kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

ゼロからすべてをつくる「いじめられっこ」の物語

ポール・フライシュマン・作/ケビン・ホークス・絵『ウェズレーの国』

久々に、絵本を買いました。
しばらく見ない間に、絵本というメディアの可能性は果てしなく大きく広がったものだと、本屋に行くたびに実感させられます。それは、けしてピアノやゲームなどの付加的な機能が充実した、という意味だけではありません。内容的にもジャンルの幅が広がったというか、そんな気がします。

そんな中、ある方にすすめられて『ウエズレーの国』という絵本を手にしてみました。
この話、確かに、アメリカ的な独立独歩の匂いが強いところが気になるけれど、それでも全体に流れるすがすがしさは、これまでのいわゆる「いじめられっこ」物語にはないものだと思います。

ウエズレーの国

ウエズレーの国

このタイプの物語は、たいてい、「何の取り柄もない『いじめられっこ』だった子が実は・・・」という展開になります。『みにくいあひるのこ』がその代表ですね。
『ウエズレーの国』もその展開そのものからは大きく外れていないと思われるのですが、もっとも違うところは、主人公・ウエズレー自身の心に、はじめから一点の曇りもないところでしょうか。ふつう「いじめられっこ」の話だと、主人公は自分に対して否定的な思いを抱いているものですが、ウェズレーは自分の可能性をまったく疑うことなく淡々と生きています。その淡々とした姿が、物語全体のすがすがしさを作り出しているような気がします。

そのとき、とつぜんひらめいた。
おとうさんのいうとおり!
学校の勉強が、やくだつときがやってきた。
じぶんだけの作物をそだてて、
じぶんだけの文明をつくるんだ!

これが、この物語のもっともすごいところで、
ふつう、「いじめられっこ」の逆転劇は、既存の価値尺度を利用して行うものなのですが、ウエズレーはその「尺度」そのものを作りだすわけです。
勉強ができることを利用して、勉強で勝つ!・・・という話ではなく、「文明」を・・・すなわち、価値感のすべてをゼロから自分で作るという物語。
新しい「文化」とか「社会」を作ることそういうものにロマンを抱いてしまうわたしとしては、心の底から燃えました。
とはいえ、もう一方で、「これって、ビル・ゲイツ神話?」と思ってしまう、わたしもいます。現実場面に即して考えると、いわゆる「ナード」の子が新しい文化を創造していく話ですからね。ビル・ゲイツの伝記と類似している部分がないとは言えません。

ところで、日米教科書比較をしていたわたしの友人が、日本の教科書にはアメリカの教科書に多々ある「主人公が冒険によって成長してく物語」が少ないと指摘していたことがあります。日本でその類型に数えられる物語教材は『もちもちの木』だそうで、『もちもちの木』は・・・それはそれで作品としてはステキだと思いますが、やはりもう一方で「ここに居場所がないのなら、自分で自分の『文明』を作ってやる」というくらいの意気込みが、日本の教科書にも欲しいものだなぁ、とちょっと思ったりしたことを思い出しました。