kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「Tokyo Art Research Lab」初年度成果レポートに寄せて(2011年3月)

「東京アートポイント計画」のスタッフの方々より、インタビューの依頼を受け、アーツカウンシル東京ROOM302まで、行ってきました。

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わたしは、2009年度~2010年度、東京文化発信プロジェクト(公益財団法人東京都歴史文化財団)だった頃の、「東京アートポイント計画」立ち上げメンバーだったので、「東京アートポイント計画」草創期の話を聞かせてほしい、というご依頼でした。

 

とはいえ、かつての一緒にデスクを囲んでた大内さんも、坂本さんも、「東京アートポイント計画」で働いていらっしゃるし、アートプロジェクトのための評価のフレームを一緒に考えてきてくれた(と、わたしは思っている)佐藤李青さんもいらっしゃるので、わざわざわたしが出向いて話せることなんて、ほとんどなかったように思います。

 

そんなわけで、ただただ、楽しかっただけの時間で終わってしまいましたが、ひとつ、とてもうれしいことがありました。

 

「Tokyo Art Reserach Lab」の独自サイトへの移行や、東京アーツカウンシルHPへの移行の中で、消えてしまったと思っていた、わたしのテキストを、見つけていただくことができました。

このテキストは、香川秀太・青山征彦(2015)『越境する対話と学び:異質な人、組織、コミュニテイをつなぐ』(新曜社)に掲載されているわたしの論文「密猟されるオープンソースとしての「共通言語」─「Tokyo Art Research Lab」における実践のデザイン」 の考えのもとになったテキストであり、わたしが、「東京アートポイント計画」スタッフ時代に、自分自身の名前で書いた数少ないテキストのひとつだという意味で、とても大切なテキストなんです。

この他には、『アートプロジェクトを評価するために:評価ゼミ|レクチャーノート』に書いた1頁の原稿と、ブログ(笑)のみだったと思います。

 

  

 

そして、何よりも、2011年3月に起きた東日本大震災の直後に、自分自身の生活も、引っ越しの準備もままならない中、混乱を極める他のさまざまなコーディネーションをこなしつつ、その空き時間を見つけながら、「今、自分にできることは、自分が見てきたことを残すことだけだ」という必死の思いだけで書いた原稿なんです。

 

それが、こうして、またわたしの手元に戻ってきてくれたことが、うれしい。

そして、そのときのわたしの言葉を、こうして、皆さんにまた開いていけることが、うれしい。

 

もちろん、5年以上前のわたしは、研究者としても中途半端である上に、アートプロジェクトの世界についても、ようやく初級の言葉がわかり、なんとかコミュニケーションができるようになった…という段階なので、この原稿も、その未熟さをそのまま、反映している。

 

それでも、実践の現場に関わりながら、研究者としての視点を忘れないでいようとし続けたわたしの言葉には、意味がある、といまでも思う。

 

 

はじめに

「Tokyo Art Research Lab」(以下、TARL。)は、リサーチ型の人材育成プログラムである。本年度当初に作成された『TOKYO ART RESEARCH LAB』(TARLのコンセプト・ブック兼シラバス)では、以下のような説明がなされている。

 

 まちなかで様々なアートプロジェクトが実施されつつある昨今、東京という場所にこのような「知」のプラットフォームを確立することは重要な活動といえるだろう。単にアートを地域に持ち込むのではなく、その場所で日常生活を営む人々とともに、その生活圏の中でプロジェクトを行っていく。そこにはありとあらゆる問題は可能性があらわれてくる。リサーチ行為によってその問題や可能性を抽出し、それらを分析することにより、アートプロジェクトを持続可能にするシステムを構築する。またその意義を言説化していくというプロセスを通して、地域と人を繋げていくアート活動を活性化させるための環境基盤を整備し、またそれを担う人材を育成していくのが「Tokyo Art Research Lab」の試みである。(「Tokyo Art Research Lab―『アートプロジェクト』を研究するプロジェクト始動!」『TOKYO ART RESEARCH LAB』pp.3-5より)

 

ここで言われているような「(環境基盤を整備するための)リサーチ」と「人材育成」がどのように関わりあい、そこから何が創造されるのか。この問いに答えることが、本プログラムの大きな目的のひとつであったと言えるだろう。

