kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

パフォーマンス心理学関連シンポジウムの報告書が公開されました

2019年3月に参加してきたイーストサイド・インスティテュート(East Side Institute)イマージョンプログラムで得た経験や知見をなんとか日本につなげたい!という思いから、2年間にわたり、日本質的心理学会大会での会員企画シンポジウムの企画にかかわってきました。

私たちが、ニューヨークでのプログラムを終えて、日本に戻ったのが3月中旬。それから数週間後に公開された、ロイス・ホルツマン(Lois Holzman)先生の記事があまりにもうれしくて感涙した記憶は、それから3年以たった今でも、リアルです。

loisholzman.org

私自身のイマージョンプログラムの報告(一部)はこちら。

 

kimilab.hateblo.jp

 

これらの企画は、日本認知科学会・教育環境のデザイン分科会(SIG-DEE)に共催で行われていたのですが、そのおかげで、これらのシンポジウムのオンライン報告書を作成・公開することができました!

 

1.「関係を紡ぐ言葉の力/言葉を紡ぐ関係の力―『言葉する人(Languager)の視点から心理療法・教育・学習を横断的にとらえなおす」(日本質的心理学会第16回大会, 2019年)(PDF)

イマージョンプログラムのなかで印象的だったセッションのひとつに、グウェン・ローウェンハイム(Gwen Lowenheim)先生の「日本語と遊ぶ(Playing with Japanese)」というセッションがありました。

そのなかで、キーワードとして何度も使われていた「Languager」という言葉に焦点をあてながら、「言葉を使用する種でもあり、言葉を創造する種でもある人間」という視点から、分野横断的に、人間の発達・学習というものを捉える理論的ベースを創れないだろうか、と思い、青山征彦先生(成城大学)とともにこのようなシンポジウムを企画しました。

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2019年度シンポジウム表紙

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2020年度シンポジウム情報

松嶋秀明先生によるご発表は、松嶋先生のご著書『少年の「問題」/「問題」の少年』(新曜社)で報告されているフィールドワークの成果を、パフォーマンス心理学的な観点からとらえなおしたもので、非常にエキサイティングでした。ここでの議論は、新曜社ウェブマガジン「クラルス」での連載記事「『道具と結果方法論』から見た学校臨床での議論にもつながるもので、あわせて読むと、本連載記事でその後展開されているディスカッション部も含めて、ひとつのフィールドワーク事例から、議論が広がっていく感じがして、面白いです。

clarus.shin-yo-sha.co.jp

 

 

2.「知識偏重社会への警鐘―『知らない』のパフォーマンスが未来を創る」(日本質的心理学会第17回大会, 2020年)(PDF)

ロイス・ホルツマン(2020)『「知らない」のパフォーマンスが未来を創る―知識偏重社会への警鐘(原著名:Overweight Brain)』(ナカニシヤ出版)の出版を記念して開催されたシンポジウム。

本書の編訳者であり、ロイス・ホルツマンらによる「パフォーマンス心理学」の議論を日本へと紹介・普及してきた、茂呂雄二先生による「パフォーマンスとは何か?」「パフォーマンス心理学が日本での議論にもたらす示唆とは何か?」についてのプレゼンテーション。

佐伯胖先生による本書およびロイス・ホルツマン『遊ぶヴィゴツキー:生成の心理学へ』(新曜社)への本質をついたクリティカルなコメント発表「パフォーマンスはあやしい!」

そして、それをめぐる本書の訳者陣と、サトウタツヤ先生による(口頭およびチャットでの)ディスカッション。

……と、今考えてみると、パフォーマンス心理学の今後の日本での展開を考えるうえで、かなり重要なイベントになったな…!と思えるシンポジウムでした。

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2020年度シンポジウム表示

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2020年度シンポジウム情報

このシンポジウムの記録が残せて、本当によかったです。

本書の訳書出版のために開催した、第1回翻訳検討会を開催したのが2018年12月…思えば遠くまできたものです。

 

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わたしは当日の口頭での議論には、ほとんど参加できていませんでしたが、チャットでの情報提供を頑張りました!

