kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「読書教育の新しい試み」ドラフト完成

「読書教育の新しい試み−オタク文化論的視点から−」という、
冗談かギャグか、はたまた「言いがかり」としかつかないようなタイトルのついた依頼原稿のドラフトが、なんとか、完成した。


今回は、いわゆる「文芸部」の女の子たちの創作の世界観に触れたい、と思って、原稿を書いていた。
もちろん、そんなの「余計なお世話」であることはわかってる。
もし高校時代のわたしだったら、そんなこと言う人間には「そんなの余計なお世話です。放っておいてください!」と軽蔑のまなざしを向けて終わりであろう。

だけど、なんとなく、
「愚にもつかない」「評価に値するとは言えない」と、一蹴されがちな彼女たちの作品の世界を、あえて、とりあげることができたら、
そして、そこで彼女たちが表そうとした「何か」の…その裾野の部分にでも触れることができたとしたら・・・、
それだけでも、わたしが何かを書いた意味があるのではないかと、そんなことを思ったのだった。

もし、それでも彼女たちが、いつもどおり嘲笑の笑みを浮かべつつも、「まあ、でもそんなところもあるんじゃない?」と言ってくれたら、それだけでわたしは十分だ。

一見、奇妙にも映る文章レイアウトは、あたかもこの文章が詩であるかのような印象を与え、文章全体に詩的な雰囲気を作り出している。また、主に未成年の男子が使用する「僕」という一人称代名詞を用いた一人称語りの文体は、読者に、透明で硬質な印象をもたせる。この透明で硬質な文体によって語られるのは、死へとつながることでのみ関係を結ぶことのできる「僕」と「僕」の好きだった「先輩」の淡々としたやりとりである。「先輩」は「僕」にとっては唯一の理解者である。その「先輩」は「僕」が池に沈み、死の世界へ向かうことを望んでいる。そして、「先輩」自身も、「僕」にそのメッセージを残したあと、自ら樹海の中へ―すなわち、死の世界の中へ―向かってしまう。 この「物語」において語られているのは、死の存在を介することによって初めて生み出される人間同士の深い絆ともいえるものである。

…(中略)…

もちろん、このような「物語」は、あまりに死を美化しすぎているために、非難されることが多い。しかし、ここであえて残酷な死を美化する「物語」を創作することによって、この作品の作者である女子生徒が追究したものとはいったい何だろうか。おそらく、それは通常では実現しえないような、人間同士の深い絆なのではないか。そうであるとすれば、死を美化するという「物語」の表面上の特性のみを非難し、彼女たちから「物語」そのものを剥奪することは、彼女たちから人間存在に対する思索の機会を奪ってしまうことになりかねない。

ところでこの文章は、今回の原稿の中でも、おそらくもっとも危うい部分である。自分でも、わかっている。もしかしたら、編集委員会のチェックの中で削除されてしまうかもしれない。

でも、
もし今回、この部分が削除されたとしても、彼女たちが書いた「愚にもつかない」「評価に値しない」ような創作が彼女らのどういう思いのもとに生み出されていくのかを知りたい、と思っている。
そして、きっと、わたしはこれからそういう研究をしていくのだろうと思う。

そういう意味では、今回の依頼原稿は、ひとつ、この先を見つける「きっかけ」になった。
そのことを、いま、ここで、あらためて記しておきたい。