kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「老い」をめぐる悲劇的なナラティブと出会いなおす―『インプロがひらく〈老い〉の創造性』

高齢者パフォーマンス集団「くるる即興劇団」を主宰されている園部友里恵さんより、「くるる即興劇団」のアクションリサーチ本『インプロがひらく〈老い〉の創造性』(新曜社)をご恵投いただきました。

 

「くるる即興劇団」という名前を知って、すぐに興味を持った背景には、わたし自身の「老い」や「(中途)障害」に対する接しかたの特殊さ(?)みたいなものが起因していたように思います。

注文を間違える料理店」について知ったときも、そうだったのですが、「ああ!わたしが感じていたことを、一緒に楽しんで話してくれる人が、家族以外にもいたんだ!」という感じ。なんだか、ホッとするような、うれしいような……肩に乗っていた大きな荷物がフワーッと降りていく感覚がありました。

 

というのも、わたしが高校生のときに母が脳梗塞で倒れて、半身麻痺+失語症になり、それから言語のリハビリーテーションに付き添いにいったり、「失語症友の会」などの集まりに行ったりして、さまざまな失語症の方や認知症の方にお会いするなかで、その個性豊かな現れに、毎回、新鮮な驚きを感じるばかりだったのです。

母がとてつもなくポジティブで、半身麻痺になろうが失語症になろうが、私以上にアウトゴーイングな人間だった、というのも大きいのだと思います。

ようやく、まったく話せない状態から少しコミュニケーションができるようになった、ということで、看護師の方が母に「この人(私を指して)は、誰ですか?」と聞いたときに「魏志倭人伝」と答えたことは、わたしにとって、一生もののエピソードになりましたし、その後も、母が、話したり書いたりするときに起こすミステイクが、毎回、興味深くて、大学で受講していた言語心理学言語障害論とあわせて面白くてたまらない!という感じだったのです。

 

一方、そんな「面白い」「興味深い」というワクワク感は共有されることもないまま時は過ぎ、そんななか2年前に、Eastside Institute のImmersion Programを受講しにいく直前、Eastside Instituteに関わるメンバーが行っている「Joy of Dementia」というワークショップの記事(ワシントンポストの記事)を紹介され、「ああ、これだ!」と思いました。

www.washingtonpost.com

 

ニューヨークでのImmersion Programの最終日には、プログラムに参加しているメンバーたちと、私たち自身の「認知症」とのかかわりや経験、イメージについて対話しあう機会を得ることもでき、そのなかで、あらためて、日本・米国というローカリティを超えて、老いや認知症に対する「悲劇的なナラティブ(tragetic narrative)」が人々の基底に流れているか、ということを実感しました。

本書の「はじめに」で紹介されている、園部先生と「じーちゃん」「じいちゃん」との関わりをめぐるエピソードは、それだけでも、私にとってはとても読む価値のあるもので、それこそ、フワッと肩の荷が下りていく感じがしました。

もちろん、第5章で葛藤しながら、園部先生は、逡巡しながら、老いや認知症の「悲劇的なナラティブ」やそれを前提としたポジティブな語り(「ボケないようにしなくちゃ」)に向き合われていることについて、語られており、実態はそんなにイージーなものではありません。

きっと、園部先生ご自身が、高齢者の皆さんが「悲劇的なナラティブ」を語られれるのを目のあたりにして悩まれたり、落ち込まれたりすることもあるのだろう、と思います。

それでも、このようなかたちで、老いや認知症をめぐる「悲劇的なナラティブ」を相対化しうるような物語が生まれ、世に出されたことは、本当に素敵なこと。

ぜひここから、私たちの、老いや認知症をめぐる物語を語り直していければ、と思わせてくれる本でした。

「ほっといてください」の感情共有装置―宇佐美りん『推し、燃ゆ』

ようやく、宇佐美りん『推し、燃ゆ』を読んだ。

芥川賞受賞作であり、かつ本屋大賞にもノミネートされていることもあり、とにも書くにも評判は高いのだが、本の「あらすじ」を見ようとしても、ほとんど、帯コピー(「推しが炎上した。ファンを殴ったらしい。」)と同内容の分しか見ることができない。

