kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

フレンドホーム(週末里親・季節里親)と社会的養護

フレンドホーム」に登録し、ついに来月あたりから、少しなにか活動できそうかな?という段階まできました。

こども未来横浜のページでは「フレンドホーム」について「児童養護施設で生活している、親や親族の面会の少ない子ども達を、 夏休み・お正月などに迎え入れる横浜市独自の制度です」と記載されています。「横浜市独自の精度です」とありますがが、他の自治体でも「週末里親」「季節里親」などいろいろな名前で、同様の制度があるようです。

shakaidekosodate.com

いわゆる「里親制度」に定められた「里親」になる場合、1年程度の研修があったりしたのち、地方自治体の長による「里親」認定を受ける必要があるようなののですが(「里親について」-こども未来横浜)、「フレンドホーム」の場合は「登録」のみなので、管轄の児童相談所に連絡をして、「フレンドホーム」登録希望の申請をし、その申請が通れば「登録」となります。

…と、このように書くと簡単そうなのですが、けっこう時間はかかるし、何回も説明やヒアリングがあるんだなぁ、という印象でした。

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「見る」の限界と「見えない」の可能性~松本美枝子《具(つぶさ)にみる》

国際芸術センター青森(ACAC)にて、4/16~6/19まで開催している、松本美枝子《具(つぶさ)にみる》を鑑賞する。

今回の展覧会のご案内をいただいてからずっと、わたしは、タイトルの《具(つぶさ)にみる》という言葉そのものが気になっていた。

それは、私がこれまでの松本美枝子さんの作品(仕事)のなかに、遠くにいる人びとに向けた言葉の存在を感じてきたからかもしれない。

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『精選版 日本国語大辞典』の「具・備(つぶさ」の項目を見てみると、次のように記されている。

〘形動〙

① すべてそなわっているさま。もれなくそろっているさま。完全なさま。

※地蔵十輪経元慶七年点(883)序「如来の所説菩薩の所伝、已来未来、一朝に備(ツフサ)に集りたり」

 

② こまかくくわしいさま。つまびらかなさま。詳細。

※書紀(720)神代下(寛文版訓)「乃ち更に還(かへ)り登りて具(ツフサ)に降(あまくた)りまさざる状(かたち)を陳(まう)す」

※平家(13C前)五「或御堂には三百余人、つぶさにしるいたりければ、三千五百余人なり」

 

この二つの意味を備える「具(つぶさ)」。

そこからは、砂粒を一粒一粒拾い上げながら、それを精工に丹念に並べ直すことによって、砂浜全体を完全に構築しなおすような途方もない試みがイメージされる。

目には見えないような一粒一粒に目をこらすような細やかさと、それを並べ上げることによって完全なる全体を創り上げるような壮大さとが、「具」という言葉には備わっている、ように思う。

 

そのようなことを考えつつ会場に足を運んだわたしを、はじめに出迎えてくれたのは、ピンホールカメラによって陸奥湾の波を映し出した作品だった。

陸奥湾の波が、独特のおだやかなスピードで寄せては返していくさまをピンホールカメラでとらえた作品は、とらえどころがなくぼんやりしているようで、「具」という言葉のイメージからは、ほど遠いところにあるようにも見える。

一方、その曖昧な視界のなかで突き刺さるように現れる光や、突然くっきりとした造形を見せる波のかたちは、私たちの記憶のなかにある「像」の姿を照射しているようにも見える。

私たちがあるものを見て、そこからある「像」を浮かび上がらせるためには、何かを「見る」ことと同時に何かを「見ない」ことが重要で、そうでないと、私たちはそこにある多大な情報の洪水のただなかにいるしかない。そのときわたしは、何も「見えて」いない。

そのように考えてみると、《具(つぶさ)にみる》こととは、ふだんの意識ではこぼれおちてしまうような、細かな粒を見ようと目をこらし、それを見ながら、自分自身が世界のなかを動きまわり、一つ、また一つ、「見る」ことを繰り返していくしかない。その果てしない、一つ、一つを「見る」ことの繰り返しによって、それを積み重ねながら、全体像を描こうとすること。それが「具にみる」ということなのだろう。

 

ある限られた角度から何かを「見て」、それを記憶したあとに、世界のなかを歩き、他の角度から同じものを「見る」ことで、世界の全体像が(遅遅としながらも)ゆっくりとその姿を現していく。

 

