kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

善意の暴走と「心理学化」~『「発達障害」とされる外国人の子どもたち』

2月末に発売されたばかりの、金春喜(2019)『「発達障害」とされる外国人の子どもたち――フィリピンから来日したきょうだいをめぐる、10人の大人たちの語り』(明石書房)をさっそく入手して、読みました。

 

 

 

本書が発売される少し前に、明石書房のTwitterで本書が発売されることを知ったのですが、その時期ちょうど、外国につながる子どもたちに関連する論文を書き始めていた頃でもあったため、「これは…!」と思い、さっそく予約注文。

 

本書では、あるフィリピンから来日したきょうだい(やその家族)の抱えるさまざまな問題が、いかに、「発達障害」という個人の問題へと回収されていくのか…を、きょうだいにかかわった10人の大人たちの語りから浮かび上がらせています。

それはまさに、この記事のタイトルにも書いた通り、「善意」が暴走し、その善意の暴走がひとつの圧力になって、一気呵成に「心理学化」が行われていくような…そんなプロセスに、わたしには見えました。

 

本書では、まるで芥川龍之介『藪の中』の世界がそのまま現実に出てきてしまったような、きょうだいの「発達障害」化(と特別支援学校への進学の決定)にかかわる、少しずつズレた語りが展開されていて、そのひとつひとつの「ズレかた」、その重なる部分と重ならない部分が、とても興味深いと思いました。

個人的に、もっとも考えさせられたのは、森先生(小学校6年生から日本語指導を担当している先生)と、寺田先生(中学1年生のときの担任の先生)との語りの間のズレでした。

カズキくん(兄)は、中学1年生になって、「発達障害」ということになり、特別支援学級に通うことになるのですが、そのときのことについての、二人の語りがかなりズレているのです。

 

【4】森先生 中学校で、もう、進路決めていかねばならないし。私としては、様子を見ながら、特別支援の方のクラスであったり、ま、クラスまでいくのか、なんらかの支援は必要だなっていうふうに、思っていたんです。でまぁ、カズキくんが入学して、担任の先生の方(寺田先生)も、特別支援学校で働いた経験もある方だったんですよね。で、すごく、熱心やし、そこらへん、冷静に判断する方だったので、「いや、そうですよ」と

 

【5】寺田先生 カズキくんの場合は、発達障害」ってなってるけども、ほんまにどうか言ったら、微妙です。ライン的には。ただ、その「発達障害」かどうかっていう、ま、教室やから診断はできひんのですけども、その可能性を考えたときに、どうしてもやっぱ、本人とちゃんとコミュニケーションがとれへんことで、ほんまに「発達障害」かどうかってとこで、すんごく悩みました。お母さんの話を聞いたり、そこらへんから、行動的にはあり得るなっていう、超グレーな状態特別支援学級に回した経緯はあります。

(以上、金春喜、2019『「発達障害」とされる外国人の子どもたち――フィリピンから来日したきょうだいをめぐる、10人の大人たちの語り』明石書房、p192。傍点省略。下線は引用者)

 

ここに、特別支援学級の先生による提案が加わったり、「知能検査」という人工物の利用が加わることによって、「発達障害」であるという「事実」が創り上げられていくわけですが、そのはじめのはじめのきっかけに対する「見え」がここまでズレていることに、問題の根の深さを感じざるを得ません。

 

ここには、一人ひとりの教師の「判断」や「評価」といったものを超えた、集合的なパワーがあるように思えてならないのです。

1対1のインタビューでは、「微妙です」「超グレーな状態」と語る寺田先生が、なんの迷いもなく「いや、そうですよ」と「判断」しているかのように森先生に「見えて」しまうようなパワー。

「ま、クラスまでいくのか、なんらかの支援は必要だな」くらいにしか考えていなかった森先生が、「いや、そうですよ」と言われたくらいで、すんなり納得させられてしまうようなパワー。

それは、本書で論じられているような、ふたりのきょうだいのおかあさん、対、日本の学校の先生たちという対立構造を超えた、もっともっと大きなパワーであるように思います。

わたしには、そのパワーこそが、「善意の暴走」を導いているように見えます。

 