オンライン報告書では、複数のチャンネル上で展開されながら「渦」をつくっていくような議論の展開をどのように「記録化」できるか、自分なりにチャレンジしてみたつもりです。

オンラインでの議論の場は、おそらく今後も続くであろう現在。

ぜひこれをきっかけに、オンラインでの議論についての「記録化」の仕方についても、いろいろな人と議論していきたいと思いました。

 

以下に示すのは、これまでに出版されている、ロイス・ホルツマンやフレド・ニューマン、イーストサイド・インスティテュートにかかわる研究者・実践家による、パフォーマンス心理学関連書籍です。

わたしがこの分野ではじめて翻訳にかかわったのは、2016年に出版された、キャリー・ロブマンほか『インプロをすべての教室へ』(新曜社)でした。

 

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フレド・ニューマン&ロイス・ホルツマン(2020)『  革命のヴィゴツキー』(新曜社)のような重厚な理論書までをも含む7冊もの書籍が日本で出版され、日本語でそれらを読むことができる(!)という事実に、あらためて感動を覚えます。 

 

   

 

オートライフヒストリーの方法論~タラ・ウェストーバー『エデュケーション(Educated: A Memoir)』

タラ・ウェストーバー(2020)『エデュケーション( Educated: A Memoir)』を、読んだ。 

 

Amazonのページにある華々しい紹介文や、推薦コメント、そして邦訳につけられた「大学は私の人生を変えた」から推察されるように、この本は、「モルモン教サバイバリストの両親から、虐待にも近いような酷い教育を受けた著者が、大学教育を通じて人生を取り戻していくサバイバルストーリー」として読まれているらしい。

そして、著者であるタラ・ウェストーバーのホームページを見ても、自身の説明(「About」)に、大学院で歴史学を学んだことについてちょっと触れている程度なので、それほど、自分自身が、「歴史学者(hisotorian)」であるということについては大切に思っていないのかもしれない。

それはそうなのだけれども、本書の意義は、歴史学を学び、ケンブリッジ大学で博士論文「アングロ・アメリカンの協力思想における家族、道徳規範、社会科学1813-1890(The family, morality and social science in Anglo-American cooperative thought, 1813-1890)」(British Libraryのオンライン論文サービスに提供されている情報。翻訳は、邦訳書p476より)を提出し、博士号を取得した「タラ・ウェストーバー博士」によるライフヒストリー(個人史・生活史)研究と位置付けた方が良いように思える。

 

本書のところどころに、日記について言及されていることから推察されるように、、本書が、子どもの頃から、ほぼ毎日欠かさずに書き続けた日記を「史料(資料)」として用いて書かれていることは、疑いようがない。

また、本書の「謝辞(acknowledgementを「謝辞」としか訳せないのはどうにかならないのか…)」には、著者の3人の兄のうち、博士号を取得した2人の兄が「時間をかけて、記憶を呼び起こす作業をしてくれた」こと、「原稿を読み、詳細を加え、本書ができる限り正確なものとなるように協力してくれた」ことが記載されている(p495)。

さらに、本書にはプロフェッショナルによるファクトチェックも行われている(p496)。

 

つまり本書は、歴史としての個人史を記述するためのデータとの対話、それを検証することのできる人物による証言の収集と対話、そして、第三者によるプロのファクトチェックまで受けてできあがった「歴史書」なのだ。

文化人類学においては、自叙伝など、自分自身が経験したことを、自身の記述によって描出したものを「オートエスノグラフィー」と呼ぶが、本書は、歴史学者が、歴史学的アプローチによって記述した「オートライフヒストリー」(とういうのも、おかしいが)といえるのかもしれない。

単なる自叙伝を越えて、ここには、歴史学の手法を学んできた研究者としての視点がある。逆にいえば、そのような視点と歴史学的技法を身に着けていたからこそ、タラ・ウェストーバーは、モルモン教サバイバリストの両親を中心とした「記憶改ざんワーク」が派手に展開し、親族の多くから「お前の記憶は間違っている」と言われながらも、本書を書き上げることができたのかもしれない。

本書の最後の方では、両親による「記憶改ざんワーク」によって、著者自身も、「自分の記憶は信用できないのではないか」と疑いはじめたりして、そのことが、記述する主体によってオートエスノグラフィックに記述される様は、エキサイティングですらある。

わたしは、質的研究の立場から、研究者による「絶対的な視点」を疑ってきたし、フィールドノートを見直せば見直すほど、自分の記憶の不確かさに絶望することがあるけれそ、その記憶の不確かさそのものを記述する言葉をもっていない。

 

本書の凄みは、記憶が揺れつづけること、常に、異なる記憶を提示する人々に囲まれつつ、その中で、その記憶の揺らぎを含みつつ「書く」ための文体を提示したことにあると思う。

