kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「誰でもないわたし」と「誰でもあるわたし」の間2:現代アートにおける「顔」

先日、ジュリアン・オピーの作品について触れながら、わたしは、「人間にとって『顔』とはいったい何だろう」と問いを発した。

「顔」とはいったい何か。

エマニュエル・レヴィナスが問いつづけたこの問いに、真剣に向き合いつづけているもののひとつは現代アートであろうと思う。特に、写真作品にはこの問いに取り組んだものが多いように感じる。それは「顔」というものが、紛れもなく、わたしたちの日常生活の中に重要な位置を占めていることと関係しているのかもしれない。写真は世界を切り取る。そして、そこに映し出されたものが紛れもなく、ひとつの「現実」であることを提示する。「これこそが間違いなく「現実」なのだ」と突きつけるという、そのメディアの特質こそ、わたしたちが「顔」とは何か、という問いに向き合うために必要不可欠なものなのかもしれない。


そんなことを思っていたとき、衝撃的な写真に出会った。

この写真がすごい2008

この写真がすごい2008

パートナーが買ってきてくれた大竹昭子編著『この写真がすごい 2008』に掲載されている《our faceの肖像2004/日本に住む様々な人々3141人を重ねた肖像》という写真である*1

タイトルどおり、この写真は日本に住む老若男女3141人の肖像写真を重ねたものである。見てのとおり、体のあたりや髪型はぼやけているのに、顔だけはくっきりと映し出されている。
小顔ローラーをして、フェイシャル・マッサージをして、スキンケアをして、ヘアメイクをして・・・、さまざまな人たちが、他者と差別化をはかろうと必死になっている「顔」。
「顔もみてないのに信用なんてできない」とよく言われるほど、個人の個別性の根拠とされている「顔」。
他人と異なることの証を一手に引き受け、美醜も人格もすべてそれが表すとされている「顔」。

その「顔」が、身体の他のどの部分よりも、「ほかの誰か」と共通している、というこの皮肉な事態はいったい何なのだろうか。
わたしたちはしばしば、制服の着こなし方やら髪型やらといった、ちょっとした違いに執念を燃やす女子校生たちを見て、「青春だなぁ」とほほえんだりするけれど、わたしたち自身もまた、他人とのほんのちょっとした違いに命をかけて執念を燃やしているのだと気づかされる。

・・・いや、もしかしたら、他人とほとんど変わらないからこそ、わたしたちは差異化することに執念を燃やすのかもしれないけれど。

*1:写真は、「北野謙写真展our face」http://g-176.net/schedule/050701.htmlより。また、「写真家北野謙」http://www.ourface.com/index.htmも参照のこと。