kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

見える/見えないの個性と偏りと~視覚に障害がある人との鑑賞ツアー「セッション!」

大竹伸郎 ビル景 1978-2010」展の企画のひとつとして開催されていた、視覚に障害がある人との鑑賞ツアー「セッション!」に参加してきました。

そのときに、「セッション!」ナビゲーターの白鳥建二さんがすでに、ノンフィクション作家の川内有緒さんたちと大竹伸郎展をいっしょに見る会をやっていたらしい、と聞いたので、『ハフィントンポスト』の記事(全盲で美術館を楽しむ白鳥さん。「見えないから大変」の言葉がしっくりこない | ハフポスト)を楽しみにしていたのですが、わたしが期待していたような、当日のやりとりはあまり(ほとんど)レポートされていなかったので、残念でした。

www.huffingtonpost.jp

川内有緒さんの『note.』には、フィリップスコレクション展@三菱一号館美術館

を見にいったときのエピソード(目が見えない白鳥さんとアートを見にいった。)

とか、「100年の編み手たち」展@東京都現代美術館を見に行ったときのエピソード(

目の見えない白鳥さんとアートを見にいった vol. 2)が書いてあって、こちらの方が面白い。

一方で、ここで語られている経験は、やっぱり「セッション!」での経験とは違うので、わたしは「セッション!」のことをきちんと書いておこうと思う。

 

「セッション!」の広告ページを見ると、「全盲の白鳥建二さんをナビゲーターに、見える人と見えない人が一緒に展覧会を鑑賞するツアーです。」というなかなか曖昧な書き方がされているので、なんとなく、10名なら10名、みんなで一緒に、白鳥さんと対話しながら見る鑑賞をするようなイメージをするのではないか?と、勝手にドキドキしているが、……それは、違う

参加者数によっては、そういう時もあるのだと思いますが、そうでないときもある。

「見える人と見えない人が一緒に展覧会を鑑賞するツアーです」としか言いようのないゆるやかさがあって、わたしは、それが、すごく好き。

 

いわゆる「ガイド」として、美術館に精通した「プロ」の視覚障害者の方が、美術館やアート作品を案内する…というかたちのものも見るけれど、なんだか、それは、日常的に支障なく「見える人」が視覚障害者をガイドしてあげる、サポートしてあげる…というような福祉系(?)ツアーと表裏一体のような感じがしていて、「それはなんか、違うな」って思う。

だから、伊藤亜紗さんの『見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)の記述には、うんうんと頷きつつ、それでもどこか、白鳥さんが「スーパー障害者」になってしまったようで、なんとなく違和感が残ってしまう。

 

「セッション」には、プロのガイドが、必ずしも存在しない。

「ナビゲーター」としての白鳥さんはいるけれど、実際に展覧会を見る段階になったら、白鳥さんは「視覚に障害がある人」のうちのひとりになる。

 

たとえば、今回であれば、定員10名中、中途視覚障害弱視の方がいらっしゃったので、以下の2チームにわかれた。

  1. 【A】白鳥さん(全盲)+日常生活に支障ないくらいには見える人たちのチーム
  2. 【B】弱視の方とその配偶者の方,そして日常生活には支障ないくらい見える人たちのチーム

そうすると、【A】チームでの鑑賞の体験と、【B】チームでの鑑賞の体験は、すごく違ってくる。

すこし想像していただければわかると思いけれど、生まれたときから全盲(かつ、美術館にはめっちゃ行き慣れてる)白鳥さんと、アート作品に対して話す、という経験と、人生のどこかで視覚に障害をおって弱視(よく見えないけれど、ぼんやりとは見えている)方とお話しするのとでは、全然、違う。

さらにいうと、視覚に障害のある方の美術館経験、アート作品を見たり話したりする経験も、アート作品に対する欲求(どういうふうに楽しみたいか)もさまざま。

 …なのだけど、これが面白いし、ここが好き。

 

今回は、さらに、面白い体験ができて、自分の中で「見えるってなに!?見えないってなに!!??」という問いが巻き起こる、エキサイティングな体験ができた。

 

というのも、わたしがいた【B】チームは、ご夫婦でよく美術館にいらっしゃって二人で作品についてけっこうお話されるらしいご夫婦(お一人は中途視覚障害弱視)と、視覚に障害はないけれどほとんど美術館に行ったり、アート作品を見て語ったりする経験がないと自称される皆さま(高校生含む)だったので、だれが「アート作品を見て、語れるのか」という答えを見出すのが、かなり難しい状態になった。 

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対話しながら鑑賞した大竹展の作品。複数の都市の姿がこの中に見える

たとえば、1つ目の作品を見ながら、「さあ、お話ししてみましょう!」という段になったとたん、何をどう見て語ったら良いわからず、ぴきーんと固まる参加者の皆さん。

一方、絵画作品の前をご夫婦で横移動しながら、「これは〇〇かしら」「これは〇〇に見えますね」「みなさんはこの作品好きですか?」と、いろいろお話をしてくださる「視覚に障害のある人」。

 

ようやく、みんなでいろいろあーだこーだと話しはじめたものの、この会話を見て、どの人が「見えていない」かなんて、わかる人はいるのだろうか…?