オートエスノグラフィーの手法に関心のある人々にとっては、必読書だといえるかもしれない。

 

そして、それを踏まえたうえで、わたしは本書の最後に著者が記した以下の文に疑問を呈したいと思う。

 

これを何と呼んでくれてもかまわない。変身。変形。偽り。裏切りと呼ぶ人もいるだろう。

私はこれを教育と呼ぶ。(邦訳書, p491)

 

わたしは、英語の"education"にどのような含意があるのか、まではわからない。

それでも「教養ある(educated)」という意味と近しい含意があることはわかる。

欧米における「教養」がどこまでのことを意味するのか、わからないし、近年の教養教育が、アカデミックリテラシーやリサーチリテラシーの教育までをも含んでいることは知っているけれど、それでも、わたしは、これを「教育」ではなく、「研究」と呼びたい。

著者が、記憶改ざんワークを乗り越えて、本書をかけたのは、やはり、歴史学の技法、その問いかた、その「確かなるもの」の定め方を信じることができたからだと思うのだ。

研究の方法論に依拠しながら、一方で、それをクリティカルに見ながらそこに立ち続けることで、何かを見出そうとするそのことを、わたしは「研究」と呼びたいと思う。

 

『あらためて、ライティングの高大接続』往復書簡を受けて

 ひつじ書房ウェブマガジン『未草』の中に、今年4月から、「Book Review」の姉妹編として「Letter: Black Sheep and white Sheep」というコーナーが設けられています。

Letters:Black sheep white sheep | 未草

 

このはじめのシリーズとして、『あらためて、ライティングの高大接続』(ひつじ書房)をめぐる、同署の著者2人(島田康行先生・渡辺哲司先生)と、あすこまさんとの往復書簡が展開されていて、とても興味深いです。

5月10日、著者陣からの「あすこま」ブログ記事における書評へのコメントが公開され、その3日後、あすこまさんから、そのコメントへの返信が公開されました。

www.hituzi.co.jp

www.hituzi.co.jp

このやりとりの中で、「アカデミック・ライティング」を、学術論文やそれに準じた/その方向性を目指したレポートではなくて、小中学校も含む学校教育全体で書かれているような「事実や意見を伝える文章」に拡張して考えましょう、という提案がなされ、それについて、肯定されるかたちで議論が進んでいるようなので、それに対しては、ちょっと違和感をもった。

たとえば、マクミラン社が提供しているオンラインのフリーディクショナリーで「academic writing」を検索すると、次のような語釈が表示される。

ACADEMIC WRITING (noun) definition and synonyms | Macmillan Dictionary

①エッセイや研究論文、その他の学術的文章に使用される、フォーマルで、かつ、事実に関わる書くことのスタイル(a formal and factual style of writing that is used for essays, research papers and other academic texts
Whilst academic writing has its place, this mode tends )

 

②学術的なスタイルで書かれたテクスト(texts that are written in an academic style)

 

なんでもかんでも辞書的な定義に忠実になるべきとは一切思わないけれど、あまりにも原語の定義から拡張すると、何がなんでも「アカデミック・ライティング」になってしまうようで、わたしにとっては、息苦しい。

わたし自身は、大学院時代に、「vocational Literacy(職業リテラシー)」とか、「venacular Litearcy(ヴァナキュラー・リテラシー)」とかに関心をもって研究をしていた時期があり、

さらにいうと、今、まさに、宮澤先生と進めている「つながりの学習(Connected Learning)」(初版のレポートはすでに日本語で読める→『つながりの学習(Connected Learning)』)と国語教育・読書教育をつなげる研究のなかでも、「アカデミック」でない領域につなぐための言葉やリテラシーの教育について考えていたところでもあったりする。

 

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あすこまさんが本書についてコメントした、はじめの記事でも、大学進学率が半分強に過ぎないこと、アカデミック・ライティングが多様な書き言葉の実践のひとつにすぎないことは指摘されているので、おそらく、その当初のコメントの趣旨を踏まえたうえで、議論が修正されていくのだとは思うのだけれども、現在の議論の流れを見ると、少し不安を覚えてしまう。

 

私自身は、奇しくも、アカデミックに書くことの文脈のなかで、「アカデミック・ライティング」のスタイルを問い直すという、奇妙な経験をしてきました。博士論文では、1章分もかけて、「自分自身がこの論文をどのような文体で書くべきか」について論じていますし、(さすがにそんなに書く必要はなかったのでは、と今になって反省していますが)いまだに、論文を書こうとするたびに、「この論文は、どういう文体で書くべきか?」をはじめに考えてます。