さらにいえば、帯の裏面に記載されているコメントも、なんだか、てんでバラバラで、とにかく「推しが、燃えた」=「推し、燃ゆ」=タイトルしかわからないところが、まず、面白い。

 

一読後、なによりもまずはじめに思い出したのは、岩井俊二監督映画『リリイ・シュシュのすべて』。
この240秒版TVSpotの最後に流れる、ブラック画面上のメッセージー《僕にとって》《リリイだけが、》《リアル。》――は、『推し、燃ゆ』の基底に流れているものと、とても似通っている。


映画『リリイ・シュシュのすべて』TVspot 240秒

 

しかし、『リリイ・シュシュのすべて』において、世界が、中心的な視点人物のみならず、その周囲の《14歳》たちすべてにとって「灰色(グレー)」であったのに対し、『推し、燃ゆ』では、もっぱら、語り手の視点のみに靄がかかり、そこから見える視界だけがぼやけている。

 

語り手自身がもっている特殊なレンズによって、ある時はクリアに見え、かと思ったら突然靄に覆われてまったく視界不良になったりそんな世界の「見え」を、驚くべきほど正確に記述している、という点が、この作品があれほどまでに絶賛される所以なのだと思う。

もっとも単純な例をあげれば、悪天候のなか、母親の運転する車の後部席に乗って、海岸沿いの道を走るシーンがある。

 

 目をひらく。雨が空と海の境目を灰色に煙り立たせていた。海辺にへばりつくように建てられた家々を暗い雲が閉じ込めている。推しの世界に触れると見えるものも変わる。あたしは窓に映るあたしの、暗いあたたかそうな口のなかにかわいた舌がいるのを見て音もなく歌詞を口ずさむ。こうすると耳から流れる推しの声があたしの唇から漏れでているような気分になる。あたしの声に推しの声が重なる、あたしの眼に推しの眼が重なる。

 母がハンドルを切る。ワイパーの範囲から外れた雨が窓を垂れていき、タッターッ、タッターッ、と規則的な音とともにぬぐわれた窓ガラスがまた曇る。並んだ木は輪郭を失い、鮮やかすぎる緑色だけが目に残る。

(宇佐美りん『推し、燃ゆ』、pp.31-32)

 

車で移動しているのだから、そもそも映る景色は変わっている。悪天候時によくあるように、その薄暗さも移り変わっているのかもしれない。

そんなことを考えてしまうくらい「目をひらく」の直後の文に感じた明るさや温度感が、次の段落の最後には失われている。窓ガラスは、また曇っているのに、それでも、読者のイメージする視界いには、鮮やかな緑色が残る。その世界は、薄暗い世界のなかでも、美しくクリアーだ。

 

瞬間瞬間で変わっていく、焦点のぼやけかた、視界の明暗を、このくらいの正確さで描出しながら、悪い方向に向かっていくけれどもなんだか靄がかかったようにぼやけていてよく見えない世界と、推しの光のなかで何もかもがクリアーに見通せる世界とが対比的に描きだされる。

 

そしてそれによって、描き出されるのは、第三者的な記述のなかでは、「ほっておいてください」*1という言葉で象徴的に表現されてきた、ファンたちの世界だ。

宇佐美りんさんは、『好書好日』のインタビューで「一方通行だから、いい」という推しの感情のありようが、あまりにも理解されないままでいることが、本書を書く原動力になったと語っている。

宇佐見りんさん「推し、燃ゆ」インタビュー アイドル推しのリアル、文学で伝えたかった|好書好日

 

「ほっといてください」という言葉で象徴されるような、一方通行的な愛情。

一方向的で、自分の側を見返されることがないという安心感のなかでこそ得られる心理的な癒しや支え。

それは、一方で、自分自身の暴力性に対する無自覚さとして批判されるべき対象ではあるが、その一方で、それがなければ生きていけない、というほどの切実さをもって、一方向の愛情を必要とする人々がいることも事実なのだ。

 

カズオ・イシグロが述べるように、小説家の役割が「感情(emotion)を物語に乗せて運ぶこと」なのであるとしたら、『推し、燃ゆ』は、「ほっといてください」としか言えないがゆえに批判・非難されてきたファンたちの感情を、物語に乗せて、社会に共有しようとする企てなのだろう。