ところでこの問いについて港千尋氏は、本プログラムが始まる前に、すでに「社会的創造者としてのリサーチャー」というキーワードによって、「リサーチ」と「人材育成」を一体のものとする本プログラムの意義を示している。しかしここでは、それとはまた異なる立場から、「TARL」として行われたさまざまなゼミや講座でのエピソードを踏まえて、「リサーチ」と「人材育成」とを一体としてとらえてきた、本プログラムの意義を考察してみたい。

 

アート活動におけるベターメント

 アート活動にとってのベターメント(betterment; より良くなること)とは、いったい何か。TARL全体のプログラムを考えるにあたって、私自身が日々考えていたのはこの問いだった。それまで「東京アートポイント計画」では、なんらかの意味でアート活動をめぐるコミュニティをアプリオリなものとして捉え、そのアプリオリなコミュニティに参加し、自らの実践を創り出すことのできる人材を育成するという方針で人材育成プログラムを実施してきた。しかし、TARLではアプリオリなものとしてのコミュニティを前提としていない。むしろ、コミュニティとは学習しつづけるもの、更新しつづけるものであるという前提が、TARLの出発点である。

 このように、学習・更新しつづけるコミュニティとして、アート活動をめぐる諸々の組織・コミュニティを捉え、その上で、人材育成プログラムを考えてみると、「アート活動におけるベターメントとはいったい何か」という問いが非常に重要なものとして浮かびあが立てくる。組織・コミュニティがアプリオリなものであれば、そこで必要とされる知識やスキルを明らかにし、その知識やスキルを獲得することのできるカリキュラムを組めば良い。しかしそうではなく、組織・コミュニティそのものの学習に寄与することのできる人材とは何か、と考えると問題はそこまでシンプルなものではなくなってくる。そして、むしろ、「人材育成」という発想そのものがどこか、既存の組織・コミュニティを前提としていること、アート活動のベターメントのために必要なのは、はたして人材育成のみなのか、という新たな問いが浮上する。

 

野火的な活動(wildfire activities)としてのアート活動

 これらの問いを考える際に、まず、現代日本におけるアート活動とは、どのような種類の活動なのかを考えてみたい。この問いには様々な答えがありうるが、重要なキーワードとなりうるもののひとつに、「野火的な活動」(wildfire activities)という言葉がある。「野火的な活動」とは、野火のように、あるところで消えてなくなったかと思えば、まったく別な場所で現れ、また同じ場所で時間をおいて現れたりするかたちで、同時多発的にさまざまな場所で創造され、拡大し、相互につながっていく活動を示している(エンゲストローム,2008など)。

このようなアート活動の例としては、「墨東まち見世」参加企画でもある三宅航太郎《向島おしょくじプロジェクト》を挙げることができよう。《向島おしょくじプロジェクト》とは、墨田区東向島地域の飲食店の箸を「おみくじ」のくじ棒のように筒の中にいれて、「食事」の「おみくじ」=「おしょくじ」を作るシステムアートである。箸には一本一本番号がふってあり、くじを行った人は自分が引いた箸に書かれた番号と同じ番号の札紙をもらうことができる。このプロジェクトは、その後《京島おしょくじ》《谷根千おしょくじ》《中川版おしょくじ》など、さまざまな地域に野火のように広がっていった。

アート活動においてこのような事例は枚挙に暇がなく、むしろ、「アートプロジェクトを評価するために~評価の<なぜ?>を徹底解明~」の中で、芹沢が「プロジェクト・ポテンシャル」という言葉で示したような予測不可能な展開の可能性こそ、アート活動の本質的な価値であるとも言える。

 

ネットワーク化と越境を支えるシステム

そうであるとすれば、アート活動のベターメントのためには、野火的な活動の展開や拡大を可能にし、促進していくためのシステムが必要だということになる。野火的な活動を支援するためのシステム。それを実現するためには、従来の人材育成プログラムが視野に置いてきたような垂直(タテ)方向の学習――知識の獲得、スキルの熟達化――を見るだけでは不十分であり、それよりもむしろ、水平(ヨコ)方向の学習――社会的ネットワークの創出・ジャンルやカテゴリーの越境――を視野に置くことが必要となる。