 

おそらく、私のように、ヴァン=マーネン(1999)『フィールドワークの物語―エスノグラフィーの文章作法』に影響を受けて文体を捉えなおしたり、ケネス・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』などの議論を受けて、自分自身の研究を伝え、届け、議論するためのメディアそのものについて問い直している研究者は、たくさんいると思います。

 

そんな文体そのものの問い直しのなかで、「アカデミック・ライティング」とは、「書き手自身を、人々が生を営む世界から遊離した超越的存在(『神様』のような存在)に置き、第三者的に何かを眺めたような視点で書くことで、なんらかの『発見』を見出そうとする文体」ととらえ、実際に、自分自身がアカデミック・ライティングの教育にかかわるなかで、それを学生たちに伝えてきたわたしにとって、「なんでもかんでも、アカデミック・ライティングととらえましょう」という提言は、「暴力的」にすら映るのです。

 

タラ・ウェストーバー『エデュケーション』を読んだ感想を、このブログにも投稿しました。 

kimilab.hateblo.jp

本書のタラである著者が、自分自身の揺らぐ記憶を乗り越え、本書を書くことができたのは、(歴史学において通常、採用されている)「アカデミック・ライティング」の視点・技法に依るところが大きいと思います。

「アカデミック・ライティング」の視点・技法がもつパワーは、たしかに大きいし、それでないとできないことはたくさんあります。

ただ、それだけに、そこで通常に採用されている文体では「できないこと」もたくさんあって、わたしのように、質的研究にこだわってきた人たちの多くは、その文体とずっとずっと、格闘してきたのだと思うのです。

 

そのことを、いま、書かなければならない、と思って、ブログ記事を書きました。

わたしたちの生きる世界には、多様な読むこと・書くことがあり、その多様性を守り育むことが、国語教育の役目だと、わたしは思います。

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華雪《紙に字を植える》ワークショップより

 

 

 

 

 

ドリームランド、夢の跡地を生きる神鹿たち

横浜に移住いしてきたときから「行きたい」と繰り返し言いつつ、なぜか、行くことができなかった、横浜ドリームランド跡地に行ってきました。

旧ドリームランドに興味がありすぎて、年に一度の、横浜薬科大学の先生方との邂逅の折には、本来の業務も忘れて、現在、薬科大学の図書館として利用されていると噂の旧エンパイアホテルについて聞きまくり、

hamarepo.com

元日に最上階の展望ラウンジを地域の人たちに開放しているらしい、」とか、

「実は地下のボウリング場がいまも薬科大学の施設として残されていて学生や教職員の交流イベントで使われているらしい」とか(このニュースによると、地域の人にも開放されていたっぽい!)そんな話を、聞いては、ドリームランド跡地への妄想ばかりを膨らませていたのですが、ついに、訪問が実現しました!

 

今回、訪問したのは、かつて「ドリームランド春日神社」という名前であったこともあるという相州春日神社

ドリームランドを運営する日本ドリーム観光は、横浜ドリームランド開園以前に、「奈良ドリームランド」(ミラーサイト)を開園しており、そのご縁で、奈良・春日大社の御分霊を歓請してできたのがかつての「ドリームランド春日神社」であり、現在の相州春日神社であるということです。(なお、このご由緒は、実際に神社に「由緒」として示されています

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相州春日神社・手水舎

 神社について、それほど詳しいわけではないけれど、それなりにいろいろな神社の「由緒」を知ってきた人間としては、「そんなのアリなんだ…」と思うような「由緒」で、まだまだ、世の中には知らないことが多いんだな…と思わされます。

 

そしてそんな相州春日神社ですが、それほど大きいわけでもない神社の敷地内に「神鹿苑」があり、10頭以上もの鹿が飼育されています。

 

…なんですが、なんだか、やたら遠い目をしているような…

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相州春日神社の神鹿

なんか、やたら、何をするにも渋い顔をしているような…

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相州春日神社の神鹿

人生、酸いも甘いも知りきっている感じがする鹿たちです。

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相州春日神社の神鹿

 遠く、奈良の春日大社から、「ドリームランド」つながりで、横浜にきた神鹿の子孫たち。

その子孫たちに、この夢の跡地は、どう見えているのだろう、と気になって仕方ありません。

自閉症的世界のトランスレーションのトランスレーション~映画『僕が跳びはねる理由 (The Reason I Jump)』

日本語版のタイトルが、東田直樹さんの原作タイトル『自閉症の僕が跳びはねる理由』ほぼそのままなので、『自閉症の僕が跳びはねる理由』の映画化か、東田さんのドキュメンタリ―映画か?と誤解されそうだけれども、まったくそんな映画ではありません。
 
