kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「子ども中心主義」の隘路

いまさらながら、苅谷剛彦『教育改革の幻想』(ちくま新書)を読む。

教育改革の幻想 (ちくま新書)

教育改革の幻想 (ちくま新書)

わたし自身の研究的立場は、よく「子ども中心主義(児童中心主義)」に分類される。確かに、わたしの論文には頻繁に「学習者中心の〜」(student-centerd・・・)という用語が出てくる。だから、大雑把にわけてしまうと、わたし自身も「子ども中心主義」ということになるのだろう。
しかし、わたしの研究を批判することが多いのも、どちらかと言えば「子ども中心主義」論者である。批判の論点は主に二点である。一つは、子どもたちを放ったらかしにしておくばかりで、教育的な関わりが欠如している・・・というもの。もう一つは、学校や教室の可能性を軽視している(あるいは、無視している)というものである。

簡単に言ってしまうと、わたしは「学習者(子ども)を中心にした教育を展開したいけど、それって公教育で全員一斉にやらなきゃいけないものじゃないよね。」というスタンスで研究しているので、どうもそれが、「子ども中心主義」論者の方には、「気持ちが悪い」のだと思う。「冷たい」「他の子どもたちはどうなるんですか!」と言われたこともある。
しかし私からすれば、体験型学習や問題解決型学習を、あらゆる学校で、あらゆる授業で、あらゆる子どもたちに一斉に学習方法として「強制」しているのだとすれば、わたしはそのほうが気持ちが悪い。

一斉教授であれ、体験型学習であれ、学習者に学習方法を選ぶ権利がないのであれば、それは子どもにとっては「強制」である。そのことになんら変わりはない。
「子供中心主義」は、「子どもたちの興味・関心を中心にしています」と唱っているだけ、そのあたりの感覚に疎いのではないかとわたしは思う。

苅谷氏はこう指摘する。

教育の論議をしていると、どうしても子どもに目が行きがちになる。子どもに目を向けずに教育を語ることは、正しい教育の論じ方ではない、といった主張がなされることも少なくない。「子どもが目に入っていない」「子どものいない教育学だ」等々、子どもの主体性を大切にしようという善意が、教育論議にはあふれている。教育とは、子どものためを思う善意のかたまり、であるかのような印象さえ受ける。
 私は、こうした考えを否定するつもりは毛頭ない。一人ひとりの子どもを大切にすることは、教育を考える上での一つの起点である。ところが、子どもに話が行くあまり、現代社会において、教育が巨大なシステムをなしており、経済や政治や文化、さらにはグローバル化といった現象と不可分に結びついていることを忘れがちになる。それは、日本の教育論議の特徴である。一人ひとりの子どもの学習や成長を語る水準と、公立の小中学校だけでも65万人以上の教師が働き、さらには年間20数兆円の教育費を使い、行財政を司り教育の運営にあたる官僚機構を有する巨大な制度について語る水準とを意識的に区別しないと、少なくとも教育改革については実りある議論はできない。

刈谷氏は、このような視点のズレを「ミクロとマクロの視点のズレ」と呼ぶ。

学校にせよ、美術館にせよ、教育の場のフィールドワークに出てみると、ここで指摘されているような「ミクロとマクロの視点のズレ」を実感することが多々ある。そして、こういうズレを実感するたびに、「現場の実践」や「現実の子どもたち」を大切にしようとする教育学が、なかなか、フィールドワーク研究に踏み込めないのは、このズレがあるからなのではないか、と思うことがある。
意図的にか、無意図的にかわからないけれど、子どもを中心とした教育を論じようとすればするほど、現実の教育における政治的・経済的な問題から目を逸らさざるを得なくなる。
これは、いったいどうしてなのだろう?

「子ども中心主義」はもう一度、現実の社会の中で、子ども中心の学びを展開する筋道を考え直すところに来ているのではないかと思う。
「べき論」だけを主張していても、もはや、現実はそれだけでは変わらない。本来の意味で、教師や子どもの生きる世界を見直してみること。そこからしか、新しい議論は生まれないのではないだろうか。