「時空を超えて伝わる『感情』を描き出す」作家、カズオ・イシグロの野心 | WIRED.jp

 

遠くから思いを馳せざるをえない時代のアートー「メゾン・ケンポクの何かはある2020」アーカイブサイト

昨年(2020年)1~3月に開催されていたメゾン・ケンポクの「何かはある」。

メゾン・ケンポクの『何かはある』(メゾン・ケンポク、茨城県北各地)

今年開催が予定されていた「何かはある2021」も、新型コロナウイルス感染拡大の影響により、一部プログラムが休止したり、開催形態が変更になっているようです。

maisonkenpoku.com

いま、振り返ってみると、昨年度の「何かはある」も、まさに、新型コロナウイルスによる社会生活への影響が少しずつ、そして、確かにはっきりと、生活のなかで感じられてきていた時期に開催されていました。

 

その「何かはある2020」のアーカイブ・サイトが公開された、とのお知らせをいただきました。

maisonkenpoku.com

このブログにも記事を掲載した、松本美枝子《海を拾う》レビューや、華雪さんによるワークショップ《和紙に文字を植える》のレポートも、アーカイブサイトに記事をご掲載いただいています。

 

kimilab.hateblo.jp

 

kimilab.hateblo.jp

 

松本美枝子《海を拾う》に関しては、上記ブログ記事でもご紹介しているわたしのちいさなレビューと一緒に、小松理謙虔さん(ローカル・アクティビスト)によるかなり詳細な作品レビュー「石が問う、産業と地域、そして芸術」も掲載されています。

-松本美枝子《海を拾う》レビュー「石が問う、産業と地域、そして芸術」/小松理謙虔さん(ローカル・アクティビスト) 

同じ作品に対する複数のレビュー(しかも、小松さんのレビューは、私が書いたようなライトでフワフワッとしたものではなく、小松さんご自身のこれまでの経験に根差しながら、本作から地域とアーティストとの関わりに関する深い考察を導き出した、かなり骨太なレビューです!)が、ひとつのページのなかに並べられていて、それらを見ることができる、というのは、なかなか素敵なこと。

普段から、自分が見た/経験した作品やプロジェクトに対しては、いくつかのレビューサイトを見比べたりもするけれど、それが本サイトのなかで、主催者側の企画として実現されている、というのが素敵です。

さらにいえば、もともと、松本美枝子《海を拾う》の映像によるドキュメント/レビューとして制作された鈴木洋平監督による派生作品《短編映像|海を拾う》も掲載されていて、文字(テクスト)によるレビューとはまた異なった視点で、《海を拾う》という作品を「経験」(ここはあえて「経験」と言いたい)することができます。


松本美枝子「海を拾う」

 

 松本美枝子さんといえば、2014年に行われた「鳥取藝術祭」での美枝子さんの仕事がとても印象的でした。

芸術祭の「広報」という枠で行われたものであるにもかかわらず、「鳥取藝術祭に来られない人」、遠くからこのプロジェクトに思いを馳せる人たちに向けた、写真+テキストによる作品(とあえて言いたい)が実現されていて、非常に感銘を受けた記憶があります。 

kimilab.hateblo.jp

 そんな松本美枝子さんが、『未知の細道』での連載のなかで、同様に、現地に来られない人たちにとっての「演劇」のありかたを探った、長島確とやじるしのチームによる「←(やじるし)」のプロジェクトについての記事を書かれていたのも、とても面白い。

www.driveplaza.com

さらにいえば、昨年は、ヨコハマ・パラトリエンナーレ2020の《BOOK PROJECT|そのうち届くラブレター》にも、アーティストとして参加されていて、山本高之《悪夢の続き》への「応答」として、誰かによる「見せたい風景」をピンホールカメラで撮影された写真群を作品として展示されていたのが印象的でした。


山本高之《悪夢の続き》 Takayuki Yamamoto The Nightmare Continues, 2020

(BOOK PROJECTの感想も書こうと思って書けていない…できていないことが多すぎますね)

 