もちろん、本書ではそこまでの分析はなされていません。

本書でなされているのは、この「藪の中」の語りに共通する「現実」としての問題性をあぶりだすことです。

本書では10人の語りに見られるひとりひとりの「現実」とそのずれから浮かび上がってくるものついて、あまり多くを語っていません。

おそらく、これらのズレから何かを見出そうとすることは、今後の課題として残されているのでしょう。

 

残された課題も含めて、本書を読みながら、私たちひとりひとりが考えていくこと、それによって、日常的なやりとりの中で頻繁に顔を出してくる「心理学化」のパワーと距離をとれるようにしていくこと。そのことに、意味があるように思います。

文字が生きていた時代のことを、思い出すために~華雪《和紙に字を植える》

第43回川端康成文学賞・第39回日本SF大賞を受賞した、円城塔の『文字渦』。

 

 

その帯には、「昔、文字は本当に生きていたのだと思わないかい?」と書かれていて、本書の新刊が、店舗の店先に並んでいる頃には、この帯の文言を見るたびに、心を打たれた。兵馬俑から発掘された三万もの漢字がいかに生み出されたかを物語る表題作を読んで居てもたってもいられなくなり、町田市民文学館ことばランドで開催されると聞いた、大日本タイプ組合×円城塔「文ッ字渦~文字の想像と創造~」にいち早く申込をした記憶も、まだ新しい。

 

なにかが道をやってくる(茨城県北サーチ)」の第2期で開催された、華雪(書家)和紙に字を植える》は、まさに、昔、文字が本当に生きていたその時代のことを思い起こしていく作業そのものだった。

 

当日、華雪さんが配布した資料の冒頭には、次のように書かれている。

 

『藝』の字の成り立ちは、ひとが若木を植える姿を象り、木を植え、奉りながら育む様子から、芸を磨く意味へと広がった

『遊』の字の成り立ちは、先祖の霊の依代としての旗を掲げ、行く、ひとの姿を象る。そこから、行く、他所へ行って交わる、という意味が加わっていった。

それぞれの字から、古代中国のひとのあり方の断片を垣間見ることができる。

古い書体を書くとき、最近わたしは、そこに、いまを生きるわたしたちに繋がるなにかを、微かにでも見出したいと思っているのかもしれないとふと気づく。

 

『藝』の字の起源と思われる3つの象形文字を見ながら、半紙を縦にしたり横にしたり、表にしたり、裏にしてみたり、はたまた筆の握り方を変えてみたり、墨の付け方を変えてみたりしながら、"紙の上に文字をかく"という行為のなかで、その漢字の起源をひたすら想像しつづける。

f:id:kimisteva:20200302101039j:plain

「藝」の字の起こりを想像する

かく文字ごとに、筆にさわる半紙の感覚や、手と筆との関係を変えるごとに、そこにはいろいろな起こりの意味が立ち現われてくる。

最終的に、わたしの心に浮かんだのは、その若木を植えようと、人が手を添え、手をかけた途端に、若木そのものが人のエネルギーを吸い取るかのように、急速に爆発的に伸びていくような、人と木との主従関係が突然反転していくような、そんなイメージだ。

 

そんなイメージをもちながら、今度は、数多かいた文字のなかからひとつを選び、すき絵技法によって、それを紙に植えこんでいく。

f:id:kimisteva:20200302101537j:plain

すき絵技法で、和紙に字を「植える」

 

「紙に墨でかく」という行為とは、また異なるかたちで、「藝」の起源を思う。

若木に吸い取られていったと思っていたエネルギーは、実は、巡回するように、人の中に戻っていて、そこには、若木と人との一体化したエネルギーの循環がつくりだされていたのではないか…という考えが浮かんでくる。

 

数日たって、実際に、字の「植え」られた西ノ内紙が、届く。

届いたものを見てみると、それは「植え」られた、というよりも、むしろ「生け」られたといったほうが良いのではないか、という思いがよぎる。

f:id:kimisteva:20200302102504j:plain

文字を生ける

 もちろん、「生ける」には、「草木を植える」という意味もある。

けれど、そのもともとの意味は、もっと多様でゆるやかだ。オンラインの辞典を見るだけでも、すぐこれらの意味にたどりつける(「生ける」-デジタル大辞泉))

 

