで生じたのだとしたら、それはどこなのか。

 

そして、「みっける」という装置が、「ワークショップ」や「ゼミ」、そして、「芸術作品」という枠組み自体をメタ化し、崩していっているように見えるのも面白い。

今回の「みっける365日」は、いわば、「みっける」を脱構築していく試みだったといえるのかもしれない。展示がオープンされたいま、それは解体されきっていて、まだ意味を見いだせていない。「みっける」が意味を見出していくのは、これからだ。

展示期間のなかで、この空間や展示はどのように変化し、位置付けられ、アーティストや参加者たちは、「みっける」の意味をどのように見出していくのか。

きっと、今回の「みっける」の意味が見出されるのは、これからだ。

可能であれば、展示期間が終わったあとにもう一度、このプロジェクトに関わった皆さんに、問いかけてみたい―「『みっける』って、なんなん?」