一方、世界はわたしたちがひとつひとつ丁寧に見ようとするその瞬間にも、大きく変わっていってしまう。だから本当は、ある瞬間の世界の全体像を完全に再現することは不可能なのだ。

このことを、ハッとするような経験とともに思い起こさせてくれるのが、《46番目の街》である。

青森大空襲をモチーフにしたこの作品は、青森市内の夜景を映し出した高精細の写真と照明、音響を組み合わせたインスタレーション作品だ。

展覧会入口側から歩き、夜景の写真を観ようと壁側に近づいていくと、突然、高い熱をもった強い照明に照射されるような感覚に陥る。光源をみようとしても、光があまりも強いなかで何も見えず、ただ近くにある暗い鉄の物体が強い光に照らされて厳しい光を放っている。その影を見た瞬間に、なぜか、ハッとした恐怖を感じる。

松本美枝子《46番目の街》(1)

一歩、二歩と先に進み、あらためて振り返ってみると、そこにあったはずの美しい夜景の写真は、完全に白い闇のなかに消失している。

残っているのは、さきほど恐怖とともに見た黒い鉄の物体と、その影がむきあう姿だ。

そのあまりにも似た二つの暗い物体とその影との間に、白い闇がある。

消そうとして消えたものとも思えない、あまりにも残酷な、記憶の消失。

松本美枝子《46番目の街》(2)

岡真理『記憶/物語(思考のフロンティア)』岩波書店)の議論を思い出すまでもなく、歴史的に残酷な瞬間を「具にみる」とは、そもそも、このような経験ではないのか、と思い知らされる。

あったはずのその瞬間、たしかに存在したその瞬間は、少し角度を変えて見直そうと思った瞬間に、いつの間にかその姿かたちを消してしまっていたり、かろうじてその存在を保っていたとしてもその姿かたちを大きく変貌させたりする。

その瞬間はその瞬間のものでしかなく、私たちが「具にみる」ことは、不可能であるのかもしれない。

そのくらいに、世界は、わたしたちが認識するよりもはるかに早く、知らないところで変わり続けている。

 

展示会場にある高精細な写真群は、それでもなお、写真家とテクノロジーの力によって、世界を「具に見る」ことに挑戦した形跡のように見える。

世界は知らぬまに変わり続けており、それをすべて見ることは不可能だ。だからこの挑戦ははじめから不可能な挑戦ではあるのだが、だからこそこの試みは可憐であり、そのなかで映し出される写真は、悲しく、美しい。

 

そして映像作品《もつけの幽霊》は、これら一連の「見ること」に迫る作品のちょうど裏側にあるかのように「見えない」世界を「見えない」まま、虚構によってつなぎあわせることによって、「見ること」の限界を融解させていくような可能性を提示する。

映像中、語り手が何度も「見た」と語る「見えない」ものの存在は、「見た」歴史的な瞬間のはかなさと、「見えない」ものを語りによって「見える」ものへと変えていくことの両方とを感じさせる。

 

「見る」ことの限界と、「見えない」ことの可能性。

それは、冒頭にみたピンホールカメラの写真映像で感じたことと、実は、ほとんど同じことであったことに気づく。わたしたちが日常的に「見る」「見ない」を組み合わせることで、はじめて何かが「見えて」くるように、「見える」「見えない」を組み合わせることによって、また違った「見える」を生み出すこともできるのだ。

 

現実と虚構の多層性によって生じる「学び」~マンガ×学びの拠点「マンガピット」

3月末にオープンした、マンガ×学びの拠点「マンガピット」

「マンガ×学び」をテーマにした初の施設ということで、とてもオープンを楽しみにしていたこともあり、4月中旬に早速、訪問してきました。

motion-gallery.net

「マンガピット」の蔵書やレイアウトについて、司書みさきさんにご案内いただく、というとてもスペシャルな時間で、「マンガで学ぶとは?」「そもそも『学ぶ』とはどういうことか?」など、たくさんのことを考えたり、話したりするきっかけをいただきました。

この「マンガピット」では「これも学習マンガだ!(これが学習マンガだ!)」選出マンガはもちろんのこと、学校的学習のための学習用図書として作られたような(いわゆる)「学習マンガ」もともに配架されていて、とても面白い蔵書空間になっています。

複数社の「学習マンガ」シリーズとともにストーリー漫画が並ぶ

 