 むしろ、日本で映画公開するときにも、David Mitchellの訳書タイトル『The Reason I Jump』のままにしたほうが誤解が少なかったと思うくらい、トランスレーションにトランスレーションを重ねることによって、日本固有の「東田直樹」という固有名を離れて、ひとつの〈普遍〉へと向かおうとする作品だと思いました。
 
この作品を、あえて、東田直樹の語りという文脈に差し戻すことは、果たして、東田さん含む関係者にとって、望ましいことなのか…わたしには、わからないところがあります。今回の映画公開にあわせて掲載された、東京新聞での東田さんのインタビュー記事も見てみましたが、やっぱりよくわからない。東田さん自身の語りと、マスメディアの作り出そうとするストーリーとの間に距離を感じてしまいます。
 
自閉症の僕が跳びはねる理由』を英訳したDavid Mitchellは、SF超大作『クラウド・アトラス』の原作者です。
クラウド・アトラス』は、わたしも映画しか見たことないですが、予告編ですでに5分もある(!)という超対策で、19世紀から24世紀までの過去-現在-未来を横断しながら、様々な時代・地域で展開される6つのエピソードが、ひとつの共通するテーマでつながりあっていくSF超大作です
映画レビュー的には、トム・ハンクスが1人で6役を演じているというところも話題になっていました。他の役者さんもそれぞれかなり多数の役を演じているんですが、けっこうそれがわからなくて、びっくりする映画です。…うん。こんなこと書いていたら、また観たくなりました。
 
David Mitchellはそのの原作者なのですが、『The Reason I Jump』も(読んだことないけど)『クラウド・アトラス』的なナラティブをもった訳出がされているんじゃないか、と思うほど、このドキュメンタリー映画の持つ世界観が「クラウド・アトラス」的に見えました。
生きている時代は同じながらもバラバラの地域で、我々と異なる世界を生きてる人たち……その世界の異なる地域に生きる自閉症者たちの世界観が「東田直樹」の言葉のもとにつながっていくイメージです。
…あれ?そんな演出、『クラウド・アトラス』にもあったような……?と思いました。
 
予告編をみると、「驚きと感動の”体感”ドキュメンタリー」と書かれていて、「驚きと感動の」というのはあまりにも陳腐だと思つつ、体感に迫る音と映像のなかで、これまでとは異なる世界の「見え」が開かれた感じになるのは事実です。
いくつか異なる角度から切り取られた本編映像が公開され、すでにオンラインでも見られるようになっているようなので、いくつか見てみて、興味を持ったかたはぜひ映画館で観てほしい、と思う映画でした。
 
せっかくなので、いくつかご紹介します。
 
1.「雨が降っている」という状況を理解するまでのプロセスを描出する
 
2.すべての記憶がスライドショーのように共存していて、それが突然、嵐のように襲ってくる
そして、記憶の話。
かなり以前の記憶であるはずの幼少期の記憶も、さっき起きたばかりの真新しい記憶も、すべてが同じレベルで共に存在していて、それがスライドショーのように移り変わる……そして、それらの記憶とそこにある感情が嵐のように襲い掛かってくる、という風景です。
 
わたし、今も、この本編公開映像を視聴して、少しつらい気持ちになったのですが、そのくらい、記憶が襲い掛かってくるそのときの体験が、そのときの感情が沸き起こってくるような感じがしました。
わたしも、ときどき、過去のつらい記憶が突然襲いかかってきて、道端に座り込んでしまうときがあるのですけど、そのときのことが、それこそ、ワーッと「襲いかかってくる」感じがあります。
 
3.言いたいことが言えない、自分が自分の思うとおりに動かない
これは、いくつか視聴したなかでも、もっとも、好きな本編映像です。

わたしみたいに、学部から教育学などを学んできた人間にとっては、ここで映し出される「自閉症児者の言動」は、観察者的言語で「理解」される対象(「知識」)であったと思うのです。そして、いつの間にか、現実でそういう場面に触れるときに、ついそういう言動を見るだけで、観察者的になってしまっている自分に気づくことすらあります。そして、そういう自分を離れることは、本当に、難しいことなのです。