新型コロナウイルスの影響で、「現地に行くことができない」「遠くから思いを馳せることしかできない」という状況のなかで、今後、松本さんがどのようなプロジェクトを今後展開していくのか、ますます楽しみになるようなアーカイブサイト公開のお知らせでした。

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松本美枝子《海を拾う》展示作品の一部

 

ミスリード情報をリツイートしてしまった話――フェイクニュースとの付き合い方

先日、BuzFeed  Japanによるファクトチェック記事「新型コロナワクチン、「感染予防効果なし」は誤り」が公開されました。

www.buzzfeed.com

マスメディアによる、いわゆる「反ワクチン」報道については、これまでも話題になってしましたが、それに対して、BuzzFeed  Japan がファクトチェックを行い、専門家にヒアリングを行いその見解を紹介する、というかたちで切り込んだかたちになります*1

そして今日は、同じBuzz Feed ニュースで、「反ワクチン」報道記事の削除が相次いでいることが取り上げられていました。

www.buzzfeed.com

 

新型コロナウイルス関連の報道に関しては、実は、わたしも反省(懺悔)しなければならないことがあり、そのことについて、ここで記しておきたいと思います。


1月中旬頃、都営大江戸線運転士の集団感染(新型コロナウイルスへの集団感染)に関して、運転士らが使用していた洗面所の蛇口を介して感染が広がったのではないか、というニュースが複数のメディアで報じられました。

以下に示す読売新聞の独自取材記事がもととなり、読売新聞で報道されたあと、共同通信でも報道があり、NHKニュースや民放でも放映されました。

www.yomiuri.co.jp

大江戸線運転士の集団感染、蛇口経由拡散か(共同通信) - Yahoo!ニュース

洗面所の蛇口介し感染か 都営大江戸線の新型コロナ集団感染 | 新型コロナウイルス | NHKニュース

 

そして、このニュースに関しても同様にBuzzFeed Japanで検証したところ、このニュースが「ミスリードであるという評価がなされました。

www.buzzfeed.com

 

じつは、私、読売新聞の独自取材記事が、オンラインで公開されていた時に、この記事を自分自身のTwitterリツイートしていました。

その後、1月23日に、フォローしていたファクトチェック・イニシアティブのアカウントで、以下のツイートを拝見し、驚いて記事本文を見てみたところ、「洗面所の蛇口が感染ルートであった」という説明が、あくまで、対応した保健所から出されたひとつの可能性に過ぎず、専門家からも疑義が呈されていたことがわかりました。

 

 

メディアリテラシー教育研究者の端くれとして、フェイクニュース(とまでは言えないですが)の拡散を防止するどころか、拡散に加担してしまった(!)ということにショックを受けると同時に、わからないことだらけで、かつ日々変化していく未知のウイルスの存在に直面している現在、今回のような情報の拡散を完全に防ぐことは(ほぼ)不可能である、ということも思い知りました。

 

たとえば、NHK for School『週刊メディアタイムズ』には「フェイクニュースを見抜くには」という回があり、ここで示されているポイント(資料PDF)を見てみると…

 

「発信元を探る」

「他のメディアを調べてみる」

「文章の表現に着目」 

 

…とあり、完全な「フェイクニュース」はもちろん、今回のような真偽の不確かさをもつニュースであっても「他のメディアを調べてみる」は有用だと思っていたのですが、読売独自取材→共同通信(通信社)→報道各社…というルートで、同じニュースが掲載されていると、さすがにこれに対して、真偽が不確かな情報だと思うのは難しい。

その段階になると、むしろ読み手の側の「ニュースリテラシー」によって、情報の確からしさを、他のニュース同様に吟味するなかで、自分自身の対応を決めていく必要がありそうです。SNSの拡散という段階で防ぐのは難しいし、情報のスムーズな流通が滞るというデメリットの方が大きそうです。

 

そうであるとすると、私たちができるのは、「ミスリード」するような情報は存在する、ことを前提に、ニュースと付き合っていくことなのだと思いました。

予防線として、今回、私がそうであったように、ファクトチェック団体のSNSをフォローしておく、など、いつでもファクトチェック情報にアクセスできる環境を整えておくことは有用そうです。そして、自分が拡散した情報が、誤情報あるいは真偽が不確かな情報だと思ったときに、それを積極的に拡散していく(…といっても、そういう情報はなかなか拡散してもらえないのですが)ということが、求められるのかもしれません。