こちらの写真では、ポプラ社のコミック版「日本の歴史」シリーズなど、いわゆる「学習マンガ」として発行されている日本史学習マンガの近くに、よしながふみ『大奥』
や、和月伸宏『るろうに剣心』が全巻設置されていることがわかります。

ここは、いわゆる「日本史」に関するマンガが並べられたゾーンですが、このようなかたちで、学校の教科名を「ジャンル」とみなした…いわば「教科ジャンル」(?)ごとにマンガが並べられているのが、とても面白い。

ふだんから学校教育に馴染みがあるわたしにとっては「教科」というものに対してもっている信念やイメージを捉え直すきっかえになりますし、一マンガ愛好家としては、自分の好きなマンガに対して新たな解釈を提示されたような感じもします。

どちらの側面から見ても面白い。

 

朧気な記憶をたどりながら、「マンガピット」内部の見取り図を書いてみたものがこちら!(「デジタルギャラリー」と書いたのは「E gallery」のことです)。

マンガピット見取り図(4/20時点)

「国語」ゾーンでは、古典作品のコミカライズ作品のみならず、「ドラえもんの国語おもしろ攻略」シリーズなどが並んでいるところです。「国語」の場合、「ことわざ」「慣用句」「故事成語」をテーマとした学習マンガがたくさんあるのだということを知りました。

国語ゾーン

そういえば、わたしも(マンガではないですが)ことわざは五味太郎の『ことわざ絵本』シリーズで学びましたね。なつかしい。

現代社会」~「キャリア教育」系、そして「理科(生物系が多い印象)」のゾーンをは、現実と虚構との関係がかなり多様で、つい「ここに来る人たちが、それぞれに「虚構」と「現実」とを見分けつつ、それぞれのスタイルで接合したりできるようなリテラシーが必要なのではないか」と考えてしまいます。

 

現代社会~キャリア教育系~理科ゾーン

もちろん、「国語」ゾーンにある古典のコミカライズだって、実際の古典文学のテキストとコミカライズされたテキストとの間には距離があるし(これは、虚構同士の関係ですが)「日本史」「世界史」ゾーンにある「学習マンガ」だって、おおいに虚構性はあるわけですが、現代社会にある出来事をモチーフにし、現代の社会に関する「知」を扱ったものだと、どうしてもそこで描かれているもの、現実との距離感やアプローチの雑多な感じが気になってしまったのかもしれません。

 

こんな感じで、現実と虚構とのさまざまな重なりあい方について考えていったあとに、「この世ならざるもの」(怪異や神仏から、死後の世界観に関わるもの、古代に関するものまでいろいろ含まれる)コーナーを見てみると、そもそも「現実」と「虚構」とをわけて考えること自体が無意味なことなのかもしれない、とすら思えてきます。

この世ならざるものコーナー

 

「マンガで学ぶ」とは、いったい、どのようなことなのか。

それについて考える、ひとつの視点は、現実と虚構との多層性にあるのかもしれません。

現実と虚構との境を曖昧にしながら、それがさまざまなかたちで重なりあうなかで、わたしたちがどのような経験をするのか、を考えること。それこそがマンガ×学びを考えるときのポイントになってくるのかもしれません。

 

「学び」に近い場所で「世界の見方を変える遊び」を遊ぶ~「漢文学者とやる漢詩×音ゲー『陽春白雪 』」と『ゲームさんぽ』

教職大学院で共同担当している「国語の教材デザイン論と実践Ⅱ(文学・テクスト)」の授業の一環として、『陽春白雪 Lyrica&続陽春白雪 結星諧調 Lyrica2 Stars Align』のゲーム実況をベースにした動画教材制作を行ってみました。

 

受講者1名(!)なので、どんな内容を「国語の教材デザイン論の実践」の「実践編」として行おうかな…と考えていたのですが、そんなくらいのタイミングでたまたま、いいだ/げーむさんぽ(@UraIida)さんが、「各大学がゲームさんぽでゼミ紹介やってくれたら面白そうだなー」とつぶやかれ、それを格闘系司書(@librarian03)さんがつないでくださった…というのが、そもそもの始まりです。