㋐命を保たせる。生き続けさせる。
「これらを―・けて媒鳥(をとり)にて取らば」〈宇津保・藤原の君〉
㋑生き返らせる。
「この馬―・けて給はらむ」〈古本説話集・五八〉
㋒魚を生かして飼う。
「(鱸(すずき)ヲ)生洲(いけす)へ―・けておきました所が」〈滑・八笑人・三〉

 

「生き返らせる」「命を保たせる」こと。

「生ける」という言葉には、命を失うこととと隣りあわせの生の姿が含まれている。

 

文字は、昔、本当に生きていたのだとして、それを、今、私たちのいる世界につなげ、ふたたび文字の命を考えてみる行為はまさに、「生ける」なのだと思う。

 

西ノ内紙になった、「藝」の文字は、その生と死の間を揺れ続けているように、わたしには見える。

f:id:kimisteva:20200302103820j:plain

生と死のさかいをゆれる

 

 

見捨てられた街の「石」と「魔女」の物語~松本美枝子《海を拾う》

メゾン・ケンポクの『何かはある』 の一環として、2020年1月31日(金)~3月1日(日)まで開催されている、松本美枝子《海を拾う》を見てきました。

ホームページなどを見ても、あまり詳しい作品の説明がなく、フライヤーにも、「今回の展示では、日立の人、および地質と地形に着目し、市内各所を周遊して鑑賞する作品を制作、展示します」としか記載されていません。

なので、いったい、どんな作品なのか、どんな体験ができるのか、わたし自身も直前までまったくわからぬまま、日立に向かうことになってしまったのですが、「写真展」という言葉でイメージされる展示を真向から裏切る実験的でドラマティックな作品だったので、ぜひ、そのことを皆さんにご紹介したいと思いました。

はじめから、情報を知ってしまうと、鑑賞体験を大幅に減退させてしまうような仕掛けもいくつかあり、どのような角度で、何を、レビューとして書くことが良いのかわからず、試行錯誤した結果、自分自身の見たこと、感じたことをそのまま、飾らずに書いていくというスタイルを選ぶことになりました。

あまりに、「そのまま」なので、作家にとっては「新たな発見」といえるようなものもないだろうし、まだ本作を見ていない人たちには「作品性」が見えにくいようなレビューになっているようにも思いましたが、そのまま、これをレビューとして公開することにしました。

よろしければ、ぜひお読みください。

そしてぜひ、今週末に、この奇妙なな街とそこで展開される物語を経験してもらえたら、と思います。

 

* * * * 

松本美枝子《海を拾う》

 

「日立」は、とても不思議な街だ。ひどく現実感が失われている。

駅前にある、発電所用大型タービン。左手を見ると近未来を思わせるメタリックグレーの建物に埋め込まれた巨大な天球。そういえば、日立出身だという友人たちは、口をそろえたように、この街のことを「見捨てられた街」と言っていた。パパ・タラフマラ《SHIP IN A VIEW[船を見る]》でも、原風景としての「日立」は、自然と人工物とがひしめきあう混沌とした工業港湾都市として描き出される。

 


パパタラフマラ ship in a view

 

 これらの記憶も、わたしのこの街に対する現実感を失わせていく。妹島和世がデザインの監修をしたという全面ガラス張りの駅舎も、そんな現実感のない世界の中に、すっかり包み込まれている。

 

松本美枝子《海を拾う》の物語は、そんな、日立の駅舎から、始まる。


f:id:kimisteva:20200226140944j:image

ロータリーから続く透き通った空間を抜けて、海に近づくと、ガラスケースの中に、いくつかの小石が展示されているのが見える。よく見てみると、なんだか奇妙な小石である。色がいくつかの層に分かれているものもある。展示近くに設置された解説によると、どうやら、このあたりの山には、かつて海底火山だった時代の地層が含まれているのだという。


f:id:kimisteva:20200226141138j:image

そんな解説に誘われるように、古い趣のある料亭にたどりつく。出迎えてくれたのは、一人の女性。そこから始まるのは、その料亭の2階でカフェを営む「魔女」の物語だ。――いや、「魔女になりたい」と思っていたらいつしか「魔女」になっていた少女と、その家族の物語と言ったほうが良いかもしれない。

 

魔女の宅急便』は、キキが海辺の街に降り立ち、パン屋さんにお世話になるところから物語が始まるけれど、そんなふうにして、見習い魔女が大人になり、ケーキやプリンを作り始めたら、こんなふうになるのかもしれない、とふと思う。