 

そういう自分自身のメディア環境をデザインすることも含めて、「ニュース・リテラシー」「メディア・リテラシー」を考えていく必要があるように思います。

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大日本タイポ組合「文ッ字」展・展示作品より

 

*1:この記事内容について、当初、「ファクトチェック・イニシアティヴがファクトチェックを行い…」と記載していましたが、読者の方から、実際に検証を行ったのはBuzzFeedであるというご指摘をいただきましたので、記事内容を訂正しました(2021/1/27)。

文部科学大臣記者会見「令和の日本型学校教育」を担う教師の人材確保・質向上に関する検討本部」について

萩生田文科相は、1月19日の記者会見で、文部科学省内に「「令和の日本型学校教育」を担う教師の人材確保・質向上に関する検討本部」を立ち上げることを表明しました。

この件に関しては、教育新聞が「「教師を再び憧れの職業に」 文科相、検討本部設置を表明」(2021/1/19)と報じるほか、Yahoo!ニュースに前屋毅さん(フリージャーナリスト)の記事「「憧れの職業」になっていないのは教員の責任なのか、萩生田文科相の気になる言い方」(2021/1/20)が掲載される他、それほど話題になっているわけではないようですが、私はこの省内の検討本部立ち上げと、それに対する文科相の説明に、大きな違和感を覚えました。

 

検討本部の立ち上げに関する違和感というのは、簡単にいえば、「なんで、それ、必要なの?」ということです。

記者会見では、これについて、はじめに次のように説明されています。

最後に、本日、私の下に「『令和の日本型学校教育』を担う教師の人材確保・質向上に関する検討本部」を設置することとしましたのでご報告いたします。

…(中略)…

この点、中央教育審議会においても「『令和の日本型学校教育』を実現するための、教員養成・採用・研修の在り方」について、今後更に検討していくこととされており、また、教育再生実行会議におけるご議論においても、個別最適な学びを実現するためには教師の指導力の向上も重要であるとのご意見を多くいただいていることから、当面の取組とともに、中長期的な実効性ある方策を文部科学省を挙げて検討していくために、私の下に検討本部を設置することといたしました。

私自身が先頭に立ち、質の高い教師の確保に向けて取組を進めてまいりたいと思います。 

ここで言及されているとおり、 すでに、この件についてはすでに、中央教育審議会でも議論が進められているのです*1

中央教育審議会の「『令和の日本型学校教育』を実現するため…」は、昨年(2020年)10月に中間報告を出しています。

「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(中間まとめ)(令和2年10月 初等中等教育分科会):文部科学省

その中で、教員養成・採用・研修について議論について言及された部分は、以下のとおり(概要PDF, p11)

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令和の日本型学校教育答申(中間報告)-教員組織のありかた(概要)

なお、1/26に答申そのもののまとめも出されましたが、その内容を見ても、中間まとめから、(2)と(3)のレイアウト(概要版に示されているスライドのレイアウト)が変更されたくらいで、内容としては、それほど大きな変更はなさそうでした。

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令和の日本型学校教育答申(まとめ)1/26発表

「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申)(中教審第228号):文部科学省

さてこれらの中に「(5) 教師の人材確保」として示されている内容の本文にあたると、以下のような記述があります。

● 近年、採用倍率の低下や教師不足の深刻化など,必要な教師の確保に苦慮する例が生じており、教育の仕事に意欲を持つより多くの志望者の確保等が求められている。(本文PDF, p71)

記者会見の中で「この点、中央教育審議会においても、…更に検討していくこととされており」と言われているのは、おそらく、このことを言っているのだろうと思います。

そうだとしたら、これまでどおり、中央教育審議会による議論の経過を見守り、答申を受けて、その政策的実現に努めれば良いのではないでしょうか。

なぜ、わざわざ中間報告が出されて数か月の段階で、その中の1項目について、突然、検討本部を設置することになったのか、がよくわかりません。

 