格闘系司書さんとは、2019年の図書館総合展のときに、連続ミニトーク「本とゲームとの幸せな関係!?」のひとつとして、漢詩漢文学)入門としてのゲーム~『Lyrica~陽春白雪』(ゲームアプリ、Switch)で迫る漢詩の魅力~」チラシPDF)というトークイベントを開催し、高芝麻子先生(横浜国立大学・准教授/漢文学)をゲストとしてお呼びしていて、そのときも、「これで、『ゲームさんぽ』みたいなオンライン動画をつくれたらいいよね!!」とお話ししていたこともありました。

そんなわけで、今回わたしがまっさきに思いついたのも、それでした。

ありがたいことに、高芝麻子先生は同僚でもあるので、「国語の教材デザイン論と実践」の授業内プロジェクトとして、受講生がホスト(案内人)となって、高芝先生にゲストとしてお話ししていただくような「ゲームさんぽ」のような動画を、高校国語(古典/漢文学)の教材動画として創れないか!?と思い立ちました。

 

ゲストとしてお呼びする高芝先生にお願してみたところこころよくお引き受けいただきました。そしてそれだけでなく、授業内での制作プロジェクトが進行するうちに、もともと「ゲームさんぽ」動画のファンでもあった素晴らしきゲームプレイヤーが仲間に入り、さらに収録直前に、ふだんからマルチプレイヤー型のオンラインゲームをたしなまれているために大変高価でマイクをお持ちであるという大学院生が仲間に加わってくださり、当初の予想をこえた素晴らしい環境&メンバーで収録を行うことができました。

ynukokugo.blogspot.com

ynukokugo.blogspot.com

 

その結果、できた動画がこちら!

 

本動画を、横浜国立大学教職大学院の公式Youtubeチャンネルで公開してもらいたいということで交渉してみたところ、横浜国立大学の公式チャンネルで公開してくださるだけでなく、横浜国立大学教職大学院「報告会・報告書」ページでも公開してくれました。

いいださんからも、なむさんからも反応をいただき、歓喜しております!

 

いま、ちょうど今年3月に発売されたばかりの『ゲームさんぽ:専門家と歩くゲームの世界』を読んでいるところなのですが、この本の帯には「これは世界の見方を変える遊び。」というキャッチコピーが掲載されています。

わたしは、いいださん&なむさんが、「ゲームさんぽ」を「遊び」として捉え、それを社会に向けてこのようなかたちでハッキリ提示されていることに、とても感銘を受けました。

 

 

わたしのこの解釈が正しいかどうかはわかりません。が、もし「ゲームさんぽ」が特定の誰かによる「コンテンツ」の名称ではなく、「遊び」であるとしたら、それはおそらく、誰もが自ら、自分で「遊び」をはじめられるような「何か」であるはずです。 

だれもがこの「世界の見方を変える遊び」を始まることができる。

そしていろいろな人たちがそれぞれにこの「遊び」を、いろいろなところではじめることで、日本中に、世界中に、「世界の見方を変える遊び」が野火のように広がっていく。「ゲームさんぽ」が、「野火的な活動(wildfire activity)」となる。

 

ゲームさんぽ:専門家と歩くゲームの世界』を読み進めれば読み進めるほど、この本は、単なる2年間の「記録」ではなく、これから「野火的活動」としてこの「遊び」を広めていくための「火種」となるべく編まれたものなのではないか、と思うようになりました。

そんなことを思いながら、2011年に自分が、当時東京で行われていた「野火的な活動」とそれを支えるネットワークやシステムについて書いたものを読み直してみると、当時、感じていたことと、『ゲームさんぽ』本で書かれていることに、どこか近いものがあるような、そんな感じがしてきます。

kimilab.hateblo.jp

 

そうであるとしたら、まず、わたしがすべきことは、教職大学院という、一番、「学び」に近い場所で、その「遊び」がどう遊べるのか、をいろいろ試してみるのかな、と思いました。

 

来年度も、同じように、「ゲームさんぽ」的に教材動画を作るようなプロジェクトができるといいなー。

Youtube動画のサムネイル



 

 

寺子屋大仙寺での「つくらない句会」

三重県伊賀市にある大仙寺の寺子屋寺子屋大仙寺」。

その寺子屋のサポーター(「寺子屋サポーター」)をしている関係で、昨年3月から、1年に1回、寺子屋に来ている中学生たちと「言葉で遊ぶ」機会をいただいています。 

昨年は、図書館たほいやで遊びました。

iga-daisenji.hatenablog.com

librarytahoiya.wixsite.com

 