 

 

 

「cafe miharu」としてひらかれたその料亭の、すこし奇妙な間取りの中に、「プロローグ」からはじまる5つの物語の断片と、岩や石、地図の写真が、展示されている。


どことなく不思議なつながりを持つ廊下や階段、部屋のところどころには、ずっと昔からその場にあったとも、この展示期間にあわせてそこに置かれたともいえるものたちが並ぶ。まず目に入るのは、廊下の棚に、大小入り交じり並べられた何組もの雛人形。そして、二列に整然と並べられたニワトリの木製玩具たち。ぼうっと、あらゆるものを見過ごしていると、いつの間にか、異世界の中に迷い込んでしまいそうになる。


幾つもの雛人形を見ていると、「雛人形、大好きなんですよ。妹が集めてて。」とうれしそうな声がして、現実に引き戻される。が、雛人形をいくつもいくつもいくつも集めてきた姉妹……それは、果たして現実なのだろうか。現実にしてはあまりに幻想的だ。


f:id:kimisteva:20200226144015j:image

このようにして、奇妙なフィクションと曖昧な現実が入り混じった物語が展開される。小説でいえば、それはまるでマジックリアリズム魔術的リアリズム)のようでいて、どこかそれとも違う。そんな不思議な世界とその世界での出来事が、ツアー型演劇のように目の前に広がっていく。

 

物語の最後は、「秘密」の場所だ。
私たちは、そこでふたたび「日立」の原風景に再会する。


かつての海底火山が、幾重にも重なる歴史の中で山の岩石となり、それが巡り巡って、ふたたび、海の中に、小石となって戻ってくる。その繰り返しの中で創り出されてきた、混沌の街「日立」。


この作品が誘うのは、「見捨てられた街」として語られるその街の奥深くに、これまた幾重にも重ねられた物語の地層なのだ。

国際子ども図書館「絵本に見るアートの100年」展

昨日1日お休みをいただけたので、国立国会図書館国際子ども図書館で1/19まで開催していた「絵本に見るアートの100年―ダダからニュー・ペインティングまで」展に、すべりこんできました。
f:id:kimisteva:20200120193621j:image

今年度から、横浜国立大学附属横浜小学校でいっしょに授業のお話などをさせていただいてる先生が、「絵本を読むこと」に関心を持たれていて、「絵本にかかれている絵を見ること/読むこと」に着目した授業開発をされているので、わたしも先生とお話をしながら、絵本の中の「絵」について考えることが増えました。

今週、1/25(土)に開催される横浜国立大学附属横浜小学校での研究発表会でも、「みんなでよもう! えほんのせかいへ!」という授業名で、絵本の絵と言葉とを関連させて読むことの授業を行う予定だということで(附属横浜小学校研究発表会のご案内はこちら→PDF)、絵本のなかの絵についてもっと知っておきたいなぁ…!と思っていたところだったのでした。

 「絵本に見るアートの100年」展では、「ダダ」、「シュルレアリスムの系譜」「ロシア・アヴァンギャルド」「チェコアヴァンギャルド」「バウハウスとニュー・バウハウス」「グラフィック・デザインの可能性」「日本のモダニズム」「第二次世界大戦後の美術の展開」という流れで、絵本にみる近現代美術史が紹介されていきます。

展示されている作品を見ていると、たしかに、近現代のアートの展開がわかる!と同時に、絵本というメディアがいかに、アートやデザインの実験場であったのかがわかり、非常に興味深かったです。

 

展覧会で紹介されていた絵本を、一部、ここで紹介したいと思います。

 

続きを読む

言葉の教育の研究者として授業研究に関わる~石川晋『学校とゆるやかに伴走すること』

先週末、ようやく、教員免許更新講習も終わり、ようやく「万が一、倒れてしまってもどうにかなる」というくらいの予定になってきたので、本棚に入ったまま、開くことすらできずにいた、石川晋(2019)『学校とゆるやかに伴走するということ』(フェミックス)を読みました。

 

11月上旬に、永田台小学校の公開授業研究会で、石川先生ご自身にお会いした際、なんと本書をご恵投いただくという僥倖に恵まれました。それなのに、今の今まで開けずにいたというのは、なんともお恥ずかしい。

