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Literacy, Culture and contemporary learning

学校教科書で「音楽する(musicing)」~大谷能生『平成日本の音楽の教科書』

 大谷能生『平成日本の音楽の教科書』 (よりみちパン! セ)を読みました。

 

 

あの(!)大谷能生さんが、平成時代の小学校・中学校・高等学校の音楽教科書のみならず、なんと平成元年(1989年)、平成10年(1998年)、平成20年(2008年)に改定されてきた学習指導要領もあわせて、読み解く(!)というステキ企画!

「学習指導要領」という存在がどうにもよくわからないのか、「簡単に言えば国が先生用に制作した、実際の授業のためのガイドブック」(p50)とか説明されていたり、「教育指導要領」と誤記されていたりするのなんて、もはや気にしない。

教科書不要論や、ほとんど何の根拠もないような「理想の教科書」論が巷に出回るなか、「『理想の教科書』のありかたではなく、現状の教科書の『理想的な使い方』を探ってみたいと思います」(p55)という企画のコンセプトそのものに、いたく感動してしまいます。

 

なぜそんな発想に至ったのか?

なぜ教科書を読もうと思ったのか?

その経緯については、本書の中でも十分に書かれていますし、本書の発行後、Zakzak大谷さんの連載記事「ニッポンの音楽教育150年のナゾ」が始まり、その記事の中でもけっこう述べられているので、ここでは割愛します。

www.zakzak.co.jp

 

本書のポイントは、クリストファー・スモールによって提案された音楽を<行為>として捉える視点=「音楽する(musicing)」という視点から、現在の音楽教科書でもっともっと実現しうる「音楽する」ための可能性を明らかにしていることでしょう。

 

さらに言えば、言葉の教育にかかわる仕事をしている者としては、大谷さんが、この「音楽する(musicing)」という視点からの提言のなかに、音楽を分析すること、言語化することを位置付けてくれていることに、感銘を受けました。

 

 「J-POP」という言葉は、90年代に登場した、比較的あたらしいそのような「ジャンル」のひとつです。そのような「ジャンル」による分別を、たとえば、共通事項に示された「音色、リズム、速度、旋律、テクスチャ、強弱、形式、構成」といった要素でもって、ジャンルを横断するようなかたちで分析してみるという授業はどうでしょうか。

 そして、また、その音楽の本質が、「共通事項」とは別の要素、つまり、それがやりとりされる現場にあらわれる「現象」とどれくらいかかわっているのか。音楽の本質が、譜面の読み書きによる「再現」に重きをおいたものか、それとも、それを演奏する人の個性によるのか、アレンジの変化にあるのか、それとも録音という行為にあるのか、はたまたネットの上の像が大事なのか……といったことを考え、さらに、教科書に載っているものとそれらがどのように異なっているのか、ということを確かめてみること。(大谷能生『平成日本の音楽の教科書』、p269)

 

本書の中には、東京学芸大学世田谷中学校で、平成30(2018)年6月16日(土)に行われた公開研究会(研究主題:「 世田谷中学校で育てる「21世紀型能力」―各教科が目指す深い学びを通して」)(2次案内PDF)での原口直教諭による授業「音楽の嗜好に気づく「聴き取る力」」が紹介されるとともに、このような授業での学習活動が「『言葉』でもって音楽に触れるためのとてもよいきっかけになるはずだと、筆者は思います」と書かれていて、……なんというか、しびれました。

 

学校の授業でできること、まだまだあるじゃん!もっと面白いこと、できるじゃん!

…って思ったし、事実、中学校国語科でやってみたいことのアイデアがあふれてとまらなくなりました。

 

…というのも、今年、神奈川県内のある自治体で中学校国語科の先生方の研究会に講師としてお呼びいただいた際に、東京書籍の中学校国語教科書『新編 新しい国語1』に掲載されている「書くこと」教材「作品のよさを表現しようー歌の鑑賞文」(p203)の実践報告をお聞きする機会があり、そのときに見せていただいた生徒のワークシート記入例にいろいろ考えさせられたからだと思います。

ten.tokyo-shoseki.co.jp

 

たしかその生徒は、米津玄師の《LOSER》(だったと思うが記憶が曖昧)か何かで、「歌の鑑賞文」を書くために、歌の分析をしていたのだと思う。


米津玄師 MV「LOSER」

だけど(国語科だから?)ワークシートは、歌詞について分析することを求めていたのに、その生徒がワークシートに書く内容は、ほとんど、《LOSER》のミュージック・ビデオに見られる映像的な表現に関するものがほとんどで、歌詞の言語的表現に関する内容がほとんどない。

そのせいかどうかわからないけれど、そのワークシートの記入例は、教員からあまり高く評価されていなかった。そのことがとても記憶に残りました。

 

このとき、わたしは講演をする機会をいただいていたので、講演の最後にも、この生徒の作品に触れて、「生徒たちが接する音楽の世界の中には、ヴィジュアルな表現というのが不可分に入ってきている。米津玄師の音楽表現と、Youtube動画におけるヴィジュアルな表現は一体のもので、生徒たちもそのようなものとして『音楽』を享受しているという現実を、鑑賞文指導においても踏まえる必要があるのではないか」というようなことを言ったりしました。

 

だから、大谷さんがここで指摘していることは、まったく、他人事ではない、音楽科に限定された話ではないと思っています。

国語科では、教科書に掲載されるレベルで(!)、歌の鑑賞文指導が一般的に行われている。

J-POPをはじめとした自分たちの身の周りにある音楽を分析する、ということが、もっともポピュラーに行われているのは国語科である、といっても過言じゃないと思う。(東京書籍の教科書のシェア率は、光村図書に次いで多かったはずです)

 

もちろん「音楽する(musicing)」という行為そのものにかかわる音楽科と、言葉を使用し創造する行為にかかわろうとする国語科では、そのアプローチの仕方は異なるべきでしょう。

では、音楽する(musiging)音楽科ではどんなことができて、言葉する(languaging)国語科ではいったいどんなことができるのか?

そして、それらがコラボレーションしたら…!?

 

そんなことを考えはじめると、たくさんの妄想が浮かんでは消え、浮かんでは消えしていきます。

 

ちょうど今、わたしが担当してる授業「初等教科教育法(国語)」では、ある学生たちのチームが、「歌詞を分析する」授業の構想に取り組んでいます。

歌詞を読んだり分析することが大好きな人たちが集まるそのチームの学生たちが、どんな授業を提案してくれるのか、ますます楽しみになる1冊でした。

 

(7/24追記)

このブログ記事のレビューを読んでくださった方から、本書の誤植の多さについて指摘をうけました。本書の誤植の多さについては、私自身も読みながら気づいておりましたので、そのことについてなんの注意書きもせずに、レビューを書いてしまったことは、本ブログの読者に対して誠実でなかったと思います。ここにお詫び申し上げます。

誤植が多いという問題については、すでに、本書の出版社である新曜社にお伝えしてあります。また、新曜社から、至急訂正版を出してくださるとの回答もいただいております。