そういう観察者的な言語でしか見られなかった「言動」が、この映像のなかでは、彼ら自身の内なる世界観として現れ出てきていて、それを見るだけで、自分の世界がフワッと変わったように感じられました。同じものを観ているはずなのに、「観察者的言語」で観ずに、「うん。どんなことが言いたいの?」と、二人称的に向き合える関係になtっている……そんな自分に気づきました。

(さすがに、本編を観たあとだからそう見えるんでしょうか?これだけを観てもあまりわからないかもしれませんね。だとしたら、ごめんなさい!本編観てください!)

 

4.「僕が跳びはねる理由」

最後に、タイトルでもある「僕が跳びはねる理由」について描き出された本編映像をご紹介します。

この映像も公開しちゃうんだ!タイトルだけ見て映画を知った人から見ると、「こんな映像を本編映像として公開しちゃうんなんて、一種のネタバレでは?」とか言われそうだな、と思ってしまいました(笑)


www.youtube.com

 「跳びはねる理由」は、とても不自由で重いものだけど、跳びはねているその時間は、やっぱり「自由」で、その清々しさが映像からも伝わってきます。

 

KADOKAWA映画だし、マスメディアでもたくさん記事化されているみたいだし、きっと、たくさんの映画館で上映されるんだろう…と思って、「劇場情報」を確認したら、思ったより多くなくて、ちょっとびっくりしています。

映画館で、スクリーンの映像と音で観たほうが良い映画だとは思いますので、興味のあるかたはぜひ!とおすすめしておきたいと思います。

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21_21design sight「トランスレーションズ」展入口より

 

非可知(unknowable)な世界のサバイバーーともに学んできた4年間を振り返って

今日は、勤務先の大学の卒業式でした。

緊急事態宣言が直前まで続いていたことから、全学行事としての「卒業式」は中止となり、領域単位での「学位授与式」だけが執り行われました。

それでも、やっぱり、今日は「卒業式の日」なんだと思います。

 

今日は、一時、雨が降ったりもしましたが、数日前に一斉に咲いた桜が、かなり久しぶりにキャンパスに来る彼らを出迎えてくれたことが、せめてもの救いでした。

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キャンパス内の桜

実は、今年度送り出す卒業生たちは、わたしが、1年次必修のフィールドワーク授業「教育実地研究」を担当するようになって、はじめての学年の学生たちです。

 

この4年間は、わたし自身が、自分自身の教育・学習論を猛烈に問い直していた期間でもあり、まったく字義通りの意味で、学生たちとの授業の中で自分自身が学ばされてきた、考えを発展させてきた、という実感があります。

 

「教育実地研究」では、インプロパーク・鈴木聡之さん(すぅさん)による、学級づくりを視野においたインプロ(即興劇)のワークショップを経験したあと、当時まだ、効公立小学校で勤務されていた、あおせんさんの教室にみんなで訪問し、みんなで一緒に体育と道徳の授業を観ました。

そのとき、みんなと一緒に観た、プロジェクトアドベンチャーの手法を取り入れた道徳の授業がとても印象的で、そのときに感じたことから自分で考えを深めていった結果が、全国大学国語教育学会でのラウンドテーブルにつながっていったように思います。

そういえば、このブログ記事で使われている写真も、道徳の授業見学後、なぜか突如はじまった、「ヘリウムリング」体験の写真でした!なつかしい!

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 このときの「教育実地研究」受講メンバーの中のなんにんかは、その後、3月末に行われた「ワタリ―ショップ」インプロ×リフレクションにも参加してくれました。


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学生たちが1年生のときに、このように、「いま・ここ」の場で行われている学習に目を向けていく、ということが、わたしの中でもひとつのテーマになっていました。


2年次の必修授業「初等国語科教育法」では、わたしの中で関心がさらに進んで、自分のなかで生じた経験をいかに言葉化していくか、振り返りによって、それを次なる実践へと結びつけていくか、ということがテーマになっていました。

そのため、「対話型模擬授業検討会」の学部レベルでの展開を模索するような試みをしてみたり、
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アクティブ・ラーニング・パターン《教師編》」を用いた模擬授業の振り返りと、そのコメントに対して、ロカルノさんにさらにコメントをしていただく、というような「リレー企画」をやったりしてみました。

