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議論のバトルフィールドにのみこまれる~ミキ・デザキ『主戦場』

ミキ・デザキ監督・脚本・撮影・編集の映画『主戦場』を見てきました。

www.shusenjo.jp


映画『主戦場』予告編

 

この映画は、すでに各種メディアが報じているように、この映画にインタビュイーとして出演しているケント・ギルバート氏(米国弁護士・タレント)、トニー・マラーノ氏(「テキサス親父」)、藤岡信勝氏(「新しい歴史教科書とつくる会」)、藤木俊一氏(「テキサス親父」の日本マネージャー)、山本優美子氏(「なでしこアクション」)の5名が原告となり、上映差し止めと計1300万円の損害賠償を求める訴えを起こしている。

www.bengo4.com

 

こちらは、その記者会見の様子。


記者会見 - 映画「主戦場」の上映を差し止める

 

この訴えに対しては、監督のミキ・デザキ氏も記者会見を開き、「商業映画として公開する可能性については伝えた」などと反論をしている。


『主戦場』2019年5月30日

 

同意書・承諾書などの存在もあり、またインタビュー動画については事前に(その部分だけとはいえ)確認するチャンスもあったということなので、おそらく問題になってくるのは、原告側が言うように「一方的なプロパガンダの映画になっている」「(私たちが言いたいことを主張することは一切せず、糾弾するような映像構成になっている」のかどうか、というあたりになってくるのでしょう。

これに関しては、実際に映画を観なければわからない…ということで、観にいってみました。

で、観てきた感想をいうと、「歴史修正主義」とか「自称・歴史学者」のような言葉に、「なんでこんな言葉を使うんだろう?」と違和感を覚えるくらいには、両論併記的な構成を保つことに努めようとしている映画だと思いました。

少なくとも、様々な立場の人たちがそれぞれの見方でものを語り、インタビュアーを説得しようとさまざまなレトリックを繰り出してくるそれをテンポよく並べることで、まさに「主戦場(バトルフィールド)」を現象として生み出していることが、この映画の最大の魅力だと思うので、逆に、どちらかのイデオロギーに寄った(ように見える)ような言葉や言説が出てくると、ガッカリしてしまう…とういか、映画としての魅力を損なっているように見えてしまう。

そんな映画なのです。

 

そんなことをモヤモヤ思っていたときに、文春オンラインの記事で、大島新さんが書かれていた記事を読み、「まさにそれだ!」と思いました。

大島さんも、ドキュメンタリー映画作品として『主戦場』を見る中で、彼らの立場を「歴史修正主義」と呼ぶことに違和感を覚えたのだと思います。

 

歴史修正主義」という言葉は、本来は新史料の発見などによって、歴史の新しい解釈を試みる姿勢を表すものだが、現在は「ナチ・ガス室はなかった」などの、でっち上げの主張をして歴史を改変しようとすることを指す場合が多く、言葉自体に否定的な意味がつきまとう。

 監督が取材の過程を経てその言葉に行きついた、ということなら理解できるのだが、映画のかなり早い段階で彼らを「歴史修正主義者」と呼んだことで、監督の立ち位置が完全な中道ではなく左側にいることが見えてしまうのが、対立する主張を縦横無尽に語らせるというこの斬新な映画にとっては、もったいないと思ってしまった。

(大島新「従軍慰安婦をテーマにした話題作『主戦場』で“あんなインタビュー”が撮れた理由」p3)

 大学院での卒業論文(修了論文?)としても提出されたという『主戦場』。

その映像作品の構成は、チャプターのようなものもあって(!)、チャプターごとにインタビュー、アーカイブ映像、資料(史料)撮影映像が盛り込まれ、それらの根拠資料を行き来しながら考察が進められていく…という、論文のような構成がされています。

そのため、わたし個人としては、まるでエキサイティングな論文を読んでいるかのような面白さすら、そこには感じられる。

エキサイティングな論文は、けして主張そのものがユニークで面白いのではありません。論証の仕方のアクロバティックさ、「そう来たか!」というような論理展開が、面白い。

それをそのまま映像にしたかのような、そんな印象を持ちました。

 

そういう映像作品の中で、作品の魅力そのものを損なっているかのように見える部分について、それを「プロパガンダ」だと言ってしまえるのかどうか。

『ニューヨークタイムズ』の記事によると、原告のひとりである藤木氏は、映画内での「フェミニズムを始めたのは不細工な人たち」といった自身の発言について、内容そのものについては「まったく改める必要もない」と回答しているそうで、もしかしたら、わたし自身が「ちょっと偏ってるのでは?」と違和感を感じた部分すら、原告は問題にしていないのかもしれません。

そうだとすると、何をもって、「グロテスクなプロパガンダ」だと言っているのか。

何が、原告の5名にとって「裏切られた」と感じられた部分なのかが、いまいち、つかみきれないという印象です。

 

そういう映画外での議論も含めて、あらためて自分自身の「(政治的に)偏っている」という感覚について問い直される映画なので、私個人としては、まだ映画が観られるうちに観ておいたほうが良い、という結論です。

もちろん、わたし自身も不快に思うようなシーンはあったし、どの立場の人が見ても、いろいろな意味で違和感を感じるシーンはあると思いますので、その覚悟ができる方に限り、ですが。


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