TARLの試みは、そのような意味で、アートプロジェクトの展開・拡大の根本にある、社会的ネットワーク化や越境を支援するための試みであるといえる。今回紹介している各ゼミの成果物――ガイドラインや各種リスト、ドキュメント等――は、アートプロジェクトの現場における様々なローカリティを、ゼミという場において交錯させ、その中からインターローカルな知を抽出することによって作り出されたものである。これら成果物はインターローカルな性質を持つことによって、また異なる現場のローカリティの中で再文脈化されていく。ローカルからインターローカルへ、またインターローカルからローカルへと向かう、この流れの中で、複数のローカリティがつながれ、それぞれの場における知が共有されていく。つまり成果物は、抽象化・脱文脈化した知を創出することによって、複数の現場のネットワーク化や越境を図るものであるといえる。

これら成果物については、本リーフレットの表面で紹介しているため、ここでそれらを詳しく説明することはせず、ここではむしろ、それら成果物が生み出された連続ゼミという場におけるネットワーク化と越境ついて考えてみたい。

 

「受け手」のコミュニティ/「創り手」のコミュニティ

―「『見巧者』になるために~批評家・レビュワー養成講座~」

「人材育成プログラム」という言葉を耳にした人が、最初に思い浮かべるのは、「新参者」から「熟達者」への発達的変容であろう。TARLの連続ゼミの中でも、もっともこの考え方に近い実践を行っていたのは、小崎哲哉ゼミ「『見巧者』になるために」(以下、小崎ゼミ)である。『REAL TOKYO』の発行人兼編集長である小崎が、ある時はレクチャラーとして、またある時は、またある時はプロのレビュワーとして、そしてまたある時は編集者としてゼミ生の前に現れる。これによって、「ゼミ」という一見座学的な場所が、ある時は編集会議の場、ある時はアーティストへのインタビューの場へと変化していった。このようにして「座学」/「実践」という二つのカテゴリーを隔てていた壁がゼミでの小崎の実践の中で少しずつ融解し、その中で、「受け手」のコミュニティとして存在していたゼミ生のコミュニティが、いつの間にか「創り手」のコミュニティへと変容していく様子を、このゼミでは見ることができた。

小崎ゼミにおいてある一定の時期から参加するゼミ生が減少した、という事実は皮肉にも、このようなコミュニティの変容をもっとも象徴的に示しているように思う。展覧会やイベントに足を運び、気に入ったものについて文章化するだけであれば、単なる「受け手」でもできるのかもしれない。しかし、作品の意義を社会に発信することを念頭に置きつつ、作品を価値化するための武器となる言語と感覚をもって、作品と対峙していくことには、一定のプロフェッショナリズムとそれを支える知やスキルが必要となる。

「受け手」のコミュニティから「創り手」のコミュニティへの越境。そこで生じるアイデンティティの変容。「『見巧者』になること」とは、単なる知やスキルの獲得の問題ではなく、「受け手」から「創り手」への越境という問題を孕んでいる。

 小崎ゼミにおいて課される課題や、小崎自身やリサーチ・アシスタント(以下、RA)の振る舞いが、常に、ゼミ生を「創り手」として位置づけようとしていたこと――そこに生じる軋轢とゼミ生の葛藤が、参加者数の減少という事態を生んだという事実は、我々に、「受け手」から「創り手」への越境がいかに困難であるかを物語る。 小崎ゼミの成果は、そのような越境の困難を指示したことにあるといえるだろう。

 

異なるコミュニティの接触領域

―「プロジェクト運営 ぐるっと360度」「P+Archive」

 一方で、プロフェッショナルへの熟達化を支援する人材育成プログラムとして機能しつつ、もう一方で、異なった方向性を持つ複数のコミュニティの接触領域を創り出していたゼミもある。「プロジェクト運営 ぐるっと360度」と「P+Archive」だ。これらのゼミはそれぞれ、「『つくる』人材を育成するプログラム」「『記録する』人材を育成するプログラム」として位置づけられていた。もちろん、その意味でこれらのゼミが果たした意義も大きいが、アートプロジェクトの拡大・展開を支えるシステムという視点から見ると、これらのゼミは、何よりも、これまでまったく異なる言語や価値観を持ちつづけていた複数のコミュニティの出会いを作り出したことにより大きな社会的意義があるように思う。

