kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「物語の段階」を遊ぶ!~『じっくりミレー』と鑑賞教育

大学院の授業では、『メディア・リテラシーの教育(ことばの授業づくりハンドブック)』(奥泉香編、2015、渓水社)をテキストにしながら、主に、中学校・高等学校の国語科でのメディアを用いた言葉の教育や、メディア・リテラシーの教育について議論しています。

本書の第2部には「国語科教育としてのメディア・リテラシー教育実践」と題して、絵図や写真、広告・CM、アニメーション…などの媒体(メディア)ごとに、実践が紹介されているので、受講生にそれぞれ、その中でひとつ取り上げてもらい、本書で紹介されている実践を批判的に紹介しつつ、自分自身で考えた教材提案を行ってもらうという内容です。

今週の授業では、たまたま発表にあたっている受講生がいなかったこともあり、

また、先週末に全国大学国語教育学会第136回大会に参加するために訪れた水戸で、水戸芸術館の方と、「対話型鑑賞」のありかたについてお話しする機会があって、わたしの中で、猛烈に「対話型鑑賞」「鑑賞教育」について考えたい、誰かと話したい時期でもあったので、受講生たちと、絵画作品の鑑賞による言葉の学びについて、体験を通じて議論をする会とすることにしました。

 

まずは、わたしの中で、アート作品を鑑賞しそれを言語化していくことの教育・学習的な意義についてかんがえるきっかけになった、森村泰昌(2011)『「美しい」ってなんだろう?:美術のすすめ』(よりみちパン!セ)の最終章の一節を共有したあと、

 

わたし自身が、水戸芸術館現代美術ギャラリーでの高校生との対話型鑑賞のフィールドワークに基づいて書いてきた論文をいくつか紹介したりしました。

-石田喜美(2009)「アート・リテラシ―教育における言語化の支援:現代美術館での鑑賞教育における高校生のグループ活動の分析から」(『学校教育学研究紀要』)

-石田喜美(2011)「国語科教育における「見ること」の学びに関する一考察:現代アートの鑑賞教育プログラムにおける学習者のテクスト生成過程の分析から」(『人文科教育研究』

 

わたし自身としても、自分自身の論考はともかくとして、2011年の論文に引用している松井みどりさんのテキスト「アートについて書くための5項目」(高校生アートライティング事務局『アートライティング』記録集に寄稿していただいたもの)は、これまでに価値が定まっていないアート作品の言語化をいかに考えていくか、を考えていくうえで、非常に本質的なことが書かれていると思っています。

『アートライティング』記録集が絶版になってしまった今、この引用部分だけでも読んでもらいたい!とすら思います。

松井みどりさんは、「アートについて書くための5項目」の論考の中で、高校生が「夏への扉マイクロポップの時代」展のなかで展示された半田真規作品のギャラリーガイドとして示したテキストを事例に、このような言葉を生むためには、以下の5項目のプロセスをたどってきたのではないか、そしてそれこそが、アートを書くために必要な5項目ではないか、と述べています。

①直感(先入観を持たずに今ここにある作品と対峠してそれが自分の感覚に及ぼす影響を感じ取る)

②作品の細部の観察

③直感と作品の細部をつなげる分析(直感をサポートする特徴を作品の細部から選び出す)

④文学や映画などの知識(ふだんから文学作品や哲学やエッセイを読んだり,映画や美術作品にふれる)

⑤現在の作品体験と文学などの場面の関係性についての類推(自の前の作品について感じているのと同じ感じをどこかで体験したことがないか思い出す)

(松井, 2008, p47)

 わたしは、もちろん、対話型鑑賞について書かれた書籍や論文などについてもいくつか読んできていて、アビゲイル・ハウゼンの「美的発達段階(Aesthetic Developmental Stage)」モデルについて、ハウゼン自身による論文も含めて、いくつか読んできたのだけど、なんだか、(そもそも、「発達段階(developmental stage)」という考え方に違和感があるからかもしれないけど)しっくりこないんです。

vtshome.org

そもそも、階段のようなかたちで記述しうる「発達段階」として、この5つが位置付けられるのかも謎だし、一般的な鑑賞者の多くは、はじめの2段階(「Accountive Stage(物語の段階)」と「Constructive Stage(構成の段階)」)にあるというよく言われる説明にも、反発を感じてしまう…。(結局、アートを創造的に見られるのは、一部の特権的な人たちってこと!?)

