kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「アートワールド」の再定義〜実践編〜

Kaikai kikiの2009年版カレンダーを送っていただく。

カレンダーの表紙はMr.(ミスター)氏の《スターティングオーバー》。
ここ数年、水戸芸術館に関わるようになってきてからいろいろ「現代アート」と呼ばれる幅広い作品群を見るようにはなってきたけれど、それでもMr.氏の作品が「アート」と見なされる所以は、いまだにわかりきっていない。
Selected Artworks: Mr. | Artist | Kaikai Kiki Co., Ltd.

その「わからない」という思いは、主に、「どうしてこの人だけが『アーティスト』を名乗る資格があるのか?」という思いに起因する。
わたしは、「文化」という概念をめぐるイデオロギーのせめぎ合いに関心が高く、それが昂じて博士論文までそのテーマで貫き通してしまった人間である。だから、「どうして、ロリ絵ごときが『アート』と呼ばれるのか」という疑問はまったく持たない。これは本当。だけれども、ロリ絵に限らず、同人カルチャー的な表現、個々の「作品」が持つとされる「著者性」からは遠く離れたところで意味を担ってきたはずだと、私は思うのだ。
カッコイイ言い方をすれば、「著者性」にたいする批評的な距離、というか。そういうものを集団的な文化の中で*1醸成してきたとわたしは理解している。

その同人カルチャー的な表現手段を、特定の「著者名」をもって「作品」として世に出していくこと。そのことになんとなく納得のいかない思いを抱えてしまうのである。

もちろん、「Mr.の作品は日本のおたく文化を引用し、発展させる」(http://www.kaikaikiki.co.jp/artists/list/C7/という紹介文にも示されているように、彼はただ、「引用している」だけ。それによって、すなわち、おたく文化の「引用」によって、従来のアートへの批評を作品の中で展開することによって、「アートワールド」(アーサー・C・ダントー*2の再定義を意図しているだけ。そう解釈することも可能である。
実際、美術館の中で彼の作品である、これらのロリ絵が飾られることを思えば、確実に「アートワールド」の再定義に彼の作品は寄与している。そう言わざるを得ない。

しかし「文化」の定義をめぐるイデオロギーのせめぎ合いへと目を転じたとき、彼がその引用元である「おたく文化」のもとにもたらしたものは、いったいなんだろうか、と考えざるを得ない。
彼は、「おたく文化」を「アート」化した。それは、「おたく文化」の戦略としては、いったい、どうなのだろう。「著者性」と距離をとり続けてきた(と、わたしは理解している)「おたく文化」にどういう影響をもたらすだろう、と。
そもそも、どうして彼の作品が「引用」だと言えるのだろうか。「引用」と「オリジナル」の違いが希薄な「おたく文化」的表現手段を用いるにあたって、「これは『引用』である」とハッキリ言うことのできるその根拠はいったいなんだろうか。


・・・・・・考え出すとキリがない。
今回、送ってもらったカレンダーを見ながら、あらためてそんなことを考えさせられる。
久々に、文化の闘争の場へと目を向けてみようか。

*1:つまり、個々人は別にそんなことを考えて亡くても、集団として戦略的にそうしてきた・・・ということ。

*2:「アートワールド」とは、アートを「アート」たらしめる芸術理論や美術史、批評家による言説・・・云々といったコンテクストのこと。ダントーは論文「アートワールド」(1964年)にこの概念を発表し、芸術理論・美学理論に大きな影響を与えた。