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3年次の教育実習とその振り返り、そして、さらにその振り返りにもとづく研究テーマの設定と卒業研究があり…これからいよいよ、学生たちが自分自身で、自分のなかの探求の「種」を育てるために何か自分にもできることがあるかもしれない!と思っていたタイミングで、新型コロナウイルス感染拡大の影響による、授業全面オンライン化の壁に直面してしまいました。

 

わたしのように、フィールドワークをベースにした研究調査を行ってきたものにとって、対面での活動が大幅に制限された状態で、学生たちの「やりたいこと」に基づいた研究調査をサポートしていくことは、本当に、困難なことで……、本当に学生たちが追及したいというテーマに寄り添うことができたのか、それを少しでもサポートすることができたのか、と振り返ってみると、「できなかったこと」「やれなかったこと」ばかりが思い浮かんできます。

 

そんななか迎えた、今日の卒業式。

わたし自身の探求のプロセスをともに走ってきてくれた、多くのことをわたしに学ばせてくれた学生たちから、たくさんの感謝の言葉にあふれた色紙をいただきました。


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わたしにとっては、「やったことないこと」にチャレンジするばかりの4年間でしたし、その活動をともにしてくれた学生たちにとっても「知らないこと」「やったことのないこと」は、たくさんあったのではないかと思います。

そして、最後の年には、わたし自身のみならず、誰にとっても「わからない」ことだらけの世界が訪れ、その「未知(いまだ知らない)」どころか「非可知(知ることができない)」とすらいえる状況のなかで、なんとか創造的にその状況を生き抜いていかざるを得ない状況がありました。

 

誰にも「正解」がわからない、むしろ「正解」なんてどこにもない、非可知な世界のなかで、わたし自身がなんとかここまでやりとげることができたのは、今日、卒業式を迎えた学生たちのおかげだと思っています。

彼らとともに4年間学んできたことの意味は、わたしにとっても、すごく大きい。

 

でも、卒業は「終わり」であり、「始まり」です。

わたしの研究室の卒業生たちは、4月から、公立小学校で教員として勤務したり、あるいは教職大学院でふたたび新たな探求を始めていきます。

彼らが実践や研究の現場で、新たな研究=実践をはじめるなかで、わたし自身もまたこれまでとは異なるかたちで、彼らと一緒に学んでいけたら――そんなことを思わずにいられません。

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キャンパス内の桜

 

コモン(共有地)としての「事実」を考える~「教育言説のファクトチェック:プレ入門」

NPO法人教育のためのコミュニケーションによる読書会イベント「教育言説のファクトチェック:プレ入門編」に参加しました。

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「教育言説のファクトチェック プレ入門編」

EVENT|教育言説のファクトチェック<プレ入門編>

 

岩波ブックレットとして発行されている『ファクトチェックとは何か』(立岩陽一郎・楊井人文, 2018, 岩波書店)を読んできて、それを手がかりにしながら、

「教育言説における「ファクト」とは?」「教育言説をファクトチェックすることには、果たして意味があるのか?」などなど、わたしと山崎さんが見出した論点を中心に、いろいろ議論をしつつ、「教育言説におけるファクトチェックの可能性(と限界)を見出していこう、というイベントでした。

  

「ファクトチェック」には、以前から関心を寄せていたのですが、それが決定的になったのは、自分自身が、ミスリード情報をリツイートしてしまったことでした。 

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 しかも、あとからこの記事の中にも誤情報があることが判明。当時、ファクトチェック・イニシアティブ(以下、FIJ)で、インターンをされていた方がこの記事を読んですぐに連絡をくださり、それをきっかけとした、インターンのかたとのやりとりを通じて、ますます「ファクトチェック」への関心が高まりました。

今でも覚えているのですが、わたしのブログ記事への誤情報の指摘してくださるその文体が、とても真摯で、かつ、ニュートラなものだったのです。

誤情報を指摘するとき、人はどうしても、「マウントをとった」ような語り口になったりがちです。でも、そういうものが、一切なかった。

わたしが記事中の誤情報を、即座に訂正すると、むしろ、丁寧に御礼まで伝えてきてくれました(わたしの見落としで完全に修正しきっていなかったので、再修正が必要だった、という間抜けなオチもあるのですが)。

わたしは、そのインターンの方とのやりとりを通じて、ファクトチェックという活動が「透明性」を大切にしているということ、その仕方を、体感的に理解したように思います。

 

