kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

哲学の無時代的読みかえ:《ベイビー・マルクス》と『まるくすタン』

かなり前、恐ろしく忙しいスケジュールの合間をぬって、横浜トリエンナーレに行った。

「今回の横浜トリエンナーレは、何がオススメですか?」と、ふだんあまりアートと関わりのない知人に尋ねられたら、わたしは間違いなく、ペドロ・レイエス《ベイビー・マルクス》[ペドロ・レイエス | 横浜トリエンナーレ 2008:title]を推すだろう。

・・・と思って、トリエンナーレ会場を渡り歩いていたら、そのとき配られていたトリエンナーレのフライヤーに《ベイビー・マルクス》の写真が掲載されていて、「やっぱり」と納得した。
しかし、この作品を多くの人が「おもしろい」と思い、作品の前に人だかりができてしまうあたり、日本の学校教育のパワーはすごいなぁ・・・と思ってしまう。字を書くことすらできない人々をたくさん抱える国がある一方で、国民のほとんどがマルクスエンゲルスを知っている国があるというのは考えてみるとすごいことだと思う。

さて、この作品。
わたしが一番おもしろいと思ったのは、この作品が、現代人にとっての「思想」をめぐる状況の一側面を端的に捉えているからだ。・・・しかも、おそらく皮肉をこめて。

今から約10年前くらい。ちょうど21世紀に突入するかどうかという頃から数年、AERAムック『マルクスがわかる』のような、いわゆる「猿でもわかるマルクス講座」本がやたらと出版されたことがあった。・・・そして、おそらくそれは今でも続いているのだが、このマルクス・ブームをきっかけにして、マルクスと彼に続く社会主義的な思想が、無時代的に読み替えられるという事態が、「当たり前」になってきたように思う。

もはや「マルクス」はひとつの「記号」(「マルクス」=「サヨク」)と化していて、「マルクス」という言葉を少し引用しただけで、「ああ、アレね」という感じで話を聞いてもらえなかったり、逆に、「オマエに何がわかる!」と激昂されたりするようなイメージがある。
こうなってくると、もはや、マルクスの思想とはどういうものなのか、マルクス哲学の本質とは何かとか、そういうこととは無関係に、「マルクス」という記号だけが流通していく。現代の日本における「マルクス」って、そういう位置づけにあると思う。

それを皮肉る意図があるのかないのかわからない危うい路線をいっているのが、おおつやすたかまるくすタン――学園の階級闘争』である。

まるくすタン―学園の階級闘争 (A‐KIBA Books Lab)

まるくすタン―学園の階級闘争 (A‐KIBA Books Lab)

マルクスが、女子校生になって現代に甦る・・・ってそんな状況にどうして萌えるのか、わたしにはいまいちよくわからないのだが、男ヲタのみなさんは『まるくすタン』で萌えるのですか?
逆に、マルクスエンゲルスが、全寮制男子校の男子生徒として甦って、放課後の図書室で、きたるべき社会とはどうあるかを熱く議論していて、そんな議論のヒートアップの中で、ふと空白の時間が流れ、「エンゲルス・・・。俺・・・。」みたいな展開になるのだとしたら、わたしは萌える。
でもそれは、哲学者がインテリ・キャラに読みかえ可能だからであって、マルクスを萌えキャラにしてどうするの!?・・・とわたしは聞きたい。そこに何があるのか、と。


閑話休題
それはともかくとして、これほど、マルクスの記号化を示す例はないと思う。
いまや思想家は「キャラ」に過ぎず、その思想そのものよりも、その人がどんな「キャラ」だったかという視点から、消費されているように思う。

まるで『ひょっこりひょうだん島』を思わせるような、《ベイビー・マルクス》のキャラクターたちは、そんな思想の現在形をそのまま表してるような気がする。
そして、あの作品を「面白い」と思って笑ってしまうあたり、わたしもきっと、その現代人の一人なのである。