松井みどりさんの「アートについて書くための5項目」は、けして大規模調査に基づいた、科学的知識ではないけれど、松井みどりさんのようなプロの批評家と、現代アートに出会ったばかりの高校生とに共通する、「アート作品と出会い、それを言語化していくこと」のプロセスを描き出していて、とてもエキサイティング。

ハウゼンのいうところの第1段階「物語の段階」や第2段階「構成の段階」にあったとしても、幅広い文化的な経験と結びつくことで、それが他ならぬその人自身の言葉を、「批評」を紡ぎ出すことへとつながっていきうることをクリアに示してくれているように思います。

 

そんな話をしたあとに、アート作品の言語化にかかわる2つのカード型教材を体験してもらいました。

 

ひとつは、鑑賞教材「国立美術館アートカード・セット」

神奈川では、横須賀美術館アートカードや、岡本太郎アートカードゲーム(PDF)などもあり、アートカードを使った鑑賞教育はけっこう一般的に行われていたりします。

わたしが担当する教育実習生が、実習先の研究授業でアートカードを使った鑑賞教育をやったりするレベル。

そんなわけで、まずは現在かなり普及している「アートカード」を使ったアクティビティ「My美術館」と、「アートカード」を使ったあてっこゲームを体験してもらいました。

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art card

もうひとつは、かわぐち(@guchi_fukui)のご厚意でご提供いただいた、『じっくりミレー』というカードゲーム。

chaga2.jimdo.com

こちらについては、かわぐちさんご自身が、「[募集][サンプル提供]名画で遊ぶボードゲーム「じっくりミレー」を美術館、図書館、学校、施設などで遊んでみたいという方にサンプルを提供いたします。」という呼びかけをされているのを見て、「これは!」と思ってお願いしてみたところ、快く、2セットご提供いただきました。

 

『じっくりミレー』は、ミレー《刈入れ人たちの休息》や《鳥獣戯画》をはじめとした、名画の中に出てくる人物たちの「感情」を考えながら、その場にいる人たちが、その「感情」をどう読み取っているのかについてのおしゃべりを楽しむゲーム。

 

大学院の授業では、「アートカード」を使ったアクティビティのあとに、『じっくりミレー』のカードゲームに取り組んみたのですが、「アートカード」ではほとんど何も語れなかったような学生でも、『じっくりミレー』では自分がその絵画のなかに読み取っている物語を、(妄想も入りつつ)自由に語れていたのが印象的でした。

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ZikkuriMillet

もしかしたら、「アートカード」で、しかも「My美術館」をつくるという活動になると、抽象度を少し上げたかたちで作品の批評的な解釈をしなければならない、という制約がかかってしまうのかもしれません。

それに対して、『じっくりミレー』では、そもそもはじめに話し出すきっかけとなる「感情」はカードに書かれているし、お題を出す側(「芸術家」役)の人は、みんなが「その人はどう思っているのか」を考えてくれるので、「話さなければ」というプレッシャーもなく、逆に、「芸術家」役の気持ちを当てる側も、自分のことではないので、「自分ではそう思わないけど、〇〇さんなら…」と気軽に突飛な解釈を話せたりもするようです。

「芸術家役の人が考えていることを、あてっこする」というゲーム的な環境が、「自分だけが見えていることを語らなければ」というプレッシャーから、みんなを解放してくれる。でも、それによって、逆に、いろいろな人たちのいろいろな見方が、浮かび上がってくるというのが、とても面白いと思いました。

 

授業の最後に、もともと小学校で働いていた経験のある院生が、「こういうことを、小学校の図工の鑑賞でやったことがあります」とお話ししてくれたので、そのエピソードをもっと聞きたかったのですが、夜時間が遅かったこともあり、十分に聞けなかったのが残念。

これまで小学校・中学校で、図工・美術の鑑賞教育や、国語での鑑賞文教育のなかで行われてきたことをつないでいくことを、これからももっと考えていきたいですし、鑑賞だからこそできる、教育・学習の可能性をあらためて考えさせられた時間でした。