今年は、オミクロン株の影響で、寺子屋自体が一時期、オンラインやハイブリッドでの開催だったこともあり、いろいろ考えた結果、千野帽子さんが『俳句いきなり入門』(NHK出版)で提案されている「つくらない句会」をやってみることにしました。

 

「つくらない句会」とは、その名のとおり、参加者が俳句を創らずにおこなう「句会」のこと。
今回は、中学生対象にした「つくらない句会」ということで、

現代俳句協会現代俳句データベースから12句、

長谷川櫂(監修)・季語と歳時記の会(著)『大人も読みたい こども歳時記』(小学館に掲載されている小中学生の句から11句

 

そして…

AI俳句協会「AIが作成した俳句一覧」からAIの作成した俳句12句を選び、

合計25句からなる俳句リストを作成しました。

 

この中から、「一番「これだ!と思う句」(特選)を1句、「好きだな」「気に入ったな」と思う句(正選)を4句、「これはない!」「文句つけてやりたい」句(逆選)を1句選んでください、とお願いしました。

それぞれの句を、2回ずつ、わたしのほうで読みあげて、少し時間をとったあと、結果発表。

その結果、こんな感じの結果(画像に示したものは、そのうちの一部です)となりました。

f:id:kimisteva:20220319193136j:image

 

もっとも高得点をとった、2つの句は大人も読みたい こども歳時記』(小学館に掲載されていた中学生の句だったのですが、個人的に面白かったのは、AIの作成した句がけっこう大健闘していたことでした。

たとえば上記画像で「4点」をとっているこちらの句。

 

これを「特選」といって紹介してくれた生徒もいたので、その生徒にはどんな想像の世界が広がっていたのだろう…と思いを馳せてみると、そのわかるようで、わらかない世界が見えるような見えないような不思議な感覚に包まれます。

 

一方、「全部、意味わかんないもん!」といって、「特選」「正選」を選ばず「逆選」だけを紹介してくれた生徒もいました。

その生徒自身の気持ちとしては「全部『逆選』」だったようなのですが、今回は「『逆選』中の『逆選』」1句を選んでもらいました。

その生徒が単に、全部の句に対して興味を失って「全部『逆選』」と言っているわけではなくて、ひとつひとつの句に、きっちり、1つ1つ「ツッコミ」を入れてくれていて、それをメモとしてきちんと残してくれていた(!)ということにも感動しました。

 

俳句いきなり入門』の中にも、何もつかない句より「逆選」が付く句のほうが、ある意味、印象に残るところがあったり、インパクトを残したりするという点で良い、というようなことが書いてあったと思いますが、この生徒にとっても、ひとつひとつ「逆選」をつける、ということが、俳句との向き合い方として意味のあるやり方だったのかもしれません。

 

美術館での対話型鑑賞をはじめ、ひとつの作品に対していろいろな人の「見方」に触れ、それについて話しを聞く時間は、やっぱり、わたしにとって特別な時間だとあらためて感じた時間でした。

物語を駆動する力の発生源について考える~インプロとTRPGと

インプロやドラマ教育関係の研究会でお知り合いになった先生(ご自身もインプロヴァイザーとして、公演の主催・出演もなさっています)からのお声がけをいただき、現在、一緒に「はじめてのTRPG(クトゥルフ第6版)プレイ体験会」シリーズ(仮称*1で遊ばせていただいております。

そもそものきっかけは、その方が、現在、輪読会か何かで、オクスフォード大学出版によるインプロ研究のハンドブック『The Oxford Handook of Critical Improvisation Studies: Volume2』を読んでいらっしゃって、その中で「TRPG」について扱った章があったこと。

 

The Oxford Handbook of Critical Improvisation Studies: Volume 2 | Oxford University Press

この本を目にしたことはないのですが、少し調べてみたところ、第22章「ロールプレイ、即興、創発的オーサーシップ (Role-Play, Improvisation, and Emergent Authorship
」(Celia Pearce)のところで、TRPGについての簡単な歴史の紹介があり、その中で、「ダンジョンズ&ドラゴンズ(Dangions and Dragons)」や、LARP(ライブアクション・ロールプレイング)についての説明などが紹介されているようでした。

…うーむ。今度入手して、ちゃんと読んでみなければ。

 