ちょうど同じくらいの時期に、文部科学大臣の記者会見のなかで、 「今の教職養成課程では…昭和の時代からの教職課程をずっとやっているわけじゃないですか」「教えている大学のトップの人たちは、まさに昔からの教育論や教育技術のお話をしているわけですから」という発言がなされました。

そして、このような記者会見の内容が、「文部科学大臣が述べた」ということの「事実確認」だけでマスメディアで報道される様子を目にしてきました。

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 報道する側では、たしかにその内容を文部科学大臣が述べた、という「裏」さえとれれば問題ないのかもしれないけれど、一方で、そこで述べられている内容についての「裏」はとられない。

教育政策の動向をみれば、「昭和の時代からの教職課程をずっとやっている」とは言えないはずなのに、それがあたかも「事実」として出回ってしまう、そしてそれが次なる制作の「根拠」とされてしまう…そんな危機感を感じました。

そのようなことを、NPO法人を設立したばかりの山崎一希さんに相談していたところ、今回の読書会イベントに至った、というわけです。

 

 

昨日の読書会では、『ファクトチェックとは何か』(立岩陽一郎・楊井人文, 2018, 岩波書店)から、山崎さんはじめ、皆さんと議論したい論点として、「『事実』ってなに?」という問いを提示しました。

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昨日の読書会では、「『事実』ってなに?」という問いから、「事実」なるものの社会的構成(!)にまで議論が発展していきました。(突然、「ナラティブ・ターン」の話が出てきたり、社会構成主義の話が出てきたりして、聞き手の方には不親切なトークであったと反省しております)「事実」というものが、本質的に存在せず、それが社会的に構成されたものである、と指摘することは、けして、「事実」なるものを見なくてもよい、「事実」を等閑視してよいということとイコールではありません。むしろ「事実」を構築し、維持し、変化させていくような、わたしたちの日々の「事実」をめぐる実践をつぶさに観察し、それともに、わたしたちが幸せに生きることのできる社会・文化を生み出しうるような「事実」構築実践について、考えていくことが必要なのではないか。――昨日のディスカッションの至った地点は、このようにまとめられるのではないか、と思います。

 

 

昨日のトークイベント中、「教育言説のファクトチェック」について考えるための書籍として、佐藤郁也(2019)『大学改革の迷走』松岡亮二(2019)『教育格差』、小松光・ジェミールラプリー(2021)『日本の教育はダメじゃない:国際比較データで問い直す』(すべて、ちくま新書筑摩書房)が話題にあげられました。

 

また、「ファクトチェック」についてもっと学ぶためのおすすめ書籍として、FIJの元インターン生の方からは、立岩陽一郎(2021)『コロナ時代を生きるためのファクトチェック』(講談社)を挙げていただきました。山崎さんからは、ディビット・パトリカラコス(2019)『140字の戦争:SNSが戦場を変えた』(早川書房)をおすすめいただきました。今回の読書会で読んだ『ファクトチェックとは何か』を含む、FIJ・立岩陽一郎さんの書籍リストも作成してみました。よろしければご覧ください。

booklog.jp

こういうブックリストも、もっと作っていっていきつつ、また読書会などを継続していけると面白いのかな、と思います。最後に、昨日のトークイベントでは紹介できなかったけれど、わたし自身が昨日の議論を踏まえて、さらにこのような議論を深めていくために、皆さんと読んで語り合えたら面白いのではないか、と思う本を紹介しておきます。

 

1冊目は、筒井淳也(2020)『社会を知るためには』(ちくまプリマ―新書、筑摩書房)。書影の帯を見るとわかりますが、先行きが見えない世界のなかで「わからない」社会との向き合い方について、社会学の視点から論じた本です。

社会学のなかでの「知る」という行為を相対的に見ることのできる本で、社会入門としても、社会学入門としてもおすすめです。

 

 

2冊目は、佐倉統(2020)『科学とはなにか:新しい科学論、いま必要な三つの視点』(講談社ブルーバックス、講談社)。こちらは科学論です。1冊目と重ねていえば、科学の「正しさ」について批判的に議論しながら、科学至上主義にも陥らず、科学不要論にも陥らない、第三の道を探ろうとしている本です。

 

 

昨年、コロナ禍のなかで、この2冊が生み出されたことは、偶然ではないような気がしています。

ふたたび、この議論を発展できる機会があることを、願っています。

山崎さん、今回ご参加くださった皆さま、ありがとうございました。