 

でも、それには、理由があります。

その理由は、わたし自身が、これまで、相当ひどいかたちで、教師教育の現場に関わってきており、自分には、教師教育について語る資格どころか、考える資格すらないのではないか、と思うことがしばしばだからです。

わたしが、現在の職場に着任して、いくつかの学校の研究協議会に「外部講師」として伺う機会がありましたが、スタートからわずか1年くらいの間に、心理的な病をかかえ、現場を離れざるを得なくなる先生が複数いらっしゃいました。

わたしが「外部講師」としてうかがった公開授業終了後、間もなく、倒れられる先生もいらっしゃいました。

その場に関わる教師たちの学習・発達のための授業研究会や校内研修が、その本来のねらいとはまったく逆に、教師たちにストレスとプレッシャーだけを与え、心理的な病まで引き起こしてしまっている。

それが、わたし自身の「教師教育」に関わる経験のスタートでした。そのため、今でも自分は「教師教育」に関わる資格はないと思っていますし、今の仕事を辞めるべきではないかと思い悩んでばかりです。

 

そのような状況にあるわたしにとって、本書を読むことは、かなりしんどいに違いない……立ち直れなくなってしまうかもしれない。そんな不安を抱えながら、本書を開きました。

案の定(?)と言ったらよいのでしょうか。本書の中にあった、次のような記述を読み、読後、かなり落ち込みました。

とはいえ、これは実はなかなか難しいことでもあるのです。というのは従来校内研修は、教科教育=授業づくりベースなので、校内の先生方ご自身も教科の専門性を高めるという学び方以外の学び方があることに(経験がないので)関心が向けられません。また外部から招聘する講師も、教科の専門性が高い方になりますが、こうした専門性の高い方が、場づくりに精通しているとはいえないことがほとんどです。従って、よかれと思ってこんこんと教科の難しい話をねじ込んでいき、校内研修の場が冷え切ってしまうというようなことが起こります。(石川晋, 2019, p.127)

 

まさに、わたしのように、「外部講師」で呼ばれる人間のことです。

このようなことを言うと、「開き直っている場合か!」と批判されると思います。その批判はごもっともです。わたし自身も、常に、自分に対してそのような批判を向けています。ですので、いつも「授業研究会の講師に招聘しないでほしい」と公言しています。

それでも立場上行かざるを得ないので、「今、ここで自分にできることもあるかもしれない」とわずかな希望をもって、授業が行われている現場に身を置いてみることにしています。そして、自分がその場に身を置くことで感じたことを、できるだけ言葉にしてみることにしています。

全体に目くばりして、場づくりをする(!)なんて、そんなすごいことはまったくできそうになく、自分の身をそこに置くことしか、自分にはできないのです。

 

だから、とにもかくにもそこから初めてみよう…と、ようやく思いはじめたのが、つい2年前くらいのことです。

そのようなかたちで考えなおして、自分なりのかかわり方を見出そうとしていた時期に、渡辺貴裕先生(東京学芸大学)が、全国大学国語教育学会第134回大阪大会で、公開講座「学校で取り組む国語科授業研究の展開② ~学校・教育委員会・大学など異なる立場からのかかわりを活かして」PDF)をコーディネートされることになり、その場に「コメンテーター」として招聘していただくという機会を設けていただきました。

この公開講座では、学校の管理職・教育委員会の指導主事・教育方法学の研究者それぞれの立場から見た授業研究の実践報告がなされました。わたしの役割は、それぞれの実践報告から見出される共通の知見を「コメンテーター」という立場でまとめ、国語科教育学の理論や自分自身の経験を踏まえがら、「教科教育の研究者は、授業研究に何ができるのか?」をお話しすること。

この機会をいただけたことで、枯れ果てた荒野にようやく小さく芽吹いてきた「何か」に、自分自身で言葉を与えられたことは、わたしにとって、本当に大きなことでした。

そのときに、お伝えできたことも、結局は、「言葉の学習が行われている現場に、自分の身体を置いてみること、そこで見えたことを、国語科教育にかかわる種々の理論や言葉を支えにしながら、言語化すること」というに尽きるので、「だから、なんだ」と言われそうですが、それでも、やっぱりそれしかできないと思うのです。