おそらく、同じような疑問を持たれたからではないかと思いますが、記者会見の中でも記者から、その検討本部の「具体的な運営方法と検討事項」って何なの?、と質問を受けています。

それに対する回答のなかで「目指すべき出口」として示された内容が、こちら。

最後、目指すべき出口は何かと言ったら、私、常に申し上げているように、教師という職業を再び憧れの職業にしっかりとバージョンアップしてですね、志願者を増やしていくということにしたいと思います。

そのためには、働き方改革や免許制度や、あるいはせっかく少人数やICT教育が始まるのに、今の教職養成課程では、もう誤解を恐れず申し上げれば、昭和の時代からの教職課程をずっとやっているわけじゃないですか。

そうすると、こんなに学校のフェーズが変わるのに、教えている大学のトップの人たちは、まさに昔からの教育論や教育技術のお話をしているわけですから、この辺も含めてちょっと大きく変えていかないと、時代に合った教員養成できないし、

また、その目指す教員の皆さんが、何となく今までは大変な職業だというのが少し世の中に染み付いてしまっていますけれど、やっぱり夢のある、やりがいのある仕事なのだということをしっかり理解してもらえるような、そういう教師像っていうものを求めて検討していきたいなと思っています。

教育新聞では、この冒頭の一文がタイトルで取り上げられていたわけですが、それに便乗するかたちで、突然出てきた「教職養成課程」への非難(?)がなかなかな内容です。「誤解を恐れず申し上げれば」という前置きをしつつ…

「昭和の時代からの教職課程をずっとやっている」

「昔からの教育論や教育技術のお話をしている」

…という批判が述べられます。

 

なぜ、突然このようなことを言いだしたのか。その根拠が、わたしにはよくわかりません。

さきほどお示しした、中央教育審議会の中間報告でも、「(5)教師の人材確保」は検討事項として挙げられていますが、その中に、教職養成課程の問題を指摘している部分はありません。

ではもうひとつ挙げられている教育再生実行会議の方かもしれない、と思って会議資料を見てみたのですが、最近の会議資料を見てみても、教職養成課程について述べられているのは「教職養成課程における『教育格差』の必修化」(松岡亮二「『教育格差』縮小のための政策提言」)くらいしか少し探したくらいでは見当たらず(探し方が悪いのかもしれませんが…)、ちょっとよくわかりません。

 

それもそのはずで、教職養成課程に関しては、2016年の教育職員免許法改正と「教職コアカリキュラム」の作成、2017年の教育職員免許法施行規則の改正を受けて、いま、「改革の真っ最中」という感じなのです。

これについては、2018年12月7日に行われた日本教職大学協会の研究大会で、文部科学省総合政策教育局長が発表された際の資料にも、わかりやすくまとめられています(『2019年度日本教職大学院協会年報』, p68)

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教職大学院協会2019年度研究大会-資料

このようは法改正、政策の実行をおこなっているただ中に、「昭和の時代」から変わっていない、「昔」から変わっていない、という非難の言葉を向ける意味は、いったいなんなのでしょうか。

佐藤郁也(2019)『大学改革の迷走』(ちくま新書)の第2章「PDCAPdCaのあいだ―和製マネジメント・サイクルの幻想」では、大学改革のなかでよく求められる「PDCA」が実際には、書類としての「P」と「C」の作成ばかりが強調される(=「PdCa」という)ミス・マネジメントサイクルになっていることが批判されています。が、今回の検討本部の立ち上げは、もはや「PdCa」ですらない。

「PdPd」(あるいは「PPPP」?)で、「Plan」の作成ばかりが目的化して、その根拠となるような「C」や「A」がないを合理化するために、「昭和時代」「昔」といったステレオタイプ的な見方が使われているのではないでしょうか。

 

同書のなかでは、大学改革が「道徳劇」となってしまっており、大学がその「道徳的」というドラマの中の主要キャラクター(=「馬鹿(愚か者)」)として位置付けられていることが、批判的に論じられています。

今回の批判も、大学における教職課程の教員を「馬鹿(愚か者)」役として位置付けることで、「道徳劇」としての教育改革を推し進めようとしているもののように見えます。

 

