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Literacy, Culture and contemporary learning

ダークペダゴジーとしての評価を再考する~『一人ひとりをいかす評価』~

あまり体調が芳しくないことを良いことに、遠出するような予定はすべてあきらめて、家で、本を読んだり、映画を観たりしています。

おかげさまで、ようやく、インプットのための時間をとることができ、とてもありがたい。

もっともありがたかったのは、このタイミングで、自分自身の教職課程での授業との関わりのありかたを、落ち着いた静かな心で、じっくり考えなおすきっかけになるような出会えたことです。

 

ひとつは、C. A. トムリンソン & J. A.ムーン(2018)『一人ひとりをいかす評価:学び方・教え方を問い直す』北大路書房)。

 

 

もうひとつは、渡辺貴裕(2019)『授業づくりの考え方:小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ』くろしお出版

 

 

授業づくりの考え方』については、1/17発売予定とのこと。著者の渡辺貴裕先生から、わざわざお送りいただいていただいたおかげでこのタイミングで読むことができたのだと思うと、本当に、ありがたい。

 

まずは、『一人ひとりを生かす評価』について。

この本は、C. A. トムリンソン『ようこそ、一人ひとりを生かす教室へ』(北大路書房)の姉妹編ともいえる書籍で、1年くらい前に、訳者のひとりである山元隆春先生から、「一人ひとりを生かす教え方(diffrentiated instruction)」の評価編が出版予定であると聞いていて、とても楽しみにしていたのですが、期待していたとおりの本でした。

 

この本の大切さを説明するためには、次のエピソードを引用するだけで、十分でしょう。

 

このように一人ひとりをいかす教え方の「常識的な定義」を提供してくれた大学院生が、自分で説明を書き出したのにはわけがあります。彼は自分が一人ひとりをいかす教え方の理解を深めているときに何か大事な要素を抜かしてしまっているのではないかと不安になったからです。そして、一人ひとりをいかす教え方の枠組みをより理解していて、とてもわかりやすい説明もできていたというフィードバックを受け取ったとき、彼は当惑した表情を浮かべました。不機嫌な表情とさえ言えました。そして、こう言ったのです。「これが一人ひとりをいかす教え方のすべてなら、なぜみんんなやっていないのですか?」と。

…(中略)…

答えを必要としない彼の問いかけに対する正解は、ほとんど教師はすべての要素は道理にかなっていると思うことでしょう。常識と捉えるかもしれません。しかしながら、これらの常識は、古い習慣や世の中への対応を求められたりすることによって見えなくなっているのです。…

(C. A. トムリンソン『一人ひとりをいかす評価』, p205)(太字は引用者)

 

はじめに、今回出会った2冊の本が、「落ち着いた静かな心で、じっくり考えなおすきっかけ」になったと書きましたが、その理由がここにあります。

今回わたしが出会った2冊の本は、どちらも非常に「常識」的なことを書いているのです。だけれども、日々のように発されてくるさまざまな要請――それは古くから続く慣習によるものもありますし、変化し続ける世の中の動向に関わるものもあります――への対応を考えていくなかで、いつの間にか、それを見失いがちになってしまいます。――とても悲しいことですが。

だからこそ、こういったかたちで、あらためて「常識」ともいえるような、シンプルな考え方を見直させてくれる本は、とても貴重で、大切な存在だと感じています。

 

今回、わたしが特に感銘を受けたのは、「効果的な成績」の原則です。*1

 

  1. はっきり特定した学習目標を元に成績をつける
  2. 比較や相対評価ではなく、規準をベースにした(絶対評価の)成績を使う
  3. 何でもかんでも成績の対象にはしない
  4. 効果的な評価法のみを使う
  5. 「不透明な成績」をできるだけ減らす
  6. 「数学的な不透明な成績」を排除する
  7.  成績のサイクルの前よりは後の方で成績をつける
  8. 通知表の段階では「三つのP(パフォーマンス・プロセス・成長)」を使う
  9. 評価と成績のプロセスをオープンにする(以上、『一人ひとりをいかす評価』、p199)

 

このうちのいくつかについては、たしかに「一人ひとりをいかす教え方」に特有なもの、今の日本での評価のありかたを考えると、「常識」的であるようには見えづらいこともあるように思います。

もちろん、本書を読んでいただければそれらも非常に「常識」的でシンプルな原則のひとつであることがわかると思うのですが、わたしが特に「ハッ」とさせられたのは、もっともっとより「当たり前」な原則ともいえる、「5. 『不透明な成績』をできるだけ減らす」「6. 数学的な不透明な成績」を排除する」でした。

 

ここで「不透明な成績」の例として挙げられているのは、「例えば、提出がきれいでない、提出が遅かった、生徒が自分の名前を書かなったなどの理由で、教師が評価から点数を差し引いたとき」です。

「数学的に不透明な成績」の例として挙げられているのは、「生徒の成果物が行方不明だったり、生徒がテストでカンニングしたりしたときに、ゼロが与えられること」や、「成績を平均化」し、「平均」の得点をもとに成績をつけることです。

 

わたしが、これらの「不透明な成績」に関する議論から思い出したのは、「ダークペダゴジーに対する議論でした。www.kyobun.co.jp

ダークペダゴジーは、他者の成長や価値観、知識獲得に介入するための後ろ暗い方法論を指すもので、ドイツの評論家K・ルチュキーによって1977年に命名された。具体的には、▽暴力▽強制▽うそ・ごまかし▽賞罰▽欲求充足の禁止▽条件付き愛情▽心理操作▽監視▽無視▽屈辱――などを用いたしつけや指導が当たる。(

ダークペダゴジー ― 教師をむしばむ負の指導法(1)ダークペダゴジーとは | 教育新聞 電子版

 

つまり、これら「不透明な成績」は、ダークペダゴジーとして行われているのではないか、具体的には、「賞罰」「条件付き愛情」などによる知識獲得への介入行為として行われているのではないか、ということでした。

 

「ダークペダゴジー」というと、日本では、「悪質タックル事件」を契機にこの言葉が話題となったこともあり、体罰をはじめとした暴力行為が取り上げられることが多く、多くの先生方や教師を目指す学生たちの中には、どこか、自分とは遠い話だと思っているところがあるのではないか、と思いますが、「そうではないのだ」とあらためて思わされました。

 

 

わたし自身もそうですが、提出物がきちんと整えられていなかったり、遅延して提出されたことによって、減点をした経験のある教員は少なくないと思います。

「やる気がない」ように見える学習者、グループワークに消極的にしか参加できない学習者に対し、「積極的な参加が見られない」という理由で、評価点を減点したほうが良いのではないかと、考えたことのある人たちも少なくないと思います。

 

だけど、本来、「常識」的に、シンプルに考えれば、評価とは、成績とはそもそもそういうものではない。成績点によって、学習者を罰しようとしたり、逆に、動機づけたりすることは、成績の意味をにごらせるだけです。

 

「ダークペダゴジー」としての成績や評価を脱するために、成績について、今後、どのように考えていけば良いのか。

「ホワイトペダゴジー」としての成績のありかた、評価のありかたをあらためて、考えてみようと思います。

*1:本書のなかでは、「一人ひとりをいかす教室での効果的な成績」の原則として書かれています