その先生からのお声がけから始まり、人と人とがつながり、3回シリーズの「はじめてのTRPG」シリーズが実現することとなりました。

具体的にはこんな感じです。

Stage1 タイマン(1人用)シナリオによる1時間程度のセッション

Stage2 ペア(2人用)シナリオによる2~3時間のセッション

Stage3 2~4人用シナリオによる5時間以上のセッション

もともとの計画だと、「Stage2」は、オフライン(対面)でのセッションを予定していたのですが、オミクロン株の猛威が拡大したことにより、急遽、オンラインセッションに変更。その結果、3回とも、オンラインでのボイスセッションのみでプレイ体験会が実施されることになりました。

 

2月上旬に行われた、はじめてのセッションでは、死にたがり電車を体験。

難易度が高くて、プレイヤー自身がなにも気付けないと、まったく意味がわからないまま死んでいくというシナリオのようなので、「せっかくクトゥルフなんだし(?)、もはや死んでやれ!」というくらいの勢いで臨んだのですが、「小さい子どもは守らなきゃ!」という思い(職業病)を炸裂させた結果、なんとか生き残りました。

 

…そして!

その2週間後に迎えた今回のセッションでは、ついに、はじめにお声がけくださった一緒に2人でプレイヤーとなり、ペアセッションを体験することができました。

今回選んだシナリオは、ロールプレイ重視のシナリオだったので「いったいどうなるんだろう…」と不安と緊張、そして期待でいっぱいになりながら、プレイ会当日を迎えました。

 

ちなみにこのときに体験したシナリオは、稲妻のように燃えて寄せ

COC6版【稲妻のように燃えて寄せ】 - 左に右折 - BOOTH

このシナリオは、宮澤賢治『銀河鉄道の夜』をモチーフにしたシナリオで、2人のプレイヤーの関係は「友人、親子、恋人同士など、知り合い以上の関係を推奨」とのことで、2人で話し合って、関係性を相談したりしながら、キャラクターを決めたほうがよいのかな?と思っていたのですが、「(当日までに)それぞれキャラクターを作成してきてください」というゲームキーパー(KP)さんからの指示もあり、それぞれ別々に、キャラクターを考えてくることになりました。 

 

こんな流れで、それぞれにキャラクターを考えてきたあとに、オンラインでのプレイ体験会という流れで、「稲妻のように燃えて寄せ」をプレイしたのですが、インプロや演劇に対しても、TRPGに対しても「初心者」であるわたしから見ると、この2つの文化の間でズレがあるなぁ!と感じる瞬間がいくつかありました。

 

それは、物語を駆動させる力を、どこからどのように発生させるのか、ということにかかわりそうです。

 

もちろん、インプロ(即興劇)もいろいろ、TRPGもいろいろなので、今回1回のセッションで感じたことを、過度に一般化して、「インプロでは~」「TRPGでは~」と一般化して語ることはできません。

TRPG」に関しては、以前司会として登壇させていただいた「TRPG勉強会inYoutube Live」のときにも、TRPGのプレイに関わる人たちが期待する楽しみ方や価値観は、本当にさまざまなので「期待マネジメント( Expectation Manegement)]が大切だ、という話も出ていました。そのくらいさまざまな内容・レベルの期待があるということなので、ひとくくりにすることにはほとんど意味がないとすらいえます。


www.youtube.com

 

ですが、少なくとも、今回感じた「ズレ」を言語化しておくことは、ロールプレイ(役割演技)への参加の仕方やその楽しみ方、物語をどのようにスタートさせ展開させ終わらせていくかに関する知(方法知)の違いなどを考えていくための手がかりになりそうで、考えたことを書いておきたいと思います。

*1:わたしが勝手に読んでいるだけです

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「隠れたカリキュラム」のなかの量的調査~「ここにいる」を言うための言葉を育てる(2)~

前回の記事で、2022年2月18日に行われた横浜国立大学附属横浜中学校での校内研究会(非公開)での提案授業「Fy74期生のコロナ禍における○○論~根拠の適切さを考えて自分の考えが伝わる文章になるように工夫する~」と、それに対する協議会での反応(に、わたしがショックを受けたこと)について書いた。

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この研究会のために、単元を構想し、当日授業を提案してくださった柳屋亮先生にとっては、それこそ休日返上で丁寧に考えてきた授業。

それが一蹴されたように感じたのではないか、と心配になり、前回記事で書いたような私自身の考えをメールでお伝えしたところ、これまた丁寧なご返信をいただいた。

 

柳屋先生ご自身から、転載の許可もいただいたので、メールの一部をそのまま引用する。

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