kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「翻訳」という実践

翻訳 Translation
翻訳の実践は、言語的記号の恣意性に関する洞察(シニフィアンシニフィエとの関係は必然的ではなく慣習的である)をこれまで長く裏付けてきた。しかし、それにもかかわらず、ある「外国」のテクストをまったく同じ意味で正確に訳すことができるという信念はいまだに根強い。しかし、この「翻訳」という用語が現在、より広い意味で用いられるとき、諸言語や文化間に等しいものがあるとするこうした前提は・・・(中略)・・・疑問に付されている。

ピーター・ブルッカー,2003,『文化理論用語集』新曜社

「翻訳」の問題は、いつでも、わたしたちに、異なる文化間で「まったく等質なもの」というのは果たして存在するのか、という問いをつきつける。

“I am a cat.”は、「我が輩は猫である」と同義なのか。
どうも、違う気がする。だって、“I am a cat”には、「我が輩」とにまつわる日本語のニュアンスがまったく感じられない。むしろ、中学校の英語教育で習ったとおり「わたしはネコです」と訳すほうが、すんなり腑に落ちる。「我が輩」とか「わたし」とか「アタシ」とか「僕」とか、そういう自称詞のニュアンスは、英語に置き換えられない。

そもそも英語の“cat”そのものだって、日本の「猫」とまったく同じではない。
よくユング派心理学を気取った、いわゆる「心理ゲーム」というやつにおいて、「猫」は性的な欲求のシンボルとされる。
「ネコ耳」が萌え要素とされ、猫娘ツンデレ化している現代においては、そんなイメージもわからなくもないけれど、少なくともそれは“cat”とか“kitten”に付随するイメージだという気がする。「猫」にはもっと違ったニュアンスがある。もちろん共通する部分もあるけれど、すくなくとも、「猫」=“cat”ではない。


そんな「翻訳」に付随するさまざまな問題圏を、印象的なかたちで突きつける作品に出会った。

匂いをかがれる かぐや姫 ~日本昔話 Remix~

匂いをかがれる かぐや姫 ~日本昔話 Remix~

この本は、『一寸法師』『かぐや姫』『桃太郎』の3作品を、15種類に及ぶコンピュータの翻訳ソフトを使って、日本語→英語→日本語へと再翻訳し、それによって「新しい昔話」を作りだそうとしたもの。
あとは、説明するのも野暮なので、一部を引用するかたちで紹介したい。
日本昔話『かぐや姫』の一節。5人の求婚者たちにかぐや姫が条件を提示する場面。

「石作の皇子は、天竺にあるという仏様の石のはちを探してください。」
「お任せください」
「車持の皇子は、蓬莱山に入って真珠の実がなる金の枝を探してください。」
「必ずや」
「阿部の右大臣は、火に入れても燃えない火ネズミの皮衣を探してください。」
「うーむ。」

これが、↓こうなります。

「石により作られた帝国の子どもは、インドのフランス状態の1ストーン(6.35kg)のミツバチを探すことになっています。」
「どうぞ、去ってください。」
「自動車ホールディング帝国の子供は、永遠の青春期島へ行く必要があり、真珠がドキュメンタリーになるお金のブランチを探すべきです。」
「決して好かれないようです。」
「エイブ権利国務大臣は、たとえそれが情熱を与えるとしても、燃えない火災ラットのスキンローブを探すべきです。」
「浮動皮。」

「浮動皮」ってなんだ!「浮動皮」ってっっ!
どこでそんなに間違ったんだっ!

ともかく、なんだかずいぶんと気前の良い話のように聞こえますが、それってあながち外れでもいないのでは、と思えるところが面白い。
「自動車ホールディング帝国の子供」っていうのも、いいよね。なんか、フォード一族の末裔みたいで。
でも、そんなふうに、わけのわからない言葉の組み合わせから想像をふくらませて楽しめる人以外には、ちっとも面白くないのかな、と思ったりもします。まあ言ってみれば、ただの翻訳ミスですからね。でも、言葉からイメージをふくらませておもしろがれる人には最高に面白い本だと思います。


ちなみにわたしが一番好きなのは、「一寸法師」→「少量法律助言者」です。