 例えば、「プロジェクト運営 ぐるっと360度」(以下、帆足ゼミ)の一環として実施された、「『アートプロジェクト運営ガイドライン』(以下、『ガイドライン』)をめぐる座談会」。この座談会では、それぞれ異なる時代・地域でアートプロジェクトと関ってきた3名のゲストを招聘し、アートプロジェクトにおいて意味のあるガイドラインとはどのようなものかについて率直な議論が行われた。さらに、この座談会の前には日本各地のアートプロジェクトの担当者に宛て、『アートプロジェクト運営ガイドライン β版』(以下、β版)が送付され、それについてのアンケートが実施された。β版を作成した帆足の予想に反し、『ガイドライン』の項目として必要だという声がもっとも多かったのは「広報」と「評価」。アートプロジェクト草創期から10年たった今、各地の担当者が、「いかに『外』とつながるか」という点において、何らかの指針を必要としている様子を見てとることができた。各地の担当者へのアンケートと、ゲストによるディスカッション。座談会は、これら複数の手段によって集められた「声」が交錯する場となった。

 これまでも、アートプロジェクトに関る人々が集まる機会は複数存在していたし、おそらくそのような場でも、複数の「声」は発せられていたのかもしれない。しかし、座談会では、『ガイドライン』が具体的に示されていたために、「声」同士の差異が明確に示されていたように思う。考えてみれば、アートプロジェクトの世界は、なんと、反論のしにくい曖昧な「お題目」に溢れていることだろう。座談会の中で、宮本初音は「もう『可能性』とか、そういうの書きたくない!(笑)」と揶揄をこめて発言していたが、それら「お題目」的な言葉は、誰もそれに対して異を唱えることができないという意味で、モノローグ的に機能してしまう。そこから対話(ダイアローグ)は生じえない。そのようなモノローグ的な言葉から距離を置いて、具体に徹することによって対話(ダイアローグ)を生み出していくこと。それが座談会の意味であったとするのであれば、そこから生み出される『ガイドライン』は、様々な場で、ふたたび対話(ダイアローグ)を発生させ、複数の「声」を共存させるツールとして機能するだろう。この時、帆足がゼミのなかで、アート以外の様々なコミュニティ――広報やデザインなど――のプロフェッショナルをゲストとして招聘し、異なる「声」を『ガイドライン』に反映させてきたという事実はより本質的に機能し始めるに違いない。

 帆足ゼミ同様、ガイドラインの制作に向けてレクチャーおよび研究会等のプログラムを実施してきた「P+Archive」では、そこに参加するゼミ生自身が、まったく異なるコミュニティに所属していた。いわゆる「アーカイブ学」を専門とし、アカデミックな関心からアーカイブに関ろうとするゼミ生がいる一方で、アートプロジェクトの現場に関りつづけてきた経験から、ドキュメンテーションアーカイブ化の必要性を感じてきたゼミ生がいる。そのような中で当初は困惑を隠せない状況にあったゼミ生も、レクチャーや研究会を重ねていくにつれて、互いに共有することのできる言語を見出していった。

 コミュニティ間の境界が可視化されること。その上でその境界を融解させていくこと。複数のコミュニティ間の接触領域においては、常にその二つのモメントが作用する。そして、これまで出会うことのなかった複数のコミュニティの接触による知の創出は、このような二つのモメントの作用によって生じる衝突や対話の中で生じていく。

 

第三の空間(The third space

――「アートプロジェクトの0123」「アート活動のためのキャリア支援プログラム」

 ゼミ生をそれぞれプロフェッショナルとして位置づけてプログラムを展開してきた、これらのゼミに対し、これから何かを始めようとする初心者を対象としたゼミ――小川希ゼミ「アートプロジェクトの0123」(以下、小川ゼミ)・「アート活動のためのキャリア支援プログラム」では、また異なる様相が見られた。

 初心者を対象としたこれらのゼミでは、既存の知識があることを前提とし、それをゼミ生と共有することが必要となる。既存の知識を《教える―学ぶ》という、このような関係性は通常、教える側によるモノローグな場へと陥りやすい。特に、「アート活動のためのキャリア支援プログラム」が扱うような、法律や税務の知識は、その知識そのものがモノローグ的な性質を持つと考えられているため、なおさらである。

しかしながら、ゼミの場では、むしろ《教える―学ぶ》という関係が、イコール、モノローグ的な関係ではないことが、実践的に示された。小川ゼミでは、さまざまな知識が、小川自身の「ボク的には…」という視点から語られる。誰のものかわからない匿名の知識ではなく、「ボク的には、これ知っておいたほうが良いんじゃないかと思うんッスよね」というかたちで語られる、カッコ付きの「チシキ」。その「チシキ」には常に、小川の「声」のイントネーションや語り口や…その他さまざまなものが付随しており、ゼミの場では、そのような小川個人の「声」によって作りだされる空間とゼミ生の「声」によって作りだされる空間とが混ざり合い、どちらのものともいえない第三の空間がつくりだされていたように思う。           