 

わたし「左側に、2本、孤を描いてる線があるので、これは高速道路ですかね」

Aさん「だとしたら、ここにあるのは、料金所ですね」

わたし「料金所!たしかに高速にあるし、これは料金所ですね」

Bさん「えー。わたしはこれ、バスの停留所なのかなって思いました」

わたし「バスの停留所。あ、たしかに。さっき、この高く書かれてるやつはビルだという説と、煙突説がありましたけど、煙突説だとしたら、ここの平面は低いはずだから、バスの停留所って可能性もありますね」

(みんなで、見る。わたし、作品向かって左側にいるCさんの近くまで移動)

Cさん「…わたし、ここ漁港みたいなところかなって思ったんですよね」

わたし「む!たしかにさっき、あっち(右側)にいたときはそう思わなかったけど、こっちから見ると、この部分が凹んでプールとか海みたいに見えるから、漁港説あるかも。築地みたいなかんじですよね。あれが市場で。」

Cさん「そうそう」

 すると、それまで、あまり何も話さないままでいた高校生が、「わたし、この英字新聞っていってたの…マスキングテープだと思ってたんです…」とぼそりとつぶやいたりして。

 

こんなやりとりを重ねた結果、「視覚に障害がある人」として参加していた方が、「この絵って、見る人にもなんだかわからない『判じ絵』みたいな絵なんですね」…とおっしゃっていたのが印象的だった。

この方は、最後の振り返り会のときにも、「見えるとか、見えないとか関係ないんだなって。見える人も見えない人も、みんなで、これは何だろうとか考えて、いろいろ言い合えたのが新鮮でした」というようなことをおっしゃっていて、あらためて、「見える」ってなんだろう?と、考えさせられた。

 

結局、当たり前だけど、見える/見えないを区切る境界なんて、だれかが勝手に作ったものでしかなくて、抽象的なアート作品に向き合ったとたんに「何が、そこに見えますか?」ときかれて固まってしまうのも、高校生に「英字新聞」が「マスキングテープ」にしか見えないのも、わたしに「マスキングテープ」が見えないのも、みんな「見えない」のは同じなんじゃないかって。

 

視野が狭かったり、弱視でぼんやりした見えであるからこそ見えてくる「料金所」もあれば、毎日立ち寄る100円均一ショップで見るからこそ見えてくる「マスキングテープ」もある。結局、そこにあるのは、単なる、見え方の個性というか、偏りというか、そういうものでしかない。

 

そういう意味では、わたしにとっては、視覚に障害がある人との鑑賞ツアーである「セッション!」も、高校生や大学生たちと一緒に展覧会を見てそれを言葉にしてみる「書く。部」も、ボランティアトーカーさんと一緒にみるギャラリートークも、白鳥さんといっしょに見る会も、アーティストトークも、キュレータートークも…、すべてが、同じ平面上でつながりあっている。

 

みんなに見えるものがあって、みんなに見えないものがある。

だから、まさに「群盲、象を評す」のことわざどおり、みんな「見えない」から(それは、アーティストも、キュレーターも同じ。だって、アートの価値なんて未知数だもの!)「見えない」ながらに、「見えない」まま、自分がキャッチしたことを、あーだこーだ言い合って、それを重ねながら、はじめて、みんなの力で、何か見えてくる。何かが創造され、「評する」ことができるようになってくる。

そういう経験がもつ質感を、もっと丁寧に語る言葉をもちたいな、と思えた時間だった。

 

ちなみにこの写真は、同じく大竹展を見ているときに出会った、(わたしにとって)「見えない」作品。

展示室全体が暗くて、それに対してライティングの当たり方が強かったせいもあるのだけど、「見よう」と近づけば近づくほど、ガラスに自分や周囲の風景が反射してしまって、その作品の色がまったくわからなくなる。

何度か、「どの位置で見るといいんだろう?」と思って、なんどか、近づいたり遠ざかったりしながらこの作品を見ていたけれど、結局、自分の中で答えが見出せず、スタッフ(フェイスさん)に、「これ、どこで見たら一番、正しいんですか?」と聞いてみたり、近くをたまたま通りかかった友達(水戸だとよくある)に聞いてみても、まったくわからなかったので、いまだに、わたしはこの作品が「見えなかった」と思っている。

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「見えない」作品。どこから見るのが正しいのか、いまだにわからない

美術館で、アート作品が「見える」ってどういうことなんだろう。

そもそも「見える」ってなんだろう。