このような「道徳劇」を続行させ、一部のうまくいった大学や教員だけを「英雄」として位置付け続けたとしても、教師が「憧れの職業」になることはないでしょう。

教師をふたたび「憧れの職業」にしたいのであれば、誰も「馬鹿(愚か者)」にも「悪漢」にもならない、新たな「劇」を、みんなのパフォーマンスによって創り上げていく必要があるのだと思います。

 

*(2021/1/28) 1/26に、中央教育審議会答申「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して」が公開されたことにともない、記事内容を加筆しました。答申については、以下のページをご参照ください。

www.mext.go.jp

*1:教育再生実行会議についての言及もありますが、これは「教師の指導力向上が重要」だとたくさんの人が言っているよ、というだけなので割愛。

4回だけ会えた、学生たちとの授業のこと

今年度、1年間だけ、お引き受けしていた非常勤講師先の大学での授業が終わる。
夜遅くに開講される受講者7-8人の小さな授業。

 

春学期はすべてオンラインだったので学生たちに会うことすらかなわなかったけれど、後期は少しだけ、学生たちに会うことができた。

年明けに予定されていた対面授業は、緊急事態宣言発令の影響で、急遽、オンラインに変更になり、5回予定されていた対面授業は、4回に減ってしまった。たった4回だけ、だったけれども、それでも、その時間は、とてもかけがえなかった。

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羅生門

4回だけの「会える」時間によって、そのほかの10回以上の時間の意味が本当に大きくかわった。

最終回の授業は、学生たちに、同じ授業を受けているメンバーにおすすめしたい本を紹介しあう「ビブリオバトル」。


「チャンプ本」を獲得したのは、糸井重里『思えば、孤独は美しい』

www.1101.com

なんだか、いろいろこの1年間のことを考えさせられた。

オンライン授業の後、ミーティングルームを退出する学生たちを見送っていたら、最後にひとりの学生が残って、

「実は、途中から、教員になるのは辞めようと思ったんだけど、この授業で、みんなといろいろ話したりするのが楽しくて、授業だけは受けちゃいました」といってくれる。

その学生がわざわざ残ってそれを言ってくれた主たるねらいは、「期末レポートを出さなくてもいいか」と質問をするためだったのだけど、それでも、すごくうれしかった。

わたしたちの時間は、たしかに、そこにあったのだ。


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コンヴィヴィアリティのための家事~KOSUGE1-16《ようこそHouseworks Learning Centerへ》

横浜・日本大通り三塔広場とオンラインで同時開催されていた、「スナックゾウノハナinたばZ」で、KOSUGE1-16による《ようこそ Houseworks Learning Center へ》の関係者の皆さんとのトークが開催されると聞き、さらに、本プロジェクトで上映されているミュージカル映像も視聴できると知り、オンライン配信されたトークを視聴しました。

www.facebook.com

 

《ようこそ Houseworks Learning Center へ》は、家事(Houswork)にまつわるエピソードに基づくミュージカル映像を中心に構成されたインスタレーション作品。

先週末から展示公開された作品で、まだ展示会場には足を運べていないのだけれども、作品説明を読んだ段階で…

「これは絶対、エピソードを提供した人たち(=インタビュー協力者)の話を聞いたあとに観にいった方が、面白いやつだ!!」

…と思い、あえて、週末は自宅にこもりきりで仕事をして(単に、仕事が終わらなかっただけ、ともいう)、9月27日の夜にオンライン配信予定だったトークイベントを視聴することにしたのでした。

fsp.zounohana.jp

上記ホームページの中に記載されているように、本作では、シャドウワーク」としての家事仕事に焦点を当てています。

イヴァン・イリイリ『シャドウ・ワーク―生活のあり方を問う (岩波現代文庫) 』の中で、賃金労働(ワーク)とは異なり賃金が支払われないにもかかわらず、ワークと同様に、市場経済の存続を支えつづける影なる仕事(シャドウ・ワーク)として記述される、家事仕事。

それは、人間が本来おこなってきた根源的な諸活動であるにもかかわらず、市場経済のために埋め込まれることで、単なる「無払い労働」へと変質してしまっている、と、イリイチは批判します。

 

