kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「キレイ」と「キタナイ」の政治学

高校生たちが一生懸命やっている、水戸でのプロジェクト。
たまたま、その話し合いに参加させてもらった関係で、メーリングリストの管理者などやっているおかげで、日々、そのプロジェクトの進行にともなう、さまざまな機微が伝わってくる。

なんというか、高校生たちが、シンプルに、自分たちのやりたいことに向かおうとしてる。
その様子が伝わってくるのは、うれしい。
なんか、だけど、一方でそれを渦巻いている大人たちのドロドロした政治の世界が、(そんなメールのやりとりからですら)見え隠れしているのが、なんか、すごく、いやだ。きもちわるい。

たぶん、それは、わたしが美化すべきものを、それほど、強く持っていないせいだと思う。
それをタテマエにして活動を起こす、「理想」とか「理念」とか「コンセプト」とか、そういうものを強く持っていないせいだと思う。

何かを、美化しようとするとき、つまり、何か「キレイ」なものへと向かおうとするとき、そこには当然、何かを排除する力が働く。
「キタナイ」ものの排除。
わたしにとっては、(「キレイ」に向かうために)その「キタナイ」ものを排除しようとする動きそのものが、醜く見えてしまう。

ヒトラーの潔癖主義は、非常によく知られている。
「キレイ」なものを求めるその思想が、「優生保護」思想となり、障害者やユダヤ人の大量虐殺へとつながったことも。
結局、「理想」とか「理念」とか、「コンセプト」とか、そういうものも、誰かの妄想の産物でしかない。

ヒトラーは、さまざまな哲学者や芸術家と親交があった。その中で形成された「理想」。その「理想」の結果としての、大量虐殺。
アメリカ合衆国が「正義」の名のもとにイラクを攻撃するのも、まったく同じ理屈だ。

だから、わたしは「キレイ」なものへと向かおうとする人たちやコミュニティを見ると、つい、一歩、距離を置いてしまう。気持ち悪いとおもってしまう。
シンプルに「やりたいから、やってます」といって活動しているのは、好き。
だけど、その活動がある特定の「理想」とか「理念」とか「コンセプト」に巻き込まれたとき、そこには否応なく、「キレイ」と「キタナイ」の政治学が働いてしまう。
何かが賛美される一方で、何かが敵視されたり、排除されたりする。

それは、ちょっと怖いことだと、わたしは思う。
高校生たちは、今、どういう思いでプロジェクトに取り組んでいるのだろうか。
わたしは、今、それが気がかりだ。