それでも、何か言葉にしてみることで、そして同じ現場を見ていた人たちと言葉を重ね合わせながら、みんなで一緒に、今ここで見たものについての言葉を創造していくことで、世界は変わっていくのだと思います。

 

言葉によって、私たちの世界が見せる相貌はまったく変わってくる。

だからこそ、その言葉の力を信じて、みんなが幸せになれる言葉を生み出していくことに賭けてみる。

その公開講座から、もう2年近くが経ち、来年上旬あたりにはそろそろ公開講座のオンライン・ブックレットが発行されるのではないかと思える時期にもなりましたが、やはり、「国語科教育研究者の立場から」、授業研究にかかわる意義を述べよ、と言われたらそう答えるしかない、という思いは変わっていません。

 

『学校とゆるやかに伴走すること』を読んで、そのときの公開講座のことを思い出しました。

アルプスワインの「にじいろ」ワイン

今年は、葡萄が不作であったせいか、11月3日の山梨ヌーヴォーの解禁日に新酒が出そろっていないワイナリーがいくつもあったようで、11月3日に行われた「第33回 かつぬま新酒ワインまつり」では、甲州やベーリーAの新酒が出ていなかったブースがいくつかありました。

そんなこともあり、また、クリスマスやお正月に向けてワインを買いだめておく、という目的もあり、このタイミングで、ふたたび、勝沼・笛吹に行ってまいりました。

今回、訪れたのは、ニュー山梨醸造(8vin-yard Misaka)、アルプスワイン矢作洋酒(以上、笛吹市)と、大泉葡萄酒蒼龍葡萄酒丸藤葡萄酒工業ルバイヤート)とフジッコワイナリー(フジクレール)(以上、勝沼市)、笹一酒造(オリファンファイン)(大月市)です。

全8か所!こう書いてみると日帰りツアーの割に、けっこう頑張って、ワイナリーめぐってますね。

 

わたしは今回ドライバーだったので、試飲はできず、それぞれのワイナリーで購入した新酒の味を楽しめるのはこれから(!)なのですが、ワイナリーに行ってそこにあるワインのラインナップを見たり、あるいは、そこにどんな人たちが集まるのかを見たり、さらに、そこでいろいろお話を聞いたりするのは、すごく楽しい。

わたしはかなりアルコールに弱いので、むしろドライバー役をして、いろいろなワイナリーを巡ることに特化したほうが良いのではないか、とすら思います。

そんな気づいたこのひとつひとつを、そのままにしておくのはもったいないので、残しておきたいことを記事にしておくことにしました。

 

今回、ご紹介したいのは、笛吹市一宮町にある「アルプスワイン

今年7月に、笛吹市のワイナリーめぐりをしたときに、アルプスワイン直営店(サロン)を訪問し、サロンで試飲をさせていただいたときの経験と、そのとき購入したワインがとてもよかったので、再び、アルプスワインに行ってきました。

アルプスワインの直営店(サロン)には、「ボス」がいらっしゃって、その「ボス」がとても素敵なんです。「ボス」のブログもとても素敵なので、ぜひ見ていただきたいです。(アルプスワイン・ボスのサロン日記)

 

さて、アルプスワインの展開しているラインナップのひとつににじいろ」シリーズというのがあります。

7月に行ったときには気づかなかったのですが、同じデザインのラベル「あじろん」(黒ラベル)は、「にじいろ」シリーズではなかったことに気づきました。

f:id:kimisteva:20191215135027p:plain

にじいろワインとあじろん(アルプスワイン株式会社HPより)

http://www.alpswine.co.jp/product/

 

あじろん」は、「にじいろ」シリーズではない。

…とすると、「にじいろ」シリーズは、(LGBT運動の象徴である)6色レインボーなのではないか!