ここで重要なのは、家事仕事が、たしかに現在、市場経済を支える「シャドウ・ワーク」である一方で、それが、人間の本来的な諸活動でもあるということ。

本作の紹介文による、本作では、さらに、そのシャドウ・ワーク前近代的な活動(人間の本来的な諸活動)に戻すのではなく、「少しでもポジティブな存在としてアップデート」することを企図しているというのも、とてもエキサイティングです。

 

そうなってくると、どういう人たちにインタビューをして、本作が創られていったのか、という点がとても気になるわけですが、そのインタビュー協力者の選ばれ方も面白かった。

KOSUGE1-16のFacebookページでの紹介では、「家事には直接関係のない専門家の皆さん」と記載されていましたが、本当にそのとおりで、一見、「なぜ、この人が?」と思う方々ばかりなのです。

 

株式会社鈴廣蒲鉾本店・研究開発センターで、塩辛などの商品開発に携わっている長岡敦子さん。 

「極地建築家」として、南極地域観測隊や模擬火星実験など、極地での生活を経験してきた村上祐資さん。

www.fieldnote.net

 

鳥取大学医学部でイモリの心臓再生メカニズムなどを研究なさっている竹内隆先生。

www.med.tottori-u.ac.jp

数学者でトポロジーを専門として研究を行っている、青山学院大学の松田能文先生。www.agnes.aoyama.ac.jp

KOSUGE1-16のご近所さん(?)で、高知県で木造建築を中心とした建築設計やまちづくりにかかわっている艸建築工房の横畠康さん。

www.sou-af.jp

逆に、「どうして、この方々を集めようと思ったんですか?」と聞きたい気持ちになります。

 

しかし、この方々が一同に会するトークイベントのなかで、その方々による家事についてのエピソードによって構成されたミュージカル映像を視聴し、それにまつわる話を聞いてみると、それぞれの方々が、「ワーク/シャドウワーク」という枠から(完全に、自由ではないとしても)少し離れたところに、自分の軸足を置くことができる人たちであること。

そして、すこしズレた軸足の置き所から、(シャドウワークとしてではなく)ニュートラルな行為や現象としての「家事仕事」なるものを眼差されていることがわかります。

 

わたしが個人的に面白いと思ったのは、毎日決まった時間(午前9時30分)に、無機的にしまわれてしまう「東横イン」の「健康朝食」のシステムを、「このシステムは使える!」と家事システムに導入した村上先生のお話。

「家事=シャドウワーク」という捉えからはじまったであろう、このプロジェクトのなかで、このような語りが見出されたことは、とても、面白いことだ、と思いました。

人間の生活リズムとは無関係に、きっかり9時30分でしまわれてしまう「健康朝食」は、とても「非人間的」であると思います。でもそれを「使える!」と思い、家事に導入してみよう、とすることには、どこか、「人間くささ」「人間らしさ」のようなものを感じてしまいます。

もちろん、それを家事に機械的に導入したりすれば、それは、単に、家事をより非人間的なものにするのかもしれませんが、そうはなってない(時間が過ぎて、食事が取り下げられてしまったときのために、カップラーメンをストックしておいているらしい)というのも、すごく「人間くさい」。

カップラーメン食というのも、それだけ単独でとりあげると、ひどく無機的で非人間的のようにみえるけれども、こういう文脈のなかで、そういう無機的なもの、非人間的なものが突然、人間味を帯びてくるというのは、面白いことだなぁ、と思います。

 

家事仕事が、どのようなかたちで、コンヴィヴィアリティのための活動になるのかは、わからないけれど、こういうちょっとした「人間くさい」活動とか、ちょっとズレた家事仕事への見方・かかわり方のなかに、その萌芽を見出すことができるのかもしれない。そんなことを思わせるトークでした。

このトーク映像は記録として残されていて、今でもまだ視聴することができます

コロナ禍で、リモートワークと自宅ごもりに疲弊してしまって、なんだか自分以外への不信感ばかりが募ってしまうような日々を送っているわたしのような方々にとっては、ちょっとした救いをもたらしてくれると思います。

象の鼻テラス Zou-no-hana Terrace - スナックゾウノハナ in たばZ (2020年9月27日) | Facebook

 

近いうちに、展示会場にも足を運ばねば!