kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

パフォーマンス学習の場としての模擬授業~渡辺貴裕『授業づくりの考え方』~

 前の記事でも書きましたが、体調が万全に回復しないのを良いことに、自分のインプットのための時間を作っています。

その中で、教職課程での授業との関わり方について、静かに考えなおすきっかけをもらえるような2冊の本と出会いました。

1つは、C. A. トムリンソン&T. R. ムーン『一人ひとりをいかす評価』。こちらについては、こちらにブログ記事にまとめました。 

kimilab.hateblo.jp

 

今回の記事では、渡辺貴裕(2019)『授業づくりの考え方―小学校の模擬授業とリフレクションで学ぶ』くろしお出版)について書きたいと思います。

 

 

 

本書の内容の充実度や構成の妙については、すでに、静岡大学の亘理先生による素晴らしいレビューがあるので、そちらをご覧ください。

www.watariyoichi.net

 

わたしにとってのこの本の大切さは、何よりも、その模擬授業の捉え方にあります。

本書では、本編に入るまえに「なぜ模擬授業なの?」というコラムが掲載されており、そこで、「本書で扱うのは、そうではなく、自由な挑戦の場としての模擬授業です」(pⅳ)という立場が、明確に示されています。

 

「自由な挑戦の場としての模擬授業」!

「失敗を恐れず大胆な挑戦ができる」場としての模擬授業!

 

模擬授業を、「品定め」のための場から、「挑戦」のための場へと変化させていくこと。このことの大切さは、何度言っても、言いすぎることはないと思います。そのくらい大切なことだし、そのくらい、何度言っても伝わりにくい、変えていくことの難しいものでもあります。

わたし自身も、教職課程の授業に関わるなかで、どのように模擬授業を「挑戦」のための場にしていけるのかを考えながら、毎年、トライ&エラーを繰り返しているような状況です。何度もトライ&エラーを繰り返しながら、教職課程の学生たちに、できる限り自由な発想での「挑戦」を促してみるけ、それでもうまくいかないことが多い。

学生たちにとっては、「国語」という教科名を聞いただけでまず思い出すのが、自分たちが受講してきた小学校から高校までの「国語」の授業。自分たちが授業を構想する段階になっても、自分たちが経験してきた「国語」の授業の記憶をなぞって、その真似事をしてみるというのが、もっとも、カンタンに、失敗のリスクを抱えずに、模擬授業課題をこなすための方法です。

そのような、真似することの安全圏から、どのように踏み出しうるのか。「挑戦」のための模擬授業へとジャンプしていくことができるのか。

それがわたし自身の目下の課題であり、悩みであります。

 

本書に示された8つのセッションでは、コルトハーヘン(2012)『教師教育学』学文社)にも示されている「ALACT」モデルにもとづいて作成された、「試みる」→「かえりみる」→「深める」→「広げる」(→さらなる「試みる」へ)というリフレクションのサイクルが繰り返されています。

コルトハーヘンの「ALACT」モデルは、「Action(行為)」→「Looking back on the action(行為の振り返り)」→「Awareness of essential aspects(本質的な諸相への気づき)」→「Creating alternative methods of action(行為の選択肢の拡大)」であることを思うと、「Action」に相当するプロセスとして「試みる」を当てている点は、とても大きい。

現実の学校や教室ではない場所で、現実の子どもたちを目の前にせず、あくまでフィクションとしての授業を行う、フィクションの世界で演ずることから学んでいくという意味で、この「試みる」は、ひとつのパフォーマンスと位置付けられると思います。

「パフォーマンスの学び」としての模擬授業。

あくまで、フィクションの世界でのパフォーマンスだから、わたしたちは、安全な場で、大胆な挑戦、自由な挑戦をすることができる。そこから学び、発達することができるのでしょう。

 

一方、だからといって、「パフォーマンスの学び」としての模擬授業の場を、すぐに成立させることは難しいのも事実です。

私たち教員のみならず、学生たち自身も、あまりにも「品定め」としての模擬授業に慣れ過ぎていて、「子ども役」を演ずることにバカバカしさを感じたり、「現実の子どもがいないのに、模擬授業をやっても意味がない!」と思ったり、そのような疑問や不満を感じないとしても、「子ども役」=学習者役として模擬授業に参加すること、そこで学習者として感じ、感じたことを率直に言葉にすることは、とても難しい。

教育実習の経験すらない、教職課程の学生たちであれば、なおさらです。

 

本書では、おそらく、そのような問題が生じるであろうことも視野に置かれていて、「本書の活用方法」として、「ひとりで読む」のほかに、「仲間で読む」という方法が提案されています。

 

仲間と読む

「試みる」「かえりみる」「広げる」について登場人物の役を割り振って、声に出して読み合わせをしてみましょう。「試みる」では授業が一挙に立体的に感じられるようになり、また「かえりみる」「広げる」では登場人物がそれぞれの立場から感じたり考えたりしたことがっよりいっそう肌身で感じられるようになると思います。(pⅵ)

 

本書のなかに示されたセッションを、対話劇のようなかたちでパフォーマンスすることで、セッションの具体的なありようを体験してみることが、ここでは提案されています。

ここでは「試みる」「かえりみる」「広げる」だけが提案されているため、わたしのような教職課程の教員(学生や新人教師を育てる側の人間)が、パフォーマンスに参加できないのが残念なところです。

が、わたしはこれを読んで、ぜひ「深める」のパートを自分自身でパフォーマンスしてみたいと思わずにいられませんでした。

「ミニレクチャー2」によれば「…本書では、『深める』の部分を『わたあめ先生』が一人でしゃべる形式で書いています。けれども実際の模擬授業の検討会では、この部分が一方的な話であることはなく、参加者との対話によって進むものでしょう(本書でそうした形をとらなあったのは、もっぱら体裁上の理由、つまり書籍としての読みやすさを優先したためです)」(p43)とのこと!

だとしたら、私たち教師教育者としては、ぜひ「深める」の部分をパフォーマンスしてみてみるべきだと思うのです。

 

とはいえ、おそらく、この部分の台本が示されていないのは、この部分が「台本なしの学習(unscripted learning)」=即興的な学習として行われるべきだという、「わたあめ先生」からのメッセージかもしれません。

そうであるとすると、私たち、教師教育者は、そこからどのような「台本なしの」学習を、学習者たちとともに創造することができるのか、を考えていくべきでしょう。

 

「台本あり」のパフォーマンスと、それに続く「台本なし」の学び。

本書はそれ自体、非常にシンプルに大切なことがまとめられた本ですが、この本を使いパフォーマンスすることで、見えてくることの可能性もまたたくさんありそうです。

 

これについては、今度ぜひ、自分自身で機会をつかまえて「試して」みたいとおもいます。