「アート活動のためのキャリア支援プログラム」においては、弁護士など同じ資格を持つ専門家が複数参加するという、贅沢な場の設計によって、このような第三の空間が創りだされていた。小川ゼミの場合と異なり、法律や税務の知識は、個人の声によって語り得ない/聴き得ない部分が大きい。しかし、同じ問題について同じ資格を持つ専門家たちが異なる意見をもち、議論を交わしている姿を見ることによって、その場に参加するゼミ生は否応なく、一見、非人称的な論理が、実はその深い根の部分で、その語り手個人の「声」とつながっていることを見出し、自らの「声」をその場に参加するきっかけを見出す。集中合宿という形式は、法律や税務の専門家とゼミ生との社会的ネットワークの形成に寄与するだけでなく、このような意味で、専門家しか使いこなすことのできないものと思われがちな法律や税務の知識を脱構築し、ゼミ生が自分自身のものとしてそれらの知識を使いこなすきっかけを作り出していたと言えよう。

 

まとめ:学習しつづける社会システムへ

―「アートプロジェクトを評価するために~評価の〈なぜ?〉を徹底解明」

 まとめに代えて、最後に、若林朋子ゼミ「アートプロジェクトを評価するために~評価の〈なぜ?〉を徹底解明~」(以下、評価ゼミ)を事例として、今後のTokyo Art Research Labの展開について期待するところを述べたい。

 これまで述べてきたように、TARLでは、様々なコミュニティ間の越境やネットワークの構築を試み、実現してきたが、それを継続的なものとし、野火的に拡張・展開をつづけるアート活動を支える社会システムを作りだしていくためには、TARLに関わったあらゆる立場の人々――コーディネーター、RA、インターン、ゼミ生――が、現在のTARLのシステムをさらにより良いものへと更新しつづけることが課題となる。アート活動が常に変化し、新たな可能性を生み出しつづけるものである以上、そこに関わるあらゆるシステムも更新しつづけていかなければならない。

 評価ゼミでは、そのような、自ら学習し更新を続けるシステムのモデルを見ることができたように思う。評価ゼミは、コーディネーターの若林によって企画運営される「レクチャー」と、RAの佐藤李青によって企画運営される「研究会」の2つの柱によって成り立っていた。「レクチャー」は、アートプロジェクトの評価をめぐるこれまでの議論を一望する機会となり、「研究会」は今、まさにアートプロジェクトの評価に何らかのかたちで関わらざるを得ない人々が集まり、様々な評価のケース・スタディをもとに、自分自身が抱える課題も含めて検討しながら、「アートプロジェクトにおける評価とはどうあるべきか?」という問題を議論した。ゼミ生――特に、研究会にも参加しているゼミ生――は、レクチャーの内容からこれまでに蓄積されてきた評価に関する知識を得、それをひとつの痕跡として利用しながら、研究会で新たな知を生みだすための議論に携わる。また研究会での議論を経て、レクチャーに参加することで、そこで語られる内容はまたあらたな見え方をしてくることになる。このような往還を経て、既存の知識と新たな知とが混じり合い、交錯し、アートプロジェクトの評価についての知のありようを更新していく場がつくりあげられる。

 評価ゼミにおいてもっとも意義深い成果のひとつは、新たな知を作りだしていくためのコミュニティが、「研究会」というかたちで、生み出されたことにあるだろう。

「研究会」のメンバーのうち有志は、佐藤が事務局長を務める「小金井アートフルアクション!」の評価について継続的に考える「評価ミーティング」に同席をすることとなった。平成23年2月に行われた第1回評価ミーティングでは、まずはじめに佐藤より、研究会での議論を踏まえたプレゼンテーションが行われ、それを踏まえて、「小金井アートフルアクション!」の評価をどのように考えていくべきかの議論が行われていった。

 このように、TARLから生み出されたシステムが、継続的に学習を続けていくための自律的なシステムとなり、そのシステムがアート活動の展開を支えていくという構図は、ひとつの理想的なモデルである。今年度TARLとして実施されたさまざまな試みが、このようなかたちで、あるいは、また異なるかたちで、アート活動を支えるための社会システムとなることを願いたい。