と、突然思い立ち、きちんと調べてみたところ、レインボーフラッグで使用されている6色は「赤」「オレンジ」「黄色」「緑」「藍色」「紫」の6色で、もともと使用されている8色のうち「ピンク」と「ターコイズ」が外されているので、違うということがわかりました(笑)

www.gizmodo.jp

 

「にじいろシリーズ」で展開されているワインの「にじいろ」は、「ターコイズ」(甲州)、「黄色」(ナイヤガラ)、「ピンク」(巨峰)、「緑」(デラウェア)、「赤」(キャンベル)、「紫」(ベイリーA)です。

 

さすがに考えすぎか…と思いつつ、それでも「あじろん」を入れずに、6色の「にじいろ」であることに思いをはせてしまうのでした。

これまでは、ジャパニーズスタイルワインのシリーズと、プレミアムワインのシリーズしか買ったことなかったけれど、ゴールデンウィーク前あたり、「にじいろ」シリーズを買いにいってみよう。そして、「にじいろ」ワインを飲もう。

…そんなことを思うのでした。

書く。部@「アートセンターをひらく 第Ⅱ期」展

水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催されている「アートセンターをひらく 第Ⅱ期」本プログラム内の「部活動」として開催されている「書く。部」に、「顧問」として参加しています。

アートセンターをひらく 第Ⅱ期 部活動|現代美術ギャラリー|水戸芸術館

 こちらのページで説明されているように、「ギャラリーをアーティストや来場者の『創作と対話』のために活用」した第Ⅰ期に対し、第Ⅱ期では「展示と対話」がテーマ。「展覧会を軸に、対話とさまざまな活動を育む場」としてのギャラリーが目指されています。

第Ⅰ期・第Ⅱ期と2つの期間にわたって展開されている「アートセンターをひらく」という一連のプロジェクトに対しては、すでに『美術手帖』に、中尾英恵さん(小山市立車屋美術館・学芸員)の詳細なレビューが掲載されているので、ぜひそちらをご覧ください。

bijutsutecho.com

「書く。部」にこれまで「顧問」として関わってきたものとして、気になってしまうのは、この記事の中の次の部分です(下線・太字は引用者)。

「展示と対話のプログラム アートセンターをひらく 第Ⅱ期」では、「創作と対話のプログラム アートセンターをひらく 第Ⅰ期」の成果としての作品展示が行われた。7つの作品から、何かしらの「テーマ」や「ストーリー」を読み取ろうとすると、袋小路に陥る。その思考方法自体が、慣習に陥っている。

これは、お決まりのテーマ展ではない。高らかに宣言はされていないが、アーティストの選択には、丁寧なジェンダー、人種的配慮がなされている。多様性が共存している社会の縮図のようでもある。そして、作品のメディアにおいては、インスタレーション、映像、染織、パフォーマンス、絵画、身体表現と異なる方法が選ばれている。鑑賞者における従来の美術史優位のヒエラルキーを崩し、ダンスをしている人、手芸をしている人、様々な知識や経験を持つ人が、それらの知識や経験を駆使して鑑賞することで、美術史もひとつの知識として、フラットな立場での「対話」がつくられるようになっている。

「公共を構成する人とは誰か? 中尾英恵評『アートセンターをひらく』」-美術手帖

 

「7つの作品から、何かしらの『テーマ』や『ストーリー』を読み取ろうとすると、袋小路に陥る」と指摘されているとおり、「アートセンターをひらく」以前に、水戸芸術館で展示されていた展覧会のような感覚で、「アートセンターをひらく 第Ⅱ期」の展示を見ようとすると、混乱に陥ってしまうようです。

昨日も、「なぜこの順番で展示されているの?」という質問をされた、という話を聞いたり、たまたま展覧会について話しているなかで「再キュレーションが必要」という人がいたりするのを見ました。

「アートセンターをひらく 第Ⅱ期」のページにあるとおり、この展覧会は「アートセンターをひらく 第Ⅰ期」に行われたアーティスト・イン・レジデンスの成果展なのだから、展示の順番に意味はない(と言い切って良いと思う)。でもそれが、現代美術館のギャラリーの中に展示されているために、「この順番には何か意味があるのでは?」「なにかキュレーション的な意味があるのでは?」と読み取ろうとしてしまって、混乱してしまうのでしょう。

この記事はそういう感覚を「その思考方法自体が、慣習に陥っている」と批判している。のだけど、一方で、混乱している鑑賞者の皆さんを見かけたり、そういう人たちと話をしている身としては、「かといって、この展覧会の中に『慣習的な思考方法』とは異なる、オルタナティブな思考方法が提示されているわけでもないしなぁ…」とぼんやに思ってしまうのも事実。

もちろん、「アートセンターをひらく 第Ⅱ期」では、おなじみの対話型鑑賞プログラム「ウィークエンド・ギャラリートーク」のみならず、「冬のこらぼ・らぼ」として「あーとバス 番外編」や、視覚に障がいがある人との鑑賞ツアー「Session!」「美術と手話」と展示を軸に対話を行うための数多くの対話型鑑賞プログラムが予定されており、それらによって「様々な知識や経験を持つ人が、それらの知識や経験を駆使して鑑賞することで、美術史もひとつの知識として、フラットな立場での「対話」がつくられるようになっている」ともいえるのかもしれません。

でも、なんだか、それってちょっと奇妙。

複数のアーティストを招聘するタイプのアーティスト・イン・レジデンスの成果展が、閉じられた美術館という場所で行われていて、その成果展で展示されている作品には特につながった「テーマ」「ストーリー」はないから、鑑賞者の力でなんとか意味を創り出してね!と、突然ポーンと投げだされた気がしています。

それが「フラットな立場での『対話』」と言われたら、そうなのかもしれませんけど、考えれば考えるほど、奇妙。

 

とはいえ、そんな奇妙な状況を面白がれるのも、「書く。部」のような、無手勝流の活動の力だとも思うので、昨日の第2回活動では、勝手に、展覧会を楽しんじゃうためのアイデアをいろいろ試してみました。

 

まず、個人活動としてやってみたのは、展示作品をひととおり鑑賞したあとで、「ZENタイル ソロ」を使って、鑑賞体験をふりかえる活動。

f:id:kimisteva:20191207161436j:plain

ZENタイルで鑑賞体験をふりかえる

わたしは、第1回の対話型鑑賞会に参加できなかったので、言語化するために、まずそれぞれの作品から感じた感情を掬いだしておきたいな、と思って、ZENタイルでゲーム的にふりかえってみました。

今、あらためてギャラリーマップと対照しながら見直してみると、完全に、第3室(呉夏枝《彼女の部屋にとどけられたもの》)と第4室(ハロルド・オフェイ《村のよそ者》)を逆にとらえて配置してしまっていますが、展示室を一通りめぐってみたときの気持ちの流れを自分なりにとらえられた気がします。

ちなみに、右下の方にある「熱」「愛」は、「磯崎新―水戸芸術館縁起―」のひとつとして展示されているタワー建築動画を観た際の感情を表しています。「え!あれ、全部観たんですか!」と言われましたが、わたしにとっては胸が熱くなる動画でしたよ。建築工法!

 

その後ようやく、「書く。部」第2回活動としてやってみることになっていた、展示室ごとに「一言」「1フレーズ」をつけてみる活動にトライ。

 

ちょうど昨日は、「あーとバス」と、砂連尾理さんによる「変身」ワークショップ」が開催されている日でもあったため、「あーとバス」スタッフの人たちに子どもたちとの会話のなかで印象的だったエピソードを聞いたり、「変身」ワークショップの参加者に、経験の中で感じていることを取材したりして、そこからキーワードやキーフレーズを出していったりしました。

f:id:kimisteva:20191207184716j:plain

「書く。部」第2回活動用の取材メモ

最終的には、自分自身が各展示室の作品に向き合いながら感じたことをもとに、「一言」「ワンフレーズ」を作ってみて、みんなで共有。

f:id:kimisteva:20191208110025j:plain

各展示室の作品にキャッチコピーをつけてみる

共有したあとに、それぞれの「一言」「ワンフレーズ」に出てきたキーワードの共通点や差異について話しながら、新たなキーワードが出てきたり、そこからまた作品の意味の捉えなおしが起こったりして、なかなかホットな議論の場が展開されました。

 

「書く。部」では、今後、年明けになんらかのかたちで、「書く。部によるギャラリーガイド」を作成・配布できるようにしていくつもりです。

水戸芸術館のホームページでは、すでに申込締め切りということになっていますが、いろいろなかたちで、ゆるやかにかかわれるように活動そのものを考えていますので、せっかくの「フラットな対話」の機会ですので、「袋小路」に陥らずに、自分の目と耳を使って、感情と思考を動かしながら、自分なりの作品の意味をつくっていこう!というかたは、今からでもぜひ、お声がけください。

あと1~2回、活動を予定していますので、いろいろな方と、作品の意味をつくる